第2話 魔女ミネルバ
針山地獄。
山を覆うのは人の腕の長さはある極太の針。
そこは小地獄の一つで嘘を吐いた亡者たちが送られる刑場であるため、常に大混雑している。
なぜなら嘘を吐かぬ人間などこの世に一人もいないからだ。
ゆえに本来ならば無数の針に貫かれた亡者たちの絶叫が響き渡る場所。
まさに阿鼻叫喚の地獄絵図。
そんな場所で、魔女が実験を?
ゆったりとした足取りで長いローブ風の裾を優雅にさばきながら、閻魔は小走りで先を行く獄卒の後を追う。
「あちらです!」
異変は随分前に気づいていた。
常であれば耳をつんざくような悲鳴が全く聞こえないのだ。
しかし完璧な静寂でもない。
うめき声とは違う、すすり泣きに近い音が重なって読経のような響きが広がっている。
そして視界に入って来た光景に、閻魔はただでさえ眼力の強い両目をカッと見開いた。
亡者たちは無表情のまま、針の上を歩いている。
足を貫かれ、身体を裂かれても、まるで何も感じていないかのように。
ただその両目からはとめどなく涙を流し続けている。
ゆらゆらと揺れる体が針山を上り、そして転げ落ち、また登っていく。
いったい何が起こっているのかと首を巡らせれば、すぐに元凶を発見した。
針山の麓で、両腕を組んで満足気に笑っている黒いフードをかぶった女。
「そこそこ成功ってとこね。痛覚の遮断は完璧。ついでに快感の感度も上昇させてみたのだけど、こっちはちょっと微妙な反応かしら」
閻魔はその姿を見た瞬間、すうっと肺の奥まで空気を吸った。
「そこの! 馬鹿女ぁ!」
大地を震わせる怒声が響き渡る。驚きで針山を上っていた亡者の幾人かが転げ落ちた。
閻魔の手にした笏がミシリと音を立てる。
肩を大仰に震わせ、振り向いた女の頭からフードが外れた。
流れ出す波打つ茶色く長い髪。口元には笑みを浮かべ、憤怒の形相をした閻魔を見て「はーい」と白い手をヒラヒラと振った。
「閻魔様、相変わらずいい胸筋ね」
服の胸元を盛り上げる閻魔の筋肉に、魔女の視線がチラリと向けられる。閻魔の眉間に皺が寄り、眉がつり上がった。
近くにいた小鬼が「あわわわわ。なんて不敬な」と声を震わせるのを無視し、閻魔は地面を軋ませて女へと近づく。
「何を、している」
「見ての通り、実験よ」
魔女は朗らかに答える。
だが閻魔の唇がスゥっと息を吸い込むのを見て、魔女は慌てて両耳に手を当てた。
「ここは、刑罰の場だ! 貴様の遊び場ではない!」
雷鳴が轟く。
小鬼たちがひれ伏し、頭を抱える。
針山を上っていた亡者たちの半数が転げ落ちた。ゴロゴロゴロと遠雷までがやまびこのように続く。
「ちょっと、至近距離で怒鳴らないでよ」
耳が痛いと顔を顰める女。
そして手にした小瓶を顔の前に持ってきて揺らす。透明な液体が中でちゃぷんと音を立てた。
「遊びじゃないわ。研究よ、研究」
紅も縫っていないのに赤い唇が弧を描く。
「痛みってね、単なる刺激なのよ。調整すれば、こうして――」
針山を上る亡者の頬に指を触れる。
針に貫かれているにもかかわらず、その罪人は、ぼんやりと……笑った。
「幸福にすら変えられるの」
いったいどういう原理だと興味本位から前のめりになった小鬼は、再度響いた雷鳴に肩をすぼめる。
「ふざけるな! ここは犯した罪を罰する場所だ! 痛みを感じなくさせてどうする!」
怒髪天。頭に乗せた礼冠も飛んでいきそうなほどの勢いで閻魔の怒声が響き渡った。
針山に残った亡者たちが針に縋りついて落ちるのをこらえていた。その顔は痛みに酔ったような得体のしれない幸福に満ちている。
魔女は閻魔の怒りすら娯楽の一部かというようにけらけらと笑い、「大丈夫よ」と告げる。
パチン。
魔女が一つ指を鳴らすと、空を貫く巨大な針山を覆うほど広範囲に淡い光が広がる。
次の瞬間——
「ぎゃああああああああ!!」
遅れてきたように、地獄本来の絶叫が響き渡った。
獄卒や小鬼たちが安堵と恐怖の入り混じった顔をする中、魔女はくすくすと笑う。
「どう? 痛みと幸福、不規則に来る波に怯える姿。より一層刑罰が苦痛になるわ!」
両手を広げて目を煌めかせて魔女は言う。
閻魔は額に拳を当て、喉から飛び出しそうになるありとあらゆる言葉を一旦飲み込む。
魔女には何を言っても効果がない。
後ろで「鬼より怖い女だ」と呟く馬頭獄卒の声が聞こえ、鋭い目で睨みつけた。
喉奥で悲鳴を上げ、筋骨隆々とした獄卒は鉄の棒を抱きしめて震えあがる。
数千年を共にした配下ですら、閻魔の怒りに打ち震え、恐怖し、閻魔の言葉に従う。
それなのにこの魔女は、一体なんなのか。
亡者の魂を吹き飛ばしそうなほどの勢いでため息を吐き、閻魔は笑顔で薬品を手にする魔女に告げる。
「好き勝手するなと忠告したはずだ。次にこんな馬鹿なことをしたらその手枷を焼くぞ」
「あら、そんなこともできるの?」
左手を持ち上げ、細く白い手首にはまった無骨な枷に目をやる。
それは魔女が地獄に来た初日にはめられたもので、閻魔の支配下にある者には全員つけられている。
亡者であれば閻魔が裁きを下せる。だが魔女は生者であり、生憎と数多ある地獄の一つへと放りこむことはできない。
それゆえ一旦は、閻魔の僕と同等の扱いとなっているのだ。
「東の地獄の支配者は俺だ。そこに居座ると言うのであれば、俺のルールに従え」
「はいはい。分かったわ。勝手はしない。でもちょっとぐらい地獄を楽しませてもらってもいいでしょ?」
足元に置いていた籠に薬品をしまって左腕に引っ掛け、竹ぼうきをもって立ち上がる。
その顔には反省の色は一滴も滲んでいない。清々しいほどに。
「ここは娯楽の場じゃない」
「でも、人生は楽しんでこそよ」
魔女は斜めにした竹ぼうきに足を引っかけ、ふわりと浮き上がる。
ほうきの柄にぶら下がったシャレコウベの伽藍洞な目の奥で、青白い炎が揺れた。
ここは亡者の嘆きで溢れる場。生きることを楽しむ場ではない。
そう口にする前に魔女は閻魔の頭よりも高い位置まで浮かんで、閻魔に向けて投げキッスを放った。
「それじゃ、またね。閻魔様。早く私の名前を見つけて頂戴」
「言われなくとも」
閻魔は魔女に向けてではなく、自分にそう告げる。
そして針山に背を向けて歩きだした。
「ミネルバ・マクシール。一刻も早くその名を閻魔帳から見つけ出して、この地獄から追い出してやる」
あるいは、亡者としてこの地獄に半永久的に閉じ込める。
その考えに、閻魔の歩みが一瞬乱れた。
「閻魔様?」
「帰るぞ」
獄卒に告げ閻魔は再び歩き出した。
地獄の秩序を乱す奔放な魔女の存在に頭を悩ませながら。




