あの子にも困ったものね
病室の真白い内装に掛けられた桐の額縁には、湖畔でこちらを背にして佇むドレス姿の女性が淡く柔らかな描画で描かれ、湖の向こう側ーー連なる山肌の流線を儚げに見つめている。
ーーまるで誰かを待っているように。
「その絵、気になる?」
ミレイが言った。
ノリはよりにもよって命の恩人である彼女に恥ずかしい所を見られたのを、なんとか誤魔化したくて、周囲を見回し、ふと壁に掛けられた一枚の絵を認めたのだった。
色使いは秀逸で明るく湖水の青と山の緑、それとドレスの朱が対比となって女性を存在を浮かび上がらせている。
「私には絵はてんで分からないけれど、この絵……なんだか哀しい雰囲気があると思わない?」
哀しさ、というか寂しさというか、そんな見るに憚られるような深層の感情がその背中にはあるのだ。
「拒まれてるみたい」
「そうね……」
ーー厭な、絵だ。
「病室なんていくらでも都合できるのに、こんな部屋にキューを入れるなんて、ふざけてるわね。犯人の顔が見えるようだわ」
二人の脳裏に浮かんだ顔は果たしてピタリと重なっていた。
趣味の悪い絵が飾ってある病室にキューを押し込んだ犯人は先程さんざ場をかき回し、意気揚々と出ていった。
「あの子にも困ったものね」
「……ハハ、まったくーー」
ノリは未だ寝たきりのキューの方に視線を落とす。
「僕にははっきりとした記憶がありません。朧げにキューと一緒にいたという認識はあっても、夢の中で見たのと変わりないくらいにぼうと浮かんでは消えてしまう。それどころか、つい最近のことまで記憶から抜けかかっているんです」
「それは、誰かに言った?」
「リクコには一応……あいつ色々詳しそうだから。でも、原因はよくわからないらしくて」
それを聞いてミレイは動揺を隠せなかった。
ーー風が止んで波も収まり海が凪ぐように、精神の恒常性を保とうとする働きで、ノイズとなる不必要な記憶は脳から削除する。そうして初めて無垢で虚で献身的な実験体が完成となるのだ。
ノリの脳はキューやリクコと過ごした時間を不要と判断して消し去ろうとしている。
それが完全に消えてしまうまでにどれほどの日数がかかるのか、定かではないが、恐らく近いうちに私のことも喋った内容も、全て忘れてしまうのだろうとミレイは察し、なんとか見繕おうと適当に話を逸らした。
ーー沈黙が恐かったのだ。
と同時に根源であるドクターを呪った。そして何もすることができない自分自身を更に強く呪ったのだった。




