第12話 地獄のお客
「まだ見つからぬか?」
「マダ……デモ、ホカノ、ミヅガッダ」
「そうか」
小鬼がよれた文字の並ぶ木版を差し出す。
受け取って閻魔は唇を引き結んで目だけで文字を追う。
それは生者の書に残された、死んでいるはずなのに死者の書には名がない者たちの名前。
そう、ミネルバ・マクシールのように異界に連れ去られた者たちの名だ。
ミネルバ・マクシールの真実の名前がこの中にあるのか。それともまだ見つかっていないのか。
直感だが、閻魔は後者だと考えている。
人の名と生と死は深く結びついている。
名は体を表し、死して残される名は人生を指す。
名の響きが、その人生を語る。
閻魔は木版を袖に入れて、小鬼に告げる。
「引き続き調査を。この名前はハデスに問い合わせる」
「アイ」
「無理はするな」
閻魔の言葉に小鬼はぎょろりとした目を潤ませて頭を下げた。
ハデスのいる西獄では、こちらとは反対に生者の書に突然現れた名前の調査を進めていると連絡があった。
死亡記録のない名前と、誕生記録のない名前。
それらを突き合せれば界を移動した者たちを相応しく来世なり、永遠の煉獄になり送ることができるはずだ。
ハデスから送られてきた書簡に目を通していると、当の本人がふらりと姿を現した。
徳利に入った魔女の作った薬草茶を出せば、ハデスは興味深そうに口をつけて「懐かしい味だ」と呟く。西の界でよく飲まれている茶のようだ。
「はい、これ。いくつか見つけた名前」
雑に差し出されたそれと、昼間に小鬼から受け取った木版を並べる。
界を渡った年代や性別、年齢、名前の響きを突き合せれば、少ない名前を繋ぐのは簡単だった。すべてではないが、ほとんどが西の地獄にてすでに刑を受けているようだ。
記録の調査に役立てるようにと、互いの紙と木版を交換する。
「これまで見つからなかった理由は何でだと思う?」
「まずは界を渡ることが無事にすんだ例が、ほぼないからだろう」
ハデスから渡された紙に残されていた、界渡りした後の人間たちの生涯は酷いものだった。
ほとんどが正気を失い、人としてまともに生きられず、自分であるいは他人によって人生を断たれているものばかり。
それは無理に理を捻じ曲げた影響だろう。肉体と魂が損傷せずにいられるわけないのだ。
「まぁ、そうか。魔女も……ミネルバちゃんも、ある意味は人としての人生を失ったしな」
人ではないモノ。
生きていながら人としての道から逸れたモノ。それは――
「俺たちと、似たようなものか」
閻魔の呟きに、ハデスは鼻で笑って同意する。
地獄は亡者の世界。生きていながらもそれは幻想であり、実体を持たず何も生み出さない。
「ああ、そういえば、ちょっと気になる記録を見つけた。もう少し調べて結果が出たら教えるから」
「分かった」
お茶ありがとうと言って立ち上がるハデスを見送る。
まだもう少しこの件が解決するのは時間がかかりそうだ。
それは決していいことではないはずなのに、まだもう少し魔女がここに、この地獄に留まることに安堵する自分に閻魔は気づかないでいた。
魔女の胴回りはありそうなこん棒が真横に振られる。亡者は悲鳴を上げ、死人よりも青白い顔をして腰を抜かした。
「うわぉ、すごいすごい」
ぱちぱちと口と手で同時に拍手を贈る。
目の前の獄卒はどこで覚えたのかむんっと筋肉を際立たせ、背中にゴツゴツとした陰影を作ってポーズを決めた。
そして再び亡者が這う這うの体で逃げ回るのを、巨大なこん棒を片手にドッドッドッとリズミカルな足音を立てて追っていく。
今日、閻魔は地上を治める神に会いに行くとかで、地獄を留守にしている。
ここ最近毎日閻魔殿に通っていたからぽっかり空いた自由時間に魔女は戸惑いながらも、以前のように空を飛んで地獄めぐりを楽しむことにした。
「地獄も慣れてしまえば、見知らぬ天国よりかはましなのかしらね」
「カカカカッ」
地獄のほとんどは亡者を責め立てる悲惨な場所だというのに。
閻魔殿に慣れ過ぎたのかもしれない。淡々と亡者が連れてこられては繰り返される裁判。
