第17話 魔女の真名
黒い漆塗りの箱が閻魔の前に置かれた。貴重な文を保管する箱、手文庫だ。
司命が両手を床につき頭を下げる。
「こちらに、魔女殿の名を収めております」
ついにきたか。閻魔は内心嘆息する。
見つからない日々が続き、いっそこのまま見つからないままでもとも思っていた。
だがそのまま放置するのも閻魔の性格上難しく、悶々とした日が続いていた。それがついに終わる。
「閻魔様?」
「……ご苦労だった」
司命に、そしてその後ろで彼と同様に頭をさげる小鬼たちにねぎらいの言葉をかける。
ミネルバ・マクシールの名を探す途方もない作業から、死亡記録のない生者の名前の捜索まで長い時間働いてくれた。
しばらくは休むといいと告げれば、小鬼たちは顔を輝かせて去って行った。
「司録」
「はっ」
「今日の裁判はもう終わりか?」
「……終わりにして、問題ないかと」
司録は司命と素早く視線を交わし答える。
恐らく問題はあるのだろうが、閻魔の意を汲んだのだろう。閻魔は苦い笑みを浮かべ、二人にも下がっていいと告げる。
二人の足音も聞こえなくなったころ、閻魔は手を伸ばして手文庫の蓋を開けた。
生者の書から魔女の記録だけを書き写したのだろう。薄い本が収められている。
閻魔はしばしただ黙してその黄なりの表紙を見つめ、指先で表紙を撫でる。
この中に魔女が魔女となる前の、東の領域に人間として生きていた証が記されている。
ざらりとした質感は触れた魔女の肌とはほど遠く、それが閻魔の心までざらつかせる。
亡者を裁く際、彼らの過去を読み上げ、そこに記された罪をつまびらかにしてきた。
これからすることは、それと寸分違わない。
魔女の過去を読む。ただそれだけのこと。
それなのになぜこんなにも心が重く、罪悪感すら覚えるのか。
ため息を押し殺し、閻魔はほんの数ページだけの魔女の人生の書を手に取った。
表紙を開く。
一ページ目の大半を占めるのは白。
中央に並ぶのはたった二文字――魔女の名。
閻魔は指先でなぞるように文字に触れた。
引き結んでいた唇がほどける。
「ここに、いたのか」
見つけた。
閻魔の心に落ちてくる。
己が求める存在を、見つけた。
心臓が熱を持ち、全身の血が沸騰しそうなほどに熱くする。
閻魔は息を大きく吸い込み、熱を追い出すように長くゆっくりと吐く。
そしてしばし両目を瞑って冷静さを取り戻してから、再び書をめくり始めた。
立ち枯れのような黒い木々が並ぶ。
死んでいるように見えて生きている黒炭のような木肌は意外に温かく、地獄のそこかしこで溶岩を垂れ流す火山の 熱をため込んでいるようだ。
魔女は立ったまま一際大きな木に背中を預け、ここ数日で固まり始めた覚悟を繰り返し反芻していた。
決意は変わらない。ただそれを口にするだけ。
すうっと息を飲み込んだ時、目の前の空間が揺らいだ。
それは閻魔が空間を移動してくる前兆。穏やかに刻まれていた鼓動が大きく跳ねた。
「探した」
長衣の裾を揺らし、閻魔が現れる。その手に一冊の本を持って。
まっすぐにこちらを見る強い眼差しに、魔女はついにその時が来たのだと悟った。
「どうしたの? 今日は裁判はお休み?」
「ああ」
いつも通りに軽口を投げれば短く答え、閻魔は魔女の数歩手前で足を止める。
トンッと後ろ手に木を押して魔女は背中を大木から離した。
「見つかった?」
「ああ」
互いの言葉に主語はない。
魔女は唇を引き結び、体の前で重ねた手に力を込める。
閻魔は本を胸の高さに掲げ、表紙を音もなく広げた。
指先がその中央をたどる。
伏せられた目が上げられ、魔女をまっすぐに貫いた。
厚い唇が開く。
閻魔の声が、魔女の耳に届いた。
「千代」
直後、魔女のためだけに綴られた書から淡い光が放たれた。
その中から文字が浮かびあがり、一つ一つが黒い蝶となって舞い始める。
それはやがて黒い渦となり、魔女の全身を包みこんだ。
黒い風が巻き上がる。
黒い蝶が舞い、渦を巻くように魔女の全身を覆った。
はらはらと光の粉が魔女へと降り注ぐ。
やがて蝶は一匹また一匹と光と共に消えていった。
そして最後の一匹が消えた時、そこには一人の女が立っていた。
長い黒い髪に、黒い瞳。素朴な着物に身を包んだ若い女だ。
「千代……それが、お前の本来の姿か」
閻魔が数歩の距離を縮め、手を伸ばして千代の髪に触れた。
さらりと癖のない髪が指の間を流れる。
「美しい髪だ」
つられるようにして、千代は視線を閻魔の手元に落とす。
それは魔女ミネルバではなく、千代の本来の髪。
魂が変容し、人の理からはじき出される前の。
震える両手を見る。そこに変化は見られない。
だが手首まで覆う着物の袖が目に入った。
素朴な染物の着物。そこに薄く描かれているのは赤いアキアカネ。
故郷の夕暮れの空が蘇る。
母が幼い弟を背負い、夕日を背にして名を呼ぶ。
「お千代ちゃんって……」
娘の名を呼ぶ母の声が聞こえる。
ぱたぱたとあふれ出た涙が両手に降り注いだ。
熱い雫は指の間を零れ落ちていく。
それはまるで記憶の蓋が崩れて溶けたよう。
次から次へと蘇る記憶に、千代は体を震わせてただ涙を流す。
その体を力強い腕が包み込んだ。
ただ何も言わず、震える肩を抱きしめて引き寄せる閻魔の腕。
その温かさに、千代は声もなく泣き続けた。




