190話 使者の来訪
里見館の表門が、静かに開かれた。
「――佐竹家より使者、到着」
その報せは、想定よりも早かった。
里見義堯は、すぐに桜を見る。
桜は一度、わずかに頷いた。
(来たか)
(想定通り……だが、早い)
使者は、格式を崩さぬ装束の壮年の武士だった。
名を名乗る。
「佐竹家家臣、小野崎通房」
無駄のない所作。
だが、視線は一瞬、港の方角へ流れた。
――あの南蛮船を、確かに見ている。
対面の間。
義堯は当主として、感情を一切表に出さず座している。
桜は一段下がり、記録役の位置。
「本日は、いかなる用向きか」
義堯の声は淡々としていた。
通房は、深く一礼する。
「は」
「このたびは――
度重なる商人の来訪、まことに見事」
その言葉に、義堯は眉一つ動かさない。
「ほう」
「我が主、佐竹義重は申しております」
「“あの積載量、あの回転、
そして価格の落ち着き方――
あれは偶然ではない”と」
桜は、内心で息を殺す。
(やはり、義重は誤魔化せない)
通房は、言葉を選びながら続けた。
「佐竹は、里見と同盟関係にあるわけではございませぬ」
「されど、長らく刃を交えることもなく、
互いに国境を侵さぬ関係にございます」
「ゆえに――」
一拍。
「今後も、
あの商人たちが我が領へ立ち寄ることを
願えぬか、との意を預かってまいりました」
その瞬間。
義堯の脳裏に、
桜と事前に交わした打ち合わせが浮かぶ。
――佐竹が来たら、否定しない。
――だが、認めすぎない。
――“商人の判断”を貫く。
義堯は、静かに息を吐いた。
「……商人の動きは、風のようなものだ」
「こちらが呼ぼうと、
呼ばぬと、来る時は来る」
通房の目が、わずかに細まる。
「では」
「佐竹が不利になることは、ないと?」
義堯は、ここで初めて視線を上げた。
「不当に利を奪うこともなければ、
不当に苦しめることもない」
「それが、里見の考えだ」
通房は、深く頭を下げた。
「……その言葉、確かに伝えます」
立ち上がる直前、彼は一言だけ付け加えた。
「我が主は、“義”を好むお方」
「義を損なわぬ商いであれば、
佐竹は剣を抜きませぬ」
その言葉は、
牽制であり、同時に約束でもあった。
使者が去る。
障子が閉まり、足音が遠ざかると同時に、
義堯は小さく笑った。
「……鬼義重め」
「商人の皮を被せた外交か」
桜は、静かに応じる。
「ですが、最善の反応です」
「敵でも味方でもない」
「“観察者”として、
こちらを見る位置に留まりました」
義堯は、深く頷いた。
「戦は起きておらぬが」
「国は、確実に動いておるな」
桜は、心の奥で次の歯車を回す。
(佐竹が“見る側”に回った)
(上杉は“義”を測り続ける)
(北条と武田は、価格に縛られて動けない)
――静かな均衡。
だが、それは同時に、
一つ崩れれば連鎖する危うさでもあった。
桜は、胸中で小さく呟く。
(……まだだ)
(今は、まだ)
里見領の空は穏やかだった。
だが、風向きは、確実に変わり始めていた。




