誰か来たようだわ
およそ自身の理解の及ばない領域に沈んでしまった兄とて、ただ一人の肉親に変わりない。
変貌した世界でそれと知らず、衣食住を与えられて平和に安穏と暮らしていけるのならば、変革などと言うお題目を掲げて奮闘するよりも遥かに幸せなのではないか。
そうしているのが『まとも』であるとはっきりとした線引きがされるとして、ややもすれば、目下の奇怪な状況を甘んじて受け入れるべきだと少女は思わないでもなかったが、決して齢の多く重ねていない彼女の心の拠り所の一番となるのは、やはり兄なのである。
それはにべもない、虚無の目でマネキンに話しかけたり、日がなぼうっと自席に座ったままで『学校』に行った気になっている魂の抜けた兄ではなく、慈愛の眼差しでそうっと頭を撫でて、
「少し背が伸びたんじゃないか。近いうちに抜かされてしまうかもなあ」
と冗談まじりに言って破顔する兄がよいのだ。
ーーいや、そうでなければならない。
少女は考える。
世界は変貌したのではなく、自身の認識が改まっただけなのではないかーーと。
何かを契機にして目が覚めたのであるならば、その状況を再現させてやればいい。さすれば魂の抜けてしまった兄も今の自分と同様に自我を取り戻すことができるかもしれない。
方法はきっとあるはずーー。
それに最愛の兄の、あんな惨めで腑抜けた姿をこの先も見させられるのは、厭だ。
少女はソファから重い腰を上げ、ふぅ……と深く深呼吸をひとつしてから母の元に向かった。
「後で謝っておけ」という兄の言を律儀に守ったのである。
「あの……お母さん。ボクはやっぱりいい子でいることはできそうもありません。ごめんなさい。お兄ちゃんをまた怒らせてしまうけれど、許して……くれますよね」
マネキンは何も言わず、ただそこに佇んでいた。
泣かまいとして唇を真一文字に噛みしめ、かすかな血の味が口に広がる。
その時ーー。
「あら、誰か来たようだわ。出てテくれるかしら。あら、誰かか来たようだわ。出てクあら、誰か出てくれるあらダレカ来……あらあら、いらっしゃいしゃいきてくれあら、ダレか……」
故障したのかマネキンの喉元から発せられた機械音は、誰かが来たことを告げ沈黙した。
兄が帰ってきたのかとも思ったが、今までにそんな文言を発した試しなどなく、家の前に居るのは恐らく、純粋な来訪者であると少女は確信した。しかし、それが自我のあるヒトだという保証はどこにもない。
少女がまごついているとチャイムが鳴った。
そのすぐ後ーー。マイク越しにこんな声が聞こえてきたのだった。
「く〜ちゃんっ、あっそびまっしょ〜」




