第15話 現世の神々
目の奥が痛む。
ああ、これは泣きすぎたんだなと魔女は目を開ける前から憂鬱になった。
案の定瞼を開ければいやに重く、まつ毛のあたりは乾いているのにやたらと粘着質で、魔女はため息を吐いて目元を擦った。
「起きたか」
突如かかった声。魔女は驚いて体を揺らした。
赤と黒の溶岩を塗りたくった空を背景に、閻魔が廊下の柱に体を預け、片膝をたてた体勢でこちらを見ている。
手にしているのはいつもの徳利ではなくワインボトルで、形容しがたい違和感を覚えた。
その魔女の視線を捉えて閻魔はワインボトルをちゃぷりと揺らす。
「ハデスの差し入れだ。飲むか? ああ、いや。気を失ったような人間がすぐ飲むもんじゃねえか」
「飲む。ワインなら気付け薬にもならないし」
「そうか」
もぞもぞと起き上がると、普段使っているよりも上等な羽毛布団が体から滑り落ちた。
軽くて暖かい。このまま布団の中で丸まって惰眠を貪りたい思いを布団と共に引きはがし、魔女は立ち上がって閻魔の隣に腰を下ろす。
すぐに差し出されたグラスを受け取り、半分までワインを注ぐ閻魔に目だけでもっと注げと催促する。
閻魔は口角を上げて、魔女の要望通りにグラスの縁ギリギリまでワインを注いだ。
魔女はまるで水を飲むように喉を鳴らして、ワインを一気に飲み干す。
それから空になったグラスを揺らし、「なにこれ、美味しい。さすが地獄の酒」と言って鼻先をグラスに近づけて香りを楽しむ。
その様子から体調に問題はなさそうだと安堵しつつ、閻魔は自分のグラスにもワインを注ぎながら告げる。
「ハデスからの詫びだそうだ」
「あら、だったら私のじゃない。何を勝手に飲んでるの?」
にやりと笑う魔女のグラスに閻魔は黙ってお代わりのワインを注ぐ。魔女は今度はくるりと揺らして味わうようにちびちびと飲み始めた。
「東獄に住む者へちょっかいを出したんだ。支配者である俺に詫びて当然だろう」
「ふーん、まるで女房の権利を主張する旦那みたいね」
「なっ、にを、阿呆なことを」
咳き込みそうになるのを抑え、閻魔はその強い眼力で魔女を睨む。だが相も変わらず魔女はどこ吹く風だ。
二人の間にしばしの沈黙が落ちる。溶けた鉄が流れるような赤と黒の空を眺めながら、互いのグラスにワインを注ぎ合う。
やがてボトルの底が見えだしたころ、魔女は酒精の入った息を吐き出しながら呟いた。
「みっともないところ、見せたわ」
閻魔がワインボトルを揺らすのを目で促し、彼が最後の一滴まで自分のグラスに注ぐのを待ってから続ける。
「もしあいつらに会ったら、身に着けた魔女の力でぐっちゃぐちゃにしてやろうと思ってた」
「そのための地獄での実験か?」
「まあね」
地獄を巡り、罪人がどう扱われるのかを見て魔女の溜飲がやや下がったのは否定できない。
だがどうせなら自分も関わって、さらに地獄を味わわせてやりたいとも思った。
どう復讐してやるかを考える時間は楽しかった。
自分が魔女になってからの時間を考えると、復讐相手はとっくの昔に死んで罰を受けているかもしれないと半分は分かっていても。
それでも良かった。地獄を十分に楽しむ理由になった。
「力も付けたから、やれると思ったんだけどなぁ……弱いなぁ、私」
もうあの頃の何も力を持たない小娘じゃない。その上、ハデスによって完璧な場をお膳立てしてもらったのに、何もできなかった。
自分の中の自分に負けた。悔しさに魔女は唇を噛む。
「お前が弱いわけじゃない。ただ感情と体が別物というだけだ。肉体と魂が同じではないように」
「それはつまり私の心が弱いってことじゃない?」
知らぬ間に俯いていた視線を上げ、魔女は閻魔を訝し気に見る。
「心が弱いわけじゃない。ただ……そうだな。地獄で亡者が味わう痛みは体に蓄積される。それは亡者がたとえその地獄を離れたとしても魂に刻まれる。輪廻転生の六道を巡り、やがて人としての生を迎えたとしてもだ。体に痛みはなくとも、魂が記憶している。それは生者となっても忘れることはないだろう」
体が変わろうとも、心に刻まれた恐怖は忘れられない。それは弱さではなく、自然の摂理であり地獄の存在理由でもある。
罪を二度と犯させないように痛みで縛るのだ。
「この世の仕組みだなんて壮大なことを持ち出されたら、否定なんてできないわね」
「そういうことだ」
だからお前が弱いわけではない。言外にそう告げられた気がして、魔女は頬を緩める。
