「その手じゃアレは封印だね」
私はパン作りの後、夕方近くまで寝入ってしまっていた。
一切目を覚まさず、死んだように寝入る私を心配したトアが、何度か水差しで水をくれたようだけど覚えていない。
目を覚ましたとき、ベッドの傍の椅子にはジャスが座っていた。
「……ジャス?」
私が声をかけると、彼女は驚いたように全身を震わせてからこちらを見た。
「起きたわね? トゥーキアを呼んでくるわ」
そう言って立ち上げると、控えの間に向かって歩いて行った。
私の様子を見ていてくれたんだろうか。
彼女に言わせるとそれも仕事の一環と言われそうだけれど、何となく嬉しい気がした。
「った……」
私は手をついて上半身を起こそうとして、痛みに驚いた。
見ると右手はまだ痛々しく包帯が巻かれている。手首からしっかり固定されたそれを、ゆっくりと動かしてみると、それだけで痛みが走った。
昨日は手のひらが擦り切れたり、豆がつぶれたりしていたことは気付いていたけれど、どうやら腱鞘炎のようなものにもなっているらしい。全身だるいけれど、特に肩から腕にかけての筋肉痛もある。
名誉の負傷……って言っていいかなぁ?
でもモウン乳との格闘の末って、なんとなくかっこ悪い。
そんなことを考えていると、控えの間からレンとトアが出てきた。
体調を聞かれて私は大丈夫であることを伝える。
トアが私の右手を固定するためにきつく締め直しながら、口を開いた。
「お目覚めになられてすぐで申し訳ありませんが、サラ様にご用件が二つあります」
「二つ?」
「はい。まず一つ目はクラウス陛下から。
グルスタッフでの話を聞かせてもらいたいので、目覚め次第お会いしたいとのことでした」
ああ、そうか。帰還報告してなかった。
私は納得した。
グルスタッフから帰ってきて、すぐにピューレさんに捕まり、そのままずっとパン作りをしていた。
一応クラウスさんのお客さんという立場でグルスタッフに行かせてもらったのだから、そこは帰りましたの挨拶ぐらいしとくべきだった。
「わかった。もう一つは?」
私が聞くと、少しトアは言いにくそうにした。
「サラ様がお休みになられている間に、トーカスハ様が訪ねてこられたのですが……」
「…………いったい何の用?」
すこぶる嫌な予感しかしない。
要注意人物の来訪なんて、起き抜けの頭では考えたくない事態だ。
「食事を共にしたいとのことでした。
もうこの時間ですので、さすがに今日は厳しいと思いますが、どうされますか?」
私はトーカスハさんの提案をどうするか悩んだ。
確かに私は随分と長く寝ていたみたいだ。
トアがいうには既に今日は十一回目の鐘が鳴っているらしい。
夕食は大体十二回目の鐘から十三回目の鐘に取るのが一般的なようだから、これからでは忙しいだろう。
それにしても、と私は思う。
「随分と唐突だね。何かあったのかな?」
「そうですね……どういったつもりかは私にはわかりかねます」
トアも困ったように首をかしげた。
「おそらくトーカスハ様ご自身は、何も考えてはらっしゃらないと思いますが」
「うん、そうだね」
私はその点には激しく同意する。
なんとなくこの手紙の裏にもピューレさんがいるような気がする。
要注意人物が二人揃ってしまった。
了解するのも不吉だけど、断るという選択はもっと不吉だ。
おもにピューレさんを敵に回すという意味で。
「食事を一緒にするのは良いけれど、いつにするか都合の良い日を教えてください――でいいかな?」
お世話係三人に意見を聞いて、私はとりあえずそういう結論に至った。
実際にトーカスハさんに返答をするのはレンが引き受けてくれたので、私はとりあえずシャワーを浴びに行った。
さすがに徹夜でパン作りをした格好のまま、クラウスさんのところに行くわけにはいかない。
ジャスは部屋に残ると言うので、トアが付いてきてくれた。
もちろん部屋の前にいた護衛ルザリド二名も一緒だ。
