第14話 閻魔と西獄
「おや、閻魔。思ったよりも早く来たね」
「あれだけ堂々と東獄に入ってきて、よく言う」
ため息が空気を揺らす。
白く寒々しい空間に温かさが足された。
黒煙を履き続ける火山や、煮えたぎる溶岩を彷彿させるような熱。
懐かしさがこみ上げ、魔女の体から力が抜けてゆらりと揺れる。
「あ、おい、大丈夫か?」
傾いた魔女の肩に乗る重さと熱さ。閻魔の大きな手が視界の端に入る。
魔女の耳奥で鼓膜をかき回し続けていた叫びが遠のく。じんわりと肩から広がる熱が、凍り付きそうになっていた鼓動を後押しした。
「顔色が酷い」
閻魔が魔女の隣に膝をつき、顔を覗き込んだ。太い眉が寄せられ、黒曜のような瞳には魔女を気遣う心が見える。
それだけで、心の奥に温かな火が灯った。
閻魔はかじかんだように動かない魔女の指先を持ち上げ、そっと指の腹で撫でた。
「冷え切っている」
強張って絡まったままほどけない指を一本ずつ外し、閻魔は温めるように包み込んだ。
ゴツゴツとした力強い指先が、魔女の青白くなった肌を撫でる。触れた場所からじんわりと熱が滲んで溶けていく。
粗暴そうで、存外丁寧な仕草。右手の中指に筆だこができているを見て、そうだ、この人は真面目な人だった、と麻痺した脳が今この場に関係のないことを呟いた。
「おい、俺の声が聞こえるか?」
ぺちりと優しく指の腹で頬を撫でられる。
温かい。無意識に熱を求めてすりっと頬を摺り寄せれば、閻魔は微かに身じろいでから大きな手で魔女の頬を包んだ。
何かを言わなくては。自分は大丈夫なのだと。
震える唇を開こうとして、はくりと空気を食む。
喉奥をひゅっと風きり音のように鋭い音を立てた。
「おい、お前……ミネルバ? おい!」
その名前を呼ばないで。
それは自分じゃないから。
ゆるりと首を振り、魔女は閻魔を遠ざけるように彼の肩を押した。
苦しい。苦しい。怖い。
喉元まで込み上げる感情の渦が、呼吸を邪魔する。
息が苦しい。心が、苦しい。目の前が霞む。滲んだ涙が熱い。
息苦しさから、魔女は触れたままの閻魔の手にカリリと爪を立てた。
「クソッ、息を吐け。吸うんじゃない。吐くんだ」
声が聞こえる。
吐く? こんなに苦しいのに?
ひゅうひゅうと短い息がうるさい。苦しくて、目眩がする。ぽろぽろと流れ出す涙が閻魔の手を濡らした。
「落ち着け。落ち着いて呼吸をしろ」
太い閻魔の親指が魔女の唇を割り、舌を押し付け、喉の奥を押し広げる。反射的に噛みついた魔女の後頭部を引き寄せ、閻魔は魔女を胸元に抱えこんた。
耳に深く低い落ち着いた声が届く。
「ゆっくりだ。吸って、吐いて、吸って、吐いて。そう、それでいい」
魔女の口から指が抜かれ、呼吸を促される。
脳内を支配していた怨嗟の声は遠くなり、分厚い胸板の向こうからゆったりとした心音が響いてきた。
生きている。
いつものように開かれた着物のあわせから褐色の肌が覗く。触れあった肌は案外サラリとしていて、でも温かくて魔女の体からこわばりがほどけた。
とくりとくりと聞こえる力強い鼓動と、背中を撫でる手のぬくもり、耳に寄せられた唇から紡がれるぶれることない声。
それに合わせるように息を吸い、また吐いてを繰り返す。
か細い音を立てていた呼吸は、徐々に落ち着きを取り戻していった。
だらりと体から力が抜け、魔女は体重を閻魔の頼もしい腕に預けた。ずきずきと頭が痛い。涙を流した目が重い。すがりついていた閻魔の手を握る指先から力が抜ける。
「……疲れた」
ぽつりと、小さな声で告げる。
体と心の両方が疲労を訴える。
「そうか。そのまま寝ておけ」
うんと頷いた声は閻魔に聞こえたかどうか。
ふわりと体が浮き上がる。竹ぼうきに乗っている時よりも安定感がある。
「連れてくぞ」
「えー」
「そいつらはお前が責任を持って裁け。上のやつらとも話をつけてきた」
「そう言われちゃうとな。仕方がないか」
ハデスが拗ねたような声を上げた。
身じろいで顔を上げようとすれば、閻魔が大きな手で魔女の頭を胸元に引き寄せ「目を閉じていろ」と告げる。
その声に素直に従って魔女は暗闇の中に逃げ込んだ。
真っ白な空間で暴かれた亡者たちの罪はあまりにも鮮明過ぎて、目眩を引き起こす。
今はただ、全てを忘れて数百年ぶりの安らぎを求めて魔女は深い眠りに身をゆだねた。
「いい切っ掛けになると思ったんだよ」
東獄に戻り、魔女を空き部屋に寝かせてからしばらく、ハデスが東獄にやって来た。閻魔はハデスが詫びの品だと言って押し付けてきたワインを反射的に受け取る。
