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第一幕 四

 最初の連絡は、十日後の午後に来た。


『明日の健康相談会のあと、体のことでお参りに来る方がいます』


 東雲朝陽からの短い文面の下に、もう一行あった。


『前にお話しした観察のことを、その方へお伝えしてもよろしいでしょうか』


 静香は端末を閉じ、講義室の窓へ目を向けた。外では、実習を終えた学生たちが白衣を腕に掛けて歩いている。


 長谷川の件から、朝陽とは必要なときだけ連絡を取っていた。静香が何かを見せてほしいと頼んだことはない。朝陽も、神社で起きた出来事を知らせてくることはなかった。


 だから、すぐには返さなかった。


 自分が見たいからではなく、その人が話してもよいと思うなら。その順番を文面にする。


『ご本人が望まれる場合だけ、お願いします。私は医療者としての診療や判断はできません。記録してよい範囲も、本人に確認します』


 送ると、しばらくして返事が来た。


『分かりました』


     *


 翌日の相談会は、先月と同じ集会所で開かれた。


 血圧計を片づけ、机の上の問診票を担当者へ渡したあと、静香は社務所の脇に置かれた長椅子へ向かった。朝陽の隣には、五十代くらいの女性が座っている。左腕を膝の上へ置き、肩をかばうように少し傾いていた。


「霧島さんです」


 朝陽が紹介すると、女性は静香へ頭を下げた。


「高瀬といいます。昨日、朝陽さんから聞きました。名前は書かないなら、見てもらって構いません」


「ありがとうございます」


 静香も頭を下げた。


「私はまだ学生ですし、ここで診療はできません。今の状態と、祈りのあとにご本人がどう感じたかを、名前を入れずに残してよいかだけ確認させてください。途中でやめても大丈夫です」


「それでお願いします」


 高瀬は、左肩の痛みが半年ほど続いていると話した。整形外科には通っていて、来週も予約がある。棚の上の物を取ろうとすると痛みが強くなるため、今日は腕を上げられるように祈ってもらいに来たのだという。


 静香は、痛む場所を聞いた。肩の外側から上腕にかけて。指先のしびれはない。朝から飲んだ薬もある。


「腕は、痛くない範囲まででいいです。どのくらい上がりますか」


 高瀬はゆっくり左腕を上げた。肩の高さを少し越えたところで眉を寄せ、止める。


「ここから先が痛いです」


 静香は位置を覚えた。角度を測る器具はない。正確な数値にはならないため、端末には肩の高さより少し上、とだけ入力する。


 朝陽は高瀬の正面ではなく、少し離れた場所に座った。


「高瀬さんが、明日もご自分の暮らしを続けられますように」


 ほかに残っていた相談会の参加者が、静かに手を合わせた。静香は高瀬の横にいて、表情と呼吸を見ていた。朝陽も誰も、高瀬の肩には触れない。


 祈りが終わるまで、数分かかった。


「どうですか」


 静香が尋ねると、高瀬は一度、肩を回した。


「さっきより、張りが少ない気がします」


「腕は上げられますか」


 高瀬は同じように腕を上げた。今度も肩の高さを少し越えたところで止まった。ただ、先ほどほど強く顔はしかめなかった。


「痛みは」


「ゼロじゃないです。でも、五だったのが三くらい」


 静香は、その言葉をそのまま入れた。腕の位置は大きく変わらない。高瀬が楽になったと感じたことは確かに聞いた。けれど、その感覚が祈りの前後でどの程度変わったかを、静香には測れない。


「病院の予約は、そのまま行ってくださいね」


 朝陽が言った。


「もちろんです。これはこれで、診てもらうのはまた別ですから」


 高瀬は笑って答えた。


 静香は、端末を伏せた。


     *


 その日の終わり、朝陽は社務所の前で湯飲みを洗っていた。


「高瀬さんのこと、何か分かりましたか」


「分かりません」


 静香は答えた。


「痛みが軽くなったと本人は話していました。でも、薬を飲んでいたし、座って休んでいた時間もある。肩がどこまで上がるかも、最初と大きくは変わりませんでした」


「救われなかった、ということですか」


「そうは言っていません」


 静香は少し考えた。


「痛みが軽くなったなら、その人にとっては大事な変化です。ただ、長谷川さんのときと同じことが起きた、とも言えない」


 朝陽は湯飲みの水を切った。


「私には、どちらも祈りを聞いていただいたように思えます」


「そう考えることは分かります」


 静香は、端末の記録を開いた。


 深い傷が閉じ、出血が止まり、動かせなかった足が動いたこと。


 痛みが軽くなったと本人が話し、腕の位置はほとんど変わらなかったこと。


 並べると、同じ欄には入らなかった。


     *


 それから、静香は都合の合う日にだけ相談会へ顔を出した。


 朝陽から連絡が来るのは、相談に来た本人が静香の立ち会いを望んだときだけだった。断られた日は、誰が来たのかも聞かなかった。


 二度目に見たのは、眠れない日が続くという男性だった。祈りのあと、男性は目を閉じてしばらく座っていた。


「少し、息がしやすくなりました」


 そう言ったが、帰る足取りが変わったかどうかまでは分からない。翌日に受診するよう、朝陽と相談会の担当者が診療所を案内した。


 三度目には、庭仕事のあとから腰を伸ばせないという人が来た。祈りのあとも、立つときに杖が必要だった。


「今日は変わらないかもしれませんね」


 その人は自分でそう言い、朝陽はうなずいた。


「痛みが続くようなら、明日、先生に診ていただきましょう」


 祈りが届かなかった、と朝陽は言わなかった。静香も、何が届いたのかを尋ねなかった。


 端末の記録には、名前を書かなかった。


 祈りの前に見たこと。祈りのあとに見たこと。本人が話したこと。受診や服薬について、その人が話してよいと言った範囲。


 長谷川の件だけは、変化の欄に皮膚の閉鎖、出血停止、運動と知覚の回復が並ぶ。


 高瀬の件には、痛みの軽減という本人の申告と、腕の位置に明らかな差は見られなかったこと。


 眠れない男性の件には、呼吸がしやすくなったという申告と、翌日の経過は未確認。


 腰痛の件には、明確な変化を確認できなかったこと。


 祈りの欄だけは、どの記録にも同じように残っている。


 静香は画面を見て、項目の名前を消した。


 治療現象、では広すぎる。


 御利益、では観測したことが残らない。


 少し迷ってから、書き直す。


 東雲神社で「救い」と呼ばれた経過。


 それなら、長谷川の件も、高瀬の肩も、眠れない男性も、同じ場所へ置ける。


 同じ言葉で呼ばれている。


 けれど、その中で起きていることは、同じではない。


 静香は保存を押し、端末を鞄へしまった。

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