初日に護衛でついてくれていた人と同じルザリドだったので、私は「今日もよろしくお願いします」と言いつつ胸に手を当てた。彼らは「お気を付けください」と言ってから胸に手を当てて返礼してくれた。
わおっ、無言じゃない。
ピューレさんの言っていた、私への風当たりが緩やかになったというのは本当らしい。
廊下を歩いてすれ違うルザリドも、私の姿を見つけるとたまに胸に手を当ててくれる人もいた。
まだ遠目からこちらを睨んでいる人もいるみたいだけれど。
シャワーを浴びた後、私はその足でクラウスさんの執務室へと向かうことにした。
この王城は五階建てで、私が寝泊まりさせてもらっている部屋は四階になる。
今使ったシャワー室や、練兵場は一階にあり、上階ほどすれ違うルザリドの数は少ない。
トアが言うには、地上に必要な設備がある部屋でなければ、上階ほど重要な部屋が多いのだそうだ。
もちろんクラウスさんの執務室は五階だ。
階段は一階ごとに違う場所にある。
学校のように同じ階段で全ての階を行き来できない。
必然の歩く量が増えるのだけれど、こればかりは建物の構造上仕方がない。
二階から三階に上がるために、中庭を見下ろすような位置にある廊下を通る。
召喚当初、アルとリーゼに連れられて通った廊下が、中庭沿いなのでこの廊下から見えた。
廊下沿いにある手すりを掴んで歩きながら、幅広な葉が生い茂る中庭と一階の廊下を私は何気なく見下ろした。
あ、リーゼがいる。
一階の中庭沿いの廊下を、何人ものルザリドが歩いているのが見えた。
私はそんなルザリドたちの中に、見慣れた鱗の持ち主を見つけて、思わず足を止める。
リーゼはエンフォーレに戻ってから、また忙しくしているようだ。
周囲のルザリドと何か話しながら歩いている。仕事の話かな?
そういえば、あの魔石。どうなったのか聞けてないなぁ。
私がそんなことを考えつつ、特に何かを感じたわけではなかったのだけれど、ふと横を見る。
トアもリーゼを見ていた。
私はそのトアの表情に、何かを感じた。
ルザリドの表情なんて全然読めないけれど、それでもずっと傍にいたトアだからか、その瞳には感情が浮かんでいるような気がする。
寂しそう、というか悲しそう、というか…………
言葉をかけるのがためらわれる。
黄色と黒の瞳に、私はそんな気持ちになる。
トアを凝視していた私に気づいたのか、彼女がこちらを見た。
「どうかされました?」
その口調にはさっき私が感じたようなものは含まれていない。
ただの勘違いとするにはひっかかったけれど、私は黙って首を横に振った。
トアとリーゼの関係について、グルスタッフでの夕食の時以降、何も聞けていない。
あの時は誤魔化したけれど、あれからこの二人を観察してみた。
するとトアは、よく今のようにリーゼを見ていることがある。
対照的にリーゼは、トアと目を合わせないように振る舞っていることがあるように思えた。
真剣に正面からしつこく聞けば、トアも答えてくれるかもしれない。
けれどそれをしようとする度に、私はつい二の足を踏む。
いつも優しいトアが、あんな瞳をしているから。
私はそれ以上リーゼを見ることなく、トアを促して廊下を進んだのだった。
「こんにちは、クラウスさん」
「サラ殿。お疲れのところ申し訳なかったな」
私たちが訪ねていくと、大きな机の上の書類をクラウスさんがひとまとめにして整えていた。
椅子に座っているクラウスさんの傍には、クリスさんとフィッツバルトさんがいる。
今の今までお仕事をしていたんだろう。
その書類の束を、クラウスさんからクリスさんが受け取った。
「私こそワガママを聞いてもらったのに、帰ってすぐ顔を出さずにすみませんでした」
部屋の中に入りながら私は謝った。護衛は部屋の外で待っているらしいので、トアだけが私の後ろに続いた。
「グルスタッフはどうだった?」
「面白かったです。
私の世界と似たところもありましたし、まったく違うところもありました」
そう言ってから私はふと思いついた。
「ところで今更なんですが、私の感覚をこの世界のヒューモスの感覚に当てはめていいんでしょうか?」
