第19話 閻魔の悩み
「婚姻の誓い? 病める時も健やかなる時も、死が二人を別つまでってやつかな? 西の現世の神の場合だけど。東だと違うんじゃない?」
ハデスから教えられた誓いの言葉に閻魔は顎に手を当て考え込む。
「俺たちは病むことはないし、死なない。ゆえに、その誓いは意味ないだろう」
「かぁあ! これだから、仕事仕事の朴念仁は! 女性はね、結婚に冥界の穴よりも深い憧れを持ってるんだよ。それを分かってあげなくちゃ。僕も妻を迎える時は無茶をしてしまって、今でも激しく後悔しているから」
そう言うハデスには現世と地獄を行き来する妻がいる。大昔、本人の意思を無視して地獄に連れてきて、ほぼ泣き落としで妻になってもらった逸話は神々の間では有名な話だ。
あれから千代はまったく閻魔殿に顔を出さない。
地獄に留まると決めたのだから、居をあのあばら屋から閻魔殿に移せと小鬼を通じて伝えても全く聞く耳を持たない。
一体何が千代の機嫌を損ねたのか。せっかくこれから一緒にいられると思っていた。柄にもなく、閻魔は浮かれていた。
それなのにどうやら閻魔は初手から失敗したらしい。
獄卒や小鬼に聞いてみても、何が悪かったのかさっぱり分からないとの答え。
そこでふと気まぐれに裁判を待つ亡者たちに聞いてみた。
その時の亡者たちの反応といったら……思い出すだけで閻魔は頭痛を覚えてうななり声をあげた。
『最低』『横暴だわ』『ロマンチックさの欠片もない』『モラハラ予備軍』『逃げて正解』『俺もやり直したい』『くっ、心の古 傷が』『私が相手に』『お前は黙っとけ』
理解のできない単語もあったが、一様に閻魔が悪いと口をそろえて言った。
そうして結局、閻魔は藁にも縋る思いでハデスの元にやってきたのだ。彼は彼で過去に失敗をしているので、それを踏まえて助言をしてくれるだろうと期待して。
「ミネルバちゃん……千代ちゃんか。可愛いねぇ。求婚をちゃんとしろだなんて」
ハデスは含み笑いながら、閻魔が手土産に持ってきた濁り酒に口をつける。
閻魔は羊肉の燻製を噛みちぎり、あの時の千代の反応を思い出す。
最初妻にすると言った時は嬉しそうだった。だがすぐにそれは怒りに変わった。
つまり妻になること自体は千代は嬉しいと感じている……はずだ。
「ただ妻という立場を与えるのはだめなのか? 獄卒や小鬼、亡者を管理する力も得られる」
「そういうことじゃないんだよ、閻魔くん。千代ちゃんは君といたいんだ。立場とかは関係なしに。君のやってることは心を込めて手作りしたものに、『これが欲しいんだろ』って大金を放り投げるようなものだ」
「そんなつもりはない」
「だったら、心を送られたら心を返すんだね。人間じゃなくなって忘れているかもしれないけど、人の心を失っちゃだめだよ、閻魔くん。これから永遠の時を共に過ごす相手の心をしっかりつなぎとめるためにもね」
そう言ってパチンッとウィンクを飛ばすハデス。
閻魔は反論しそうになる口をつぐみ、ぶちりと肉を食いちぎる。
情を失った覚えはない。亡者を裁くことは、時に情を捨て去らなければいけないことも、あるいは情をかけなければならないこともある。
すべては閻魔の絶妙な感覚で成り立っている。
だがそれは万人に対してであり、たった一人の女性に対してではない。
ここに来て心の在り方が問われている。
「心とは難しいな」
「特に女性の心はね」
息が詰まりそうなほど真っ白な居城で、ハデスは大仰すぎるほど神妙に言った。
シャクリと冷えた牛乳と優しい甘さが舌の上で溶けて広がる。
「あ、これは成功じゃないかしら」
「おう、美味い。今回の出来は上々だな。かき氷とも違う食感ができた」
「オデ、コレ、スキ」
厨長の大鬼と、ショウが同時に頷く。
二人の反応に千代は笑みをこぼして、もう一匙、氷菓子を口に入れる。
極寒の環境で亡者を責める八寒地獄にいる獄卒に頼んで、氷の塊を大量に届けてもらった。
常に暑い地獄では珍しい涼を楽しむことができるだけでも十分なのだが、せっかくだからと氷を使った菓子を作ってみた。
魔女として暮らした現世では氷や糖が貴重なため、貴族しか食べられない氷菓子。なんとなく覚えていた作り方で上手くできるか不安だったが、大鬼と試行錯誤してついに納得のいくものができた。
「閻魔様のところに、持っていくか?」
大鬼が巨体をかがめて、こちらを伺うように尋ねる。
千代は氷の上で冷やされた唐細工の陶器を横目で見て、ため息を飲み込む。
意地を張るのもそろそろ終わりにした方がいいかもしれない。
氷菓子を持っていったら、また元のように話せるだろうか。菓子作りに熱中していたのは、そんな期待もあったから。
「……うん。少し多めに入れてあげて」
「ああ。もちろんだ」
大鬼が霜が降りるほどに冷えた器を取り、その中に綺麗に氷菓子を盛り付けていく。
その時、魔女の左手が突然熱を持った。いや、左手首につけられた腕輪が熱を放っている。
なぜ、と首をかしげるよりも早く、目の前の空間が歪む。
それは彼が現れる前触れ──
「ここにいたか」
捻じれた空間の渦から全身が現れる前に、閻魔は大股で千代へと近づいた。
その勢いに千代は慌てて大鬼の手の中に器を指さす。
「あの! これ、食べて!」
閻魔の足が止まった。
閻魔は千代を見て、氷菓子を見て、大鬼と小鬼を見て「そんなことは後にしろ」という言葉を小さな唸り声と一緒に飲み込む。
そして左手でアイスクリンを大鬼から奪うように取り、右手に千代を掴んで歩き出した。
厨を出て、長い廊下を勢いよく進む。
「あの、それ、氷菓子みたいなものだから、溶けちゃう前に早く食べて」
「分かった」
閻魔は頷くがしっかりと握られた手はそのままだ。
千代は僅かに手を引く。
閻魔が半身で千代を振り返ると、千代はそっと手首に絡みつく閻魔の指を外し、するりと閻魔の手を握った。
千代から自分で手を繋いだくせに、二人の手のひらの間にどこか遠慮がちな空間ができている。
閻魔の目が緩やかな弧を描く。
閻魔は隙間なく指を絡ませて再び歩き出した。
「美味い」
一口目を食べ、閻魔がこぼす。
それから次から次へ、匙は一度も止まることなく器と閻魔の口を行き来した。
「八寒地獄から氷をもらってきたの」
「あそこの氷を菓子に使うとはな。さすが魔女だ」
閻魔は片頬をあげて笑う。
その言葉に千代は安心して微笑みを返した。
魔女になったことを今になって誇らしく感じる。苦しみも悲しみもあった。自分の運命を呪った。
でも全てを乗り越えた先がこの地獄であるならば、どんな極楽浄土よりも眩しく思える。
千代は両手を握りしめ、背筋を伸ばして閻魔へと視線を向けた。
「千代、この間はすまなかった」
閻魔の手から離れた先が、器に当たってカランと涼やかな音を立てた。




