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第一幕 五

 中央統合病院の正面棟は、朝から人の出入りが途切れなかった。


 霧島静香は見学者用の札を受け取り、入口の脇へ寄った。救急搬送口へ入る車両と、予約外来の案内を確かめる人の流れが、同じ広い通路で交わっている。受付の前には案内係が二人いて、立ち止まった人へ順に声をかけていた。


 大学から来た学生は、静香を含めて十二人だった。


「再生医療棟を希望した人が多いので、今日はそちらを中心に回ります」


 病院の教育担当者が言うと、隣の学生が小さく息を吐いた。静香も、配られた見学資料を開く。培養組織の作製室、移植前評価室、術後の観察病棟。大学の講義で見た名前が、実際の病院の配置図へ並んでいた。


 待合の椅子には、診察を待つ人と、その家族らしい人が座っている。壁の表示には受付番号と診療科だけが出ていた。静香は通り過ぎながら、画面へ名前が出ないことを確かめた。


 再生医療棟へつながる通路の手前で、教育担当者が一度立ち止まった。


「処置の見学通路では、患者さんの顔や記録が見えない位置に立ってください。説明にないことは、担当者へ尋ねないでください」


 全員がうなずく。


 ガラス越しに見えた処置室では、ベッドに横たわる人の腕だけが、布の外に出ていた。腕には薄い保温帯が巻かれ、その上に小さな計測器が固定されている。そばの技師が、保温帯の操作部と表示を見比べていた。


 保温帯の表示の数字が、三十三・八から三十五・五へゆっくり変わった。


「局所加温です」


 教育担当者が声を落として言った。


「採取前に局所の温度を保つ必要がある場合に使います。設定温度と時間を決めて、担当者が表示を確認しながら行います」


 技師は画面の横に出た目盛りを一度見て、保温帯の操作部を確認した。保温帯の表示は三十六・〇で止まり、横の時間表示だけが進み始める。


 機器で局所の温度を保つことは、静香にとっても既知の処置だった。大学の実習でも、一定の温度を維持する訓練器具を見たことがある。けれど患者の処置の中に置かれると、それは講義で聞く利用例より静かに見えた。


 誰も、加温だけで何かが治るとは言わない。温度を上げる範囲と、保つ時間が決められ、必要な処置の前に組み込まれている。


 処置室を離れると、次は手術支援機器の訓練室だった。


 室内では、白衣の医師が透明な箱の前に立っていた。箱の中の細い鉗子が、培養組織の模型を支えている。医師は操作台へ触れず、鉗子の先端をわずかに右へ寄せた。横の表示に、移動量〇・三ミリと出る。


「そこまでです」


 医師が言うと、鉗子は止まった。


 表示を見ていた別の職員が、位置を確認する。


「ずれはありません。次の手順へ」


 医師はうなずき、操作台へ記録を入力した。


「実際の処置でも、こうして使うんですか」


 静香の前にいた学生が尋ねた。


「使う場面は限られます」


 教育担当者が答えた。


「手で扱う方が確実なこともあります。けれど、触れずに位置を保つ必要があるときは、補助として使えます。使用者の感覚だけに頼らず、動かした量は毎回確認します」


 静香は鉗子の先端を見た。細い器具が、止まった場所から動かない。


 動かす。位置を保つ。


 どちらも、何を行ったかを言葉にできる。どこまで変わったかを、別の人も画面で確かめられる。


     *


 培養組織の作製室では、厚いガラスの向こうに小さな容器が何段も並んでいた。


 職員の一人が、白い手袋をした手で容器を持ち上げ、内部の状態を確認している。別の机では、組織を支える足場材の表面を、拡大画像で見比べていた。


「ここで作ったものが、そのまま患者さんへ使えるわけではありません」


 説明役の医師が、学生たちへ言った。


「形が整っていても、必要な細胞が働くか。移植したあとにどんな反応が起きるか。確認することは多いです」


 画面には、薄い組織の断面が映っていた。静香は、血管の通り道になりそうな空間を目で追う。枝分かれした線は、講義で見た画像よりずっと細かい。


「再生医療を希望している方はいますか」


 医師の問いに、何人かが手を上げた。静香も手を上げる。


「患者さんを前にしたとき、教科書どおりに進まないこともあります。そのときに、どこまで確認できていて、何をまだ知らないかを残せる人が必要です」


 静香は、手元の見学資料の余白にその言葉を書いた。


 前の列の学生が、紋章を見せるように手を上げた。


「医療の紋章がないと、こういう部署は難しいですか」


 医師はすぐには答えなかった。


「紋章には、向きやすい分野の目安があります。でも、ここで必要なのは一つではありません。細胞を扱う人も、手術をする人も、記録を確かめる人もいる。自分が何を見たいのかを考えて、選んでください」


 静香はペンを止めた。


 医師は次の説明へ戻り、学生たちも組織の作製工程へ視線を移した。


 静香はもう一度、画面の断面を見た。細胞が増えることと、血が通ることと、そこから先に人の体で働くこと。その一つずつが、別の確認を通っていた。


 その積み重ねが、面白いと思った。


     *


 見学の終わりに、教育担当者は応募用の案内を配った。


「来年度の学生実習は、今日見た部署のほかにも選べます。興味のあるところを、実習前にもう一度見て決めてください」


 静香は案内を受け取った。再生医療棟の欄には、見学日とは別に、実習で扱う内容が細かく書かれている。培養、評価、術前の準備、経過観察。短い説明だけでは、まだ知らないことの方が多い。


 正面棟へ戻る通路で、美緒から端末へ連絡が入った。


『どうだった? 絶対、好きなやつでしょ』


 静香は歩きながら、見学資料の余白に書いた文字を見た。


 どこまで確認できていて、何をまだ知らないか。


『うん。もっと見たいと思った』


 送信してから、窓の外を見る。救急搬送口の前で、職員が担架を押し、別の職員が扉を開けていた。中で何が起きるのか、静香には見えない。それでも、その先では誰かが状態を確かめ、次に必要なことを決めているのだろうと思えた。


 鞄の中には、実習の案内と、東雲神社で残した記録が入っている。


 まだ、同じものとして考えることはできない。


 けれど、どちらも静香が見たものだった。


 静香は案内を折らずに鞄へしまい、駅へ向かった。

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