第一幕 六
午後の演習が終わると、静香たちは講義棟の小さな準備室へ入った。
来週の研究紹介日に使う配布資料が、昼のうちに事務室から届いていた。扉の内側には、同じ大きさの段ボール箱が六つ、通路を半分塞ぐように並んでいる。紹介日までここへ置かせてもらえることになっていた。
「先に、空いてるところを作ろうか」
美緒が腕まくりをして言った。
壁際の棚には、前の実習で使った掲示板と折り畳み机が寄せられている。静香は机の脚を持ち、美緒と一緒に棚の端へ寄せた。
「これ、一つだけ棚の下でいい?」
美緒が、入口に近い箱を指した。棚の下には、箱一つ分の空きがある。
「いいと思う。通路も空くし」
静香が答えると、美緒はその箱を両手で抱え、棚の下へ滑らせた。
箱の側面には、研究紹介日・配布資料とだけ印刷されていた。静香はそれを見て、次の箱へ手を伸ばした。
ほかの学生たちが、残りの箱をどうするか相談している。
「窓のところ、まだ寄せられるよね」
「重ねない方がいいと思う」
「じゃあ、ほかはこっちでいい?」
窓際の壁を示した学生に、二、三人がうなずいた。美緒も「それでいいんじゃない」と言う。残りの五つは、窓の下へ二つずつ並べることになった。
静香は一度、入口の脇に置いた折り畳み机を取りに出た。廊下へ出て、同じ階の倉庫から台車を借りる。戻るまでに、数分もかからなかった。
机を準備室の奥へ運び込んでから、静香は窓際の箱を見た。
六つある。
窓の下に、同じ箱が六つ並んでいた。
棚の下は空いている。
静香は机の手を止めた。
誰かが最初の箱も運んだのだろうと思った。棚の下より窓際へまとめた方が、後で数を確かめやすい。そう考え直した人がいても、不思議ではない。
「美緒」
「なに?」
美緒は台車の取っ手を持ったまま、こちらを向いた。
「最初の箱、棚の下に置いたよね」
「ううん。最初からこっちだよ」
美緒は窓際の一番端の箱へ目を向けた。
「棚の下、狭そうだったから。ここに置こうって言ったでしょ」
静香はすぐには答えなかった。
美緒の言い方に、思い出そうとしている様子はない。箱を置く前に、棚の下の空きを見ていたことは確かだ。ただ、そのあとどちらへ運んだかについては、美緒は窓際だったと自然に話している。
「途中で動かした人、いたかな」
静香が周りへ尋ねると、近くで箱を拭いていた学生が首をかしげた。
「動かしてないと思う。最初から全部そこにあったんじゃない?」
「私もそう見てた」
別の学生も、窓際を見ながら言った。
誰かが移したところを見た人はいなかった。けれど、静香以外の者は、最初の箱も窓際にあったと考えているようだった。
「そっか」
静香はそれだけ答え、机の脚を床へ下ろした。
美緒は気にした様子もなく、箱の数を指で数えた。
「六つ。これで大丈夫だよね」
「うん」
静香も一緒に数えた。六つあることは、今なら誰が見ても分かる。
*
片づけが終わったあと、静香は図書館の端の席で端末を開いた。
違和感を覚えた出来事だけを残す、個人用の記録がある。誰かへ見せるためのものではない。自分が何に引っかかったのかを、あとで思い出せるようにしておくための短い記録だった。
新しい欄を開く。
日時と場所を入力してから、静香は一度、画面から目を離した。
最初の箱が棚の下にあったことを、その場で書き留めてはいない。置いたときには、何もおかしいと思わなかった。今あるのは、自分がそう見ていたという記憶だけだ。
静香は、確認できることから書いた。
準備室に配布資料の箱が六つ届いていたこと。片づけの後には、六つとも窓際にあったこと。美緒と二人の学生は、最初の箱も窓際に置かれていたと話したこと。途中で移したと確認できる人はいなかったこと。
次に、自分の記憶を書く。
美緒が棚の下を指して、そこへ一つ置いたと思う。自分はその場で、それでよいと答えた。
末尾には、別の可能性も残した。
美緒が棚の下を指したあとに置き場所を変えたのを、自分が見落とした可能性。残りの箱を窓際へ並べる相談と、最初の箱の記憶を取り違えた可能性。誰かが短いあいだに移した可能性。
どれも、今から確かめる方法はない。
静香は題名を、「準備室の配布資料」とした。箱がどこにあったか、ではない。自分がそうでないはずだと思った出来事として、保存する。
*
保存した画面の横には、過去の記録が並んでいた。
静香は、閉じる前にその一覧を見た。
見間違いかもしれないと残したもの。聞き違いとして扱ったもの。後から確かめる方法がなく、そのままにしたもの。
どの記録にも、そのとき考えた説明が添えられていた。読み違いだったかもしれない。別の場面と取り違えたかもしれない。確認するのが遅すぎたのかもしれない。
血管画像の記録を開く。
講義の前夜、静香は右下の血管が二本に分かれていると思い、画像の横へ印を付けた。翌日、同じ場所を確認すると、資料では一本の分岐として見えた。印だけが、分岐のない細胞の上に残っていた。
記録には、右下分岐、記憶では二本、資料では一本、とある。末尾には、別画像との混同の可能性。静香はいまも、それが有力だと思っている。
今回の箱のことも、同じように説明できるかもしれない。
一覧を上から下まで追って、静香は手を止めた。
一件ずつなら、理由を付けられる。理由が付くことと、実際にそうだったと確かめられたことは、同じではない。
自分は、思っていたより何度も、こういう記録を残していた。
静香は一覧の先頭へ戻り、記録を一つずつ開いた。何が起きたと書いたかではなく、そのとき自分が何を見て、誰に確かめ、どこまで分からないままにしたのかを、もう一度読むために。
原因を探すためではない。
まず、自分が残してきた違和感が、どんなものなのかを見直すためだった。