バルトスとパン作りをしながら思っていたことだった。
彼は地方によって文化の違いはルザリドであろうと、ヒューモスであろうと少なからずあるだろうと言っていた。
だというのに異世界のヒューモスの感覚を、私がしっかり理解できているという保証はない。
つまり私が良いと思っていることが、この世界のヒューモスにとっても良いとは限らないのだ。
そんなことを説明すると、クラウスさんはうなずく。
「そこは私にも判断の付かないところではあるが、おそらくはルザリドである我々よりも、サラ殿の感覚の方がヒューモスに近いのは間違いないだろう。
一つでも不安要素を取り除きたいためにサラ殿にお願いしたのだ。
少しでも訪問官が安らいでくれるような環境がつくれれば、それで良いと考えている」
あくまで参考だと言われ、私は少しホッとする。
「そう言えば、エンフォーレに帰るなり料理を作っていたとお聞きしましたが?」
書類を持ったまま、クリスさんが私に声をかける。
やはり報告が上がっていたらしい。
クラウスさんも何かを思い出すようにしてから口を開いた。
「パン、という料理だったか? 昼食に出てきたが」
「あ、そうです」
バルトスは昼食にさっそくパンを出してみたようだ。
「食べられない味ではなかった。変わった料理だな」
「私は普段からよく食べていたので。
主食まで虫だと聞いたら、やっぱり代わりになるものが必要かなって」
「そうだな。訪問官への食事にださせてもらおう」
クラウスさんからそう言われ、私は心の内でガッツポーズをとる。
あそこまで頑張ったのだから、ぜひとも報われてほしい。
クリスさんが書類を持って部屋を出ていくと、部屋の中央にいた私に、クラウスさんは机の傍に寄るように言った。
フィッツバルトさんが驚いたように、クラウスさんを見る。
「陛下。あまり近寄らせるのは……」
「大丈夫だ」
苦言を呈するフィッツバルトさんを宥めて、クラウスさんは私のほうに顔を向ける。
この近衛隊長だというフィッツバルトさんとはほぼ話したことがないけれど、私のことを警戒しているみたいだ。
あまり刺激しないように、クラウスさんに近づきすぎない方がいいだろう。
私はクラウスさんに言われた通り、何歩か歩み出る。
先ほどよりは近づいたけれど、手を伸ばしても触れられない距離だ。
すると目を閉じたままのクラウスさんの瞼が、二回小さく震えた。
「サラ殿、どうかしたのか?」
「え、何が、ですか?」
「やはり拍動の音が少し早い。疲れもあるとは思うが。
それに右手が……先ほどから衣擦れの音がしていたが、体内の流れが滞っている箇所がある。これはケガをしているのか?」
「ケガというよりは酷使したための炎症だと思うんですけど……。それも音でわかるんですか?」
まったく瞼を開かないクラウスさんは、私の体が発する音を聞いていたようだ。
まるでお医者さんのようなことを言うクラウスさんは、私の言葉に舌先を震わせた。
「私は一般的なルザリドよりも耳が良い。目はほぼ見えないがな」
体の中の筋肉が動く音や血流の音などは、普通のルザリドにも聞こえないという。
さすがにクラウスさんもあまり離れていると聞きづらいのだという。
クラウスさんは普段から目が見えない代わりに、耳から聞こえる音で周囲を判断しているらしい。
そう言えば以前、クラウスさんは目を瞑ったまま、私が椅子から立ち上がるのを制したこともあった。
人が動くと必ず起こる空気が流れる僅かな音すら、彼には聞こえているのだ。
なんだか全て聞き透かされている?ような気分になって、私は落ち着かない気持ちになる。
代わりに私はじっとクラウスさんの顔を見つめる。
白い鱗はまさに純白。
いろんな色の鱗のルザリドがいたけれど、真っ白というのはクラウスさんしか見たことがない。
閉じられた目の周囲は盛り上がっていて、そこには確かに眼球があるのだろう。
一枚一枚の鱗は柔らかそうだけれど、首元だけ尖ったような形をしていて、健康サンダルのイボイボの先がとがっているみたいだ。