それを隠そうとグラスを口元に引き寄せるが、生憎もうそこには一滴の酒も残っていなかった。
すると微かな音と共に細身の徳利と、白磁のお猪口が置かれた。
「極楽の花園に咲く蓮華から作った酒だ。甘いが美味いぞ」
「そんな上等そうなの、もらっていいの?」
「駄目だったら出さない」
それもそうかと魔女は遠慮なく徳利とお猪口を手に取り、トロリとした黄金の輝きを持つ酒に口を付けた。
蜜のような甘さの後に、ぬるま湯に浸かっているようなじんわりとした温もりが指先まで広がる。
「美味しい」
魔女の呟きに閻魔は小さく笑みを浮かべ、服のあわせからいつも飲んでいる地獄の火酒を取り出して飲みだした。
いったいあの中にどれだけの酒を隠し持っているのかと魔女は閻魔の胸元に目を向け、突如、そこに縋りついて涙したことを思い出した。
一気に頬に熱が集まる。
「どうした? 酔ったか?」
「あー、うん。そうかも?」
誤魔化すように手を顔の横でパタパタと扇ぐと、閻魔は「甘いからって飲み過ぎるなよ」といってすっと魔女の手から徳利を奪った。
「あ」
指先が取り上げられた徳利を追って宙をかすめ、閻魔が徳利をしまった服の胸元へと倒れこんだ。
「なんだ、積極的だな」
「いいえ! 相変わらず、素敵な胸筋をお持ちで!」
崩れた態勢を戻そうとする魔女の背に、閻魔の大きな手が触れる。
「ははっ、お前は最初からそればかりだな」
そう言いながら閻魔は手を伸ばして魔女の髪に触れ、ふわふわと緩く波打つ髪を一束とって手慰みに揺らしてみせた。
酔っているのだろうかと魔女が眉を顰めれば、閻魔はおもむろに告げた。
「現世の神たちが……西の神も、東の神も、お前が望むなら人として生き直すのを受け入れるそうだ」
「え?」
驚きと共に顔を上げると、閻魔は魔女ではなく遠くの空の果てを見ていた。
おそらく、その雲の向こうにある現世を。
そしてそのまま続ける。
「魔女となって人の理を抜けた状態では、人として死ぬことはできない。だが神たちが言うには、輪廻の輪に産まれ直せるようにはできるらしい」
「生まれ直す……」
閻魔の言葉を繰り返し、その意味に気づいて魔女は両手を閻魔の頬にあてて思いっきり捻った。
ごきりと音を立てそうなほどに勢いよく閻魔の顔が魔女の方へと向く。
「おまっ」
「それって、つまり全ての記憶を捨てて、ただの人として生まれろってこと? 今までの私の……すべてを、忘れて。異界渡りのことも、魔女になったことも……ここの、地獄のことも忘れて?」
喉の奥が熱い。この感情を言い表す言葉がない。今日、憎い相手に会った時に感じた怒りとはまた違う激情が心を支配する。
なぜそんなにも冷酷なことを言えるのかと閻魔に対して憤りさえ湧いてきた。
「忘れることが、救いになることもある」
「そんな救いなら、私はいらない!」
ドンッと勢いよく両手で閻魔の胸を突き飛ばす。
だが逞しい彼の体はぶれることなく、反対にふらついた魔女の体を長い両腕で絡めとられた。
「危ない。酒も入ってるんだから暴れるな」
「放っておいて!」
「俺の話を聞け」
「嫌よ!」
「いいから」
ぐいっと腕を引かれてまた胸元へと魔女は捕われる。
体温の高い閻魔の肌に触れ、魔女は駄々っ子のように首を左右に振った。
すると閻魔はまさしく赤子にするように、魔女の背をトントンと規則正しく撫でながら告げた。
「選択肢の一つという話だ」
「いらない」
即答すると、閻魔はなぜか喉奥で小さく笑った。
そう魔女が言うのを分かっていたかのように。
「お前が名前を取り戻したら、どうするか決めればいい。現世に行くでも、西の地獄に行くでも……ここに、東の地獄に残るでもいい」
落ち着いた声で告げられ、魔女は閻魔の服に額をこすりつけるようにして頷いた。
どこか安堵したように閻魔はホッと力を抜いた。だがすぐに魔女の両肩に手を添えて体を離し、正面から視線を合わせて言った。
「ただ一つ、神々とも約束したことがある。一度、現世に戻ることを拒んだ魂を受け入れることはできぬと。もし、お前が地獄に残ることを決めたら、お前は未来永劫ここから出ていくことは叶わなくなる」
魔女の心臓が不規則に跳ねた。
閻魔の眉間に深い、深い皺が寄る。それが閻魔の苦悩を表しているかのようで、魔女は呆然と彼の顔を見上げた。
閻魔は再び魔女の髪に触れてから立ち上がった。魔女は瞬きもせずに彼を見上げる。
「ゆっくり、考えろ」
そう告げて去っていく閻魔の大きな背中を、魔女はいつまでも見続けていた。