ちらりと布団に寝かせた魔女を見て、閻魔は顎で襖を隔てた廊下へとハデスを誘う。
いつかのように二人とも柱に体を預け、互いを見ないままに会話を続ける。
ハデスはシルクハットを膝の上に置き、縁をなぞりながらため息を吐いた。
「恨んでるんだったら恨みをぶつければいい。どうでもいいなら、それこそ極刑に処して忘れればいい。そう思って」
叱られた子供のようにちらちらと閻魔を伺いながら話すハデス。
閻魔は歯でワインボトルのコルクを引き抜き、複雑な切子細工のグラスにたっぷりと注いで匂いを嗅ぐ。
「……聞いてる?」
胡乱な目を向けるハデスに、閻魔はくいっとワインを喉に流し込んで唇を舐める。
「続けろ」
「って言っても、これで全部だけど。悪かったとは思うよ? ミネルバちゃんを勝手に連れ出して」
「そういうことじゃない」
ボトルを一旦床に置き、閻魔は肩越しに魔女が眠っているのを確かめる。
この感情をどう表せばいいのか。
地獄ができてから、これほどに閻魔の心をかき乱す存在が現れたことはない。
出会いの印象は最悪で厄介だとしか思わなかった。それは当たっていて、魔女が起こす騒動にどれほど振り回されたか。
だが魔女の過去を知り同情と庇護欲を覚えた。人としての理を外れることの無念を、閻魔も知っている。地獄の番人になる前は閻魔だって人であったのだから。
そして閻魔殿に通って閻魔たちの仕事を手伝う魔女の姿を見て、安堵を覚えた。それと共に、こんな場所でも笑う魔女の強さを眩しくも感じた。
今は……どうだろうか。
顔色を失い、息をすることすら忘れた細い魔女を胸元に引き寄せた時、自分の中に浮かんだ感情を閻魔はどう名付けるべきか知らない。
それは一度も閻魔が感じたことのない感情だった。
だがハデスへ感じる低温の炎のような怒りはまた別のもの。地獄の支配者であり裁判官である閻魔の矜持に関わる。
「人を裁くということは、重責だ。人の命運を左右する。その責任は我々以外の誰にも課すべきではない」
「でもさぁ、今回のような異質な案件で前例がない場合、被害者であるミネルバちゃんの意見は大事でしょう?」
「そうであれば、ミネルバ以外からも公平に聞き取りを行い、裁くべきだ。ミネルバ一人に押し付けるな」
「閻魔くん、やっさしー」
「茶化すな」
鋭い視線をハデスに寄こし、閻魔はワインをくるりと揺らして一気に呷る。
東の酒とは違う、果実の甘い香りと酸味が舌を覆う。
「現世の神が言うには、界渡りは把握していたが地獄に影響が出たのは寝耳に水だったらしい。西に生まれた者は西獄へ、東に生まれた者は東獄へ、界渡りに関係なく送られると思っていたと」
「なるほどねぇ。僕が現世に介入した時はぎゃーぎゃー言ってきたくせに、そういうことだけは逃げ足が速い」
「いつものことだ」
現世が荒れて地獄が混乱しようと、上の神々は素知らぬ顔。亡者が地獄を埋め尽くせば、魂のバランスが崩れることを全く考慮していない。
輪廻転生させるにも、現世が荒れて人の倫理観が崩れれば亡者の罪が増して人間に戻れる亡者が少なくなってしまっている。
「泰平の世を築くなどと妄言を吐いている時のほうがまだましだった」
「ははっ、それ、ご本人たちに言った?」
「釘は指しておいた。地獄の釜の蓋を文字通り開けたくなければ、現世をきちんと治めろと」
「効果のほどはこれからってとこだね」
パンッと手を打ち、ハデスは立ち上がる。
背中に手を当てて背筋を伸ばした後、襖の奥をちらりと見てから閻魔へと視線を戻した。
「これから、どうするのさ」
「魔女の名前を見つける」
「その次は?」
その問いに、閻魔は視線を庭の先に移す。
選択肢はいくつかある。その中から相応しい一つを導き出すのが閻魔の役割だ。だが魔女に対してそうできるかどうか。常に一本筋が通った考えを持ち揺らいだことがない閻魔だが、ここに来て魔女に対してだけは己に確信が持てなくなっている。
だから閻魔の答えは変わらない。
「魔女の名前を見つける。それから考える」
視線を外したままで答えた閻魔に、ハデスは軽く肩をすくめてシルクハットを頭に乗せた。
「それじゃ、僕は戻ってあの亡者たちを裁くとするよ。結果は知らせた方がいい?」
「知りたいと言われたら、聞く」
「そう。んじゃ、バイバイ」
ひらりと手を振るハデスに向けて閻魔は手にしたワインボトルを掲げる。
空間が歪んでハデスが去った後も、閻魔はその場にとどまって静かにワインを飲み続けていた。