触りたい。
ワキ……っとしかけて、私は右手を押さえてうずくまった。
動かしたら痛むのを忘れて、つい条件反射で動かしてしまった。
「サラ様っ、大丈夫ですか?」
トアが慌てて私を支えてくれる。
私はクラウスさんに向かって痛まない左手を伸ばした。
「その鱗っ、触らせてくださいっ」
「安静にしていなさい」
クラウスさんはそう言って再び舌をだした。
フィッツバルトさんは、私を睨んでいるけれど腰にある剣には手をかけてはいない。
くぅぅ、こんな目の前に鱗があるというのにっ。
するとクラウスさんは思い出したかのように言う。
「そう言えばセルを知らないか?」
「え、……セルってエンセルさんのことですよね?」
「ああ。サラ殿がグルスタッフに向かう頃から姿が見えないらしい」
「そうなんですか」
とは言っても、私はエンセルさんの姿を初日から見ていない。
一度アルを経由して靴をくれたぐらいだ。
私がそう説明すると、クラウスさんは私の傍にいたトアにも声をかける。
「お前も知らないか?」
「知りません」
簡潔にトアは否定した。
この数日間、基本的にトアは私と一緒にいた。知らないのも当然だろう。
けれどクラウスさんは再び問いかける。
「セルの孫だろう? 何か聞いてないのか?」
クラウスさんの言葉に、私は驚いてトアを見つめる。
緑の鱗を持つエンセルさんと灰色の鱗のトア。
どこも似ているとは思えない。
やはり私にはルザリドの血縁同士を似ていると判断できる術を持っていないらしい。
「似ておりませんでしょう?」
私の観察の目に気づいたのか、トアはそう言ってシュルリと舌を鳴らす。
似てるか似てないかはわからないけど、エンセルさんに孫がいたことに驚きだよ。
そう言えばエンセルさんっていくつなんだろう?
トアはため息をついてからもう一度答えた。
「何も聞いてはいません。あの人が姿を消すことなど、いつものことですし」
「それはそうなんだが―――セルの雲隠れには困ったものだ。すぐに召喚があるという今、いなくなる必要があるのか?」
「さぁ……あの放浪癖はいつまで経っても直らないようですし」
「そうだな……」
この二人、なんだか親しげな気がする。
そんなことを思いつつ、トアとクラウスさんの会話を聞いている時だった。
…………―――――ドドドドドドドドドドドドドドドドド
なんだか地響きのような低い音が聞こえた。
私は驚いて周囲を見回す。
「な、何、この音?」
「こちらに向かっているようですね」
トアはそう言って、廊下に繋がる扉を見た。
その途端、扉が大きく開く。
「ここにいたか、サラっ!」
そこにいたのは大きな黒いルザリド―――トーカスハさんだった。
私が何をする暇もなく、トーカスハさんは私の元までやってきた。
「クラウスの坊主、トゥーキア。サラは借りるぞっ」
そしてトーカスハさんはトアの返答を待たずに、私を俵担ぎで担ぎ上げた。
え、え、え、えっ
わけもわからない内に、トーカスハさんは部屋を飛び出る。
「今日中には返すのでな。
ではな、がーっはっはっはっはっはっはっは」
というかこれって誘拐じゃないのっ!
遠ざかっていく扉を見ようとしたけれど、あっという間に見えなくなった。
「ちょ、ちょ、ちょっとトーカスハさんっ」
「なんだぁ?」
すごいスピードで廊下を走りながらも、どこか楽しげなトーカスハさんの声に私は脱力する。
痛まないように右手を庇いながら、一応抗議することにする。
「なんだぁ、じゃありませんよ。
なんで唐突に誘拐してくれてるんですかっ」
「何を言う。
食事を共にできると連絡がきたので、迎えにきたまでではないか」
…………レンの仕事の速さをたたえるべきか、トーカスハさんの行動の速さを呪うべきか。
「今日ですか」
「思いついたことは、その日のうちに実行せねばな」
思い立ったが吉日、なのね。
私はもはや抵抗する気もなくなっていたので、トーカスハさんに身を委ねたのだった。
こんな状態で小休止に入ります。
え~と……サラ、がんばれ(笑)




