第13話 魔女と西獄
空気が変わる。
ここが常にじっとりとした熱が漂う東の地獄ではない、と肌が教えてくれる。
「目、開けていいよ?」
ごく近い場所から言われ、魔女ははっと無意識に閉じていた瞳を開けた。
パチリと一つ瞬きをする。
白い。
真っ白な居城だ。
塵一つ落ちていないような白さ。
靴についた泥が落ちてしまうかもと、足を動かすことをためらわせるような。
あまりの白さに目の奥が痛い。
「ようこそ、僕の治める西の地獄。西獄へ」
ハデスは両腕を広げ、舞台を紹介するかのようにその場でくるりと回る。
魔女はそれにつられるようにあたりを見回した。
複雑で繊細な白いレリーフが刻まれた壁や、そこかしこに置かれた白い彫刻。
その中で黒いスーツを着込んだハデスだけがぽっかりと異質な存在として浮かび上がる。いや、今は魔女も同様か。
「生活感がないわね」
「まぁ、生きてるけど生きてないしね」
パンッと両手を打ち、ハデスは歩き出す。
その後ろに続きながら、魔女は声が反響する天井を眺めつつ「どうしてここに?」と尋ねる。
ハデスはいつの間にか手にしたステッキをくるりと回し、それをまっすぐに伸びる廊下の先へと向けて言った。
「君に会わせたい人がいてね」
「会わせたい、人?」
西獄に?
斜め前のハデスの整った横顔へと視線を向ける。彼は楽し気に鼻歌を歌うだけで、それ以上説明する気はないようだ。
二人の足音と、ハデスのやけにメロディアスな鼻歌が荘厳な居城に響く。
やがて廊下の先に扉が現れた。白い景色に同化したように作られているが、悪魔を形どった悪趣味な装飾がわずかな陰影を浮かべている。
「さぁって、ご対面の時間だ」
そう言いながらハデスが扉を押し開けた。
途端、静寂は嵐のような轟音によってかき消された。
違う。嵐ではない。鼓膜を痛めつけるような嘆きや呻きの渦だ。
「これは……?」
戸惑いを隠すことなく、瞳を揺らして魔女は問う。
東の地獄にも亡者の叫びが常に響いている。だがここまでの苦しみと絶望を押し固めたようなものではない。
だがこの場に――見渡せば西洋風の法廷だと分かるこの場に集められた亡者たちは、魂がちぎられでもしたような悲鳴を上げている。いや、実際にそのように錯覚させられているのだろう。西獄の支配者、ハデスによって。
「ちょっとイラっとしてね。僕や閻魔くんの仕事を増やしてくれちゃった奴らを集めてみたんだ」
どういう意味か。
ああ、そうか。
疑問と答えが同時に下りてくる。
「こいつらが……界渡りを起こしていたやつらなのね」
「正解!」
手袋をはめた両手が鈍い拍手を奏でる。それはすぐに部屋を埋める叫びに掻き消され、魔女の耳に届かない。
ハデスはため息を吐いて、脇に抱えていたステッキでカンッと床を打った。直後、静寂が戻る。
相変わらず部屋の中では蠢く亡者の姿が見えるから、音だけを消したのだろうと魔女は悟った。
「見つけるのはたやすかったよ。ミネルバちゃんと会った時、こっちに引きずり込んだ奴らと関わりがあった人間を調べればいいだけだったから」
何かを期待するような目を向けられ、魔女は感情のこもらない声で「すごいわね」と言う。何がすごいのかは分からないが、褒めて欲しそうに見えたから。
それでもハデスは満足したのかステッキを揺らしながら、足を法廷の上座、裁判官の席へと向けた。
「ん? ミネルバちゃんもこっちにおいで?」
凍ったようにその場から動けない魔女にハデスは手招きする。魔女は一歩、また一歩と引きずるようにして前に出る。
耳奥で叫びが聞こえる。蠢く亡者からの視線を感じる。こちらに手が伸ばされるのを感じる。
亡者たちの救いをもとめる声が響く。
「……うるさい。うるさいうるさいうるさい! 黙りなさいよ!」
耐え切れなくなって叫ぶ。握りしめた両手の拳が震えた。
緩く波打つ長い髪が魔女の顔に落ちる。魔女は息を吸い込み、乱れた息を整えると顔をまっすぐに上げ、今度こそ堂々とハデスの元へとたどりついた。
「さて、始めよう」
ハデスが厳かに告げ、裁判が始まった。
それは弁護人のいない一方的な裁判だった。
証拠として出されるのはハデスが編み上げた記憶を再現する魔法。閻魔が使う浄玻璃鏡と同様の役目を果たしている。
次々と映し出される亡者たちの罪。
供物として捧げられるのは人間。老若男女関係なく虫けら以下のように命が奪われていく。
そして彼らの荒唐無稽な実験に気まぐれに答える、どこからともなく現れる悪魔たち。
ハデスの口元が歪に笑みを作る。細められた目の奥で剣呑な光が宿った。
「現世の神も役立たずがいるもんだ」
その呟きを聞き流し、魔女は無表情のまま膝の上で手を組んで映像を見続ける。
悪魔のいたずらにより、異界へと扉が繋がり、呼び寄せられる異界の人間たち。
彼らの命はもはや虫よりも軽く、実験動物のように弄ばれ廃棄されていく。
ぴくりと魔女の指が揺れた。
光り輝く円の中心に表れたのはまだ幼さの残る黒髪の女。キョロキョロと忙しなくあたりを不安げに見回す。
だがすぐにその首元に家畜にするかのように首輪が付けられ、その場から引きずり出されていく。映像はその後も異界から呼び出されてはゴミのように捨てられる人々を淡々と映していた。
いったいどれだけの時間が経っただろうか。目が乾くのもいとわずに映像を凝視していた魔女の前で、プツンッと魔法が途切れた。
真っ白な空間が戻ってきて、思い出したように一つゆっくりと魔女は瞬きをする。
「さぁって。これで全部かな。君たちが異界から浚ってきた魂の数は八十ニ。愚かな実験のために悪魔へと捧げた魂は三百を超える。すごいねぇ。よくこれだけの人間を殺せたものだ。人には生まれた時から良心があるというのは嘘偽りだね」
やれやれと呆れたため息を吐くハデスだが、肩をすくめる仰々しい仕草のせいで嘘臭さが抜けない。
魔女は頭の裏がわを指すような痛みに、額を抑えて深く息を吐き出した。
数百年前に与えられた痛みが今更ながらに疼いているようだ。
「で、どう?」
突然にハデスに声を掛けられ、魔女は緩慢に顔を上げる。
端正なハデスの顔がぐにゃりと歪んで見えた。
「え?」
遅れて聞き返した魔女へと、ハデスは歌うように言葉を連ねた。
「君には、こいつらを裁く権利がある。どうしたい? 魂が塵になるまですりおろして燃やすでもいいし、僕のペットに追いかけさせて生きたまま食べさせるでもいいし。なんでもいいよ。君が言う通りの罰をこいつらに与えよう」
「なんでも……」
疲れた頭で無意識に繰り返す。
組んでいるはずの指先の間隔がない。呼吸が浅くなる。
何度も蘇る、忘れたはずの、記憶の奥底に沈めたはずの感情が渦巻く。
いたい、こわい、つらい、かなしい、さみしい、にくい、にくい、にくい、にくい。
いやだ。やだ。こんなところにいたくない。
誰か……誰か、助けて。
「やめろ、ハデス」
低い声と共に、魔女の後ろに誰かが立った。