朗々と罪状を読み上げる閻魔の声。
極悪非道の限りを尽くした亡者に対して憤怒する姿も、情状酌量の余地のある亡者へ地蔵菩薩ごとき慈愛に満ちた言葉を描ける姿も。
誰に頼るでもなく、己の規範と信念を貫く閻魔。善悪の秤は決して歪むことなく、まさに正しく亡者たちの罪の重さを量りだしていく。
「あー、考えちゃだめ」
ふるふると顔を左右に振ると竹ぼうきがグラリと揺れる。シャレコウベが「カッカッ!?」と驚きの声を上げる。
ふとした瞬間に脳裏に浮かぶのは、意外と表情豊かな閻魔の顔。
魔女が地獄に来た時は呆れた顔と怒っている顔しかないかというくらいだったのに、最近は柔らかい笑顔とか、ちょっと揶揄うような顔とかも見られるようになった。
「まぁ、基本、いい人、なんだろう、けど」
ブツブツと独り言を唱えながら、魔女は徐々にほうきの高度を落としていく。
その先は小高い山。黒炭のような木々が立ち並び、さながら水墨画のような情景が広がっている。
ほうきを縦にして、ふわりと地面に足をつける。
この辺りには亡者も獄卒も来ない。空気を常に震わせる嘆きの声も聞こえない。
静寂、ただそれだけ。
幹も葉も黒い木の根元に腰を下ろし、背中を預ける。
溶岩が溶けだしたような赤黒い空を、時折稲光が明るく照らす。あの雲の海を抜けたら現世がある。
永遠に続く生に飽きて、もういっそ自分の命などどうなってもいいからと、自身に界渡りの術を施して突き抜けてきた。
失敗してもよかった。どうなってもよかった。
自分が誰なのかを見失って、誰かに縋りくとも信じることが怖くて。一人でいるのを寂しいとすら感じなくなるほど、心は無感動になって。
人としての生を失い、感情を失って、あるのは呼吸を繰り返すだけの存在。
もう、終わらせよう。
そう思って飛び込んだ地獄。
「名前なんて……」
どうでもよいとは口にできない。それは確かに魔女の望みの一つだから。
その時、空気が動いた。空間がグニャリとゆがむ。
それは幾度か見たことのある閻魔の空間移動のようにも見えるが、渦の中の色が違う。
魔女は手元に竹ぼうきを引き寄せ身構えて警戒した。
すっと現れたのは革靴を履いた足。続いて輪をくぐるようにぐいっと細い上半身が現れる。
少しずれたシルクハットを手袋をはめた手が神経質に直す。
「こんにちは、ミネルバちゃん」
「……こんにちは?」
シルクハットをかぶり、長いコートの裾を気障に広げて慇懃な礼をしてみせるハデス。
仮面のように整いすぎた完璧な笑顔に、ミネルバは自然と胡乱な視線になった。
竹ぼうきをトンッと地面に立て、ため息を吐いて告げる。
「今日は閻魔様はいらっしゃらないわよ」
「知ってる。だから来たんだ。最近ずっと君は閻魔くんと一緒にいるから」
「つまり、私が一人になるのを待ってたってこと」
「正解」
ピンッと人差し指が向けられる。
用があるのならばさっさと話せと魔女が顎をしゃくって促す。だがハデスは口を開く代わりに、白い手袋をはめた手を魔女の前に差し出した。
「なに?」
「僕の世界にご招待しようと思って」
ハデスの世界とは西の地獄か。
眉を寄せるて魔女は「行けないわ」と言って左腕を上げる。
「これ。閻魔様が付けたやつ。ここから出られないようにって」
「ああ、なるほど。んー、んー、ん-」
ハデスは鼻歌のような音を出しながら、魔女の手首にはまる無骨な腕輪を上下左右から観察する。
それからおもむろに右手から手袋を取り、指先をトンッとそこにあてた。
ヴゥンッと微かな振動が魔女に伝わる。ハデスはどこか満足気に「うん」と頷いた。
「何をしたの?」
「壊すのは無理だから、閻魔の施した”この界に留める”っていう術の部分を”許可がある界”って広げてみた」
「……勝手にいいの?」
「ダメだよ。だからとっとと行くよ」
「え? ちょ、っと!」
腕を引かれ、魔女は思わず竹ぼうきを取り落とす。
コロンッとそれが地に落ちる時、そこには魔女の姿もハデスの姿も書き消えていた。
「カ?」
ただ竹ぼうきの先についたシャレコウベが、横向きに転がって戸惑ったような声を上げた。




