189話 里見の館
里見館の奥座敷。
夜の気配が障子の向こうに滲み、灯明の火が静かに揺れていた。
桜は、正座したまま一礼する。
向かいには里見義堯。
その脇に、まな姫が控えている。
「……ご報告がございます」
義堯は短く頷いた。
「申せ」
桜は、感情を挟まず、事実から語った。
南の温暖な地よりの買い付け。
南蛮船の積載を活かした大量輸送。
価格は平常水準。
不当な吊り上げは一切なし。
そして――
上杉方面、武田・北条・佐竹・小田・山内上杉へと、
均等に、静かに流したこと。
「物資は、すでに行き渡り始めております」
「米価、塩価、油価。
いずれも急騰前の水準に戻りつつあります」
義堯は、腕を組んだまま黙って聞いていた。
「上杉の反応は?」
その問いに、桜は一拍置く。
「……憤りは、収まっております」
「少なくとも、“今すぐ刃を向ける理由”は消えました」
義堯の眉が、わずかに動く。
「止まるか?」
「止まる、とは言い切れません」
桜は、正直に答えた。
「ただし、“攻める大義”は薄れています」
ここで、まな姫が小さく息を吸った。
「……民は」
その声は、静かだが真剣だった。
桜は、まな姫の方を見る。
「苦しんでおりません」
「少なくとも、今回の動きで
さらに苦しむことはありませんでした」
まな姫の肩から、わずかに力が抜ける。
(よかった……)
その心の声が、表情に滲んだ。
義堯は、ゆっくりと息を吐いた。
「つまり」
「戦を止めたのではなく、
戦に“理由がなくなった”と」
「はい」
桜は、はっきりと答える。
義堯は、ふっと笑った。
「お前らしい」
「刃を抜かずに、相手の手を止める」
「だが――」
視線が、鋭くなる。
「これは、綱渡りだ」
「一歩誤れば、里見が黒幕と見られる」
桜は、深く頭を下げた。
「承知しております」
「ですから、里見の名は一切出しておりません」
「商人の判断。
豊作の偶然。
南廻りの風向き――」
「すべて、“自然な理由”として動かしております」
義堯は、まな姫の方を見る。
「どう思う」
突然の問いに、まな姫は一瞬戸惑う。
だが、ゆっくりと顔を上げた。
「……戦をしなくて済むなら」
「それが、一番です」
「誰かの命の上に、
私の幸せがあるのは……嫌です」
その言葉に、義堯は目を細めた。
(ああ……)
(強くなった)
義堯は、桜へと向き直る。
「続けよ」
「だが、深追いはするな」
「上杉は“義の国”だ。
義を満たされた相手は、無闇に噛みつかぬ」
「……ただし」
声が低くなる。
「裏切られたと感じた瞬間、
雷のように落ちる」
桜は、静かに頷いた。
「ゆえに、次は“見守り”に入ります」
「動かぬことも、戦略です」
まな姫は、桜を見つめる。
「……ありがとう」
その一言は、姫としてではなく、
一人の人としての言葉だった。
桜は、わずかに微笑む。
「守ると決めたものは、守ります」
「設計者として」
そして心の中で、付け加えた。
(それが、私の“義”だから)
灯明の火が、静かに揺れた。
戦は起きていない。
だが――
この夜、確かに一つの国の未来は、
守られたのだった。




