第5話 領主の初注文は、焼きたてのパン
砦のパンは、固かった。
湯気の立つスープに浸しても、芯だけは最後まで残る。
食べられる以上、贅沢は言えない。それでも朝食のたびに、顎が仕事をしている気分になった。
「粉が粗いんです」
ミナさんが、挽く前の麦を見せてくれた。
手回しの石臼しかなく、皆の分を挽くにはかなり時間がかかる。二度挽きする余裕はない。
「ハチに回してもらうのは?」
「できますけど、台のほうが壊れそうです」
もっともだった。
俺たちは広場を見回し、使われていない工房へ向かった。
砦の図面はないが、壁の外には昔の水路の跡が残っている。
水のある場所に住んでいた人たちが、何も作っていなかったとは思えなかった。
工房の床板を剥がすと、太い軸が現れた。
その先に大きな石臼がある。
窓の外は崖で、下に倒れた水車が見えた。
「ありました」
「ありますが……」
エステルさんは、半分崩れた足場を見ている。
俺も見た。
これは一人で降りていい場所ではない。
翌朝から、皆に相談して工事を始めた。
先に足場を組み、落ちる石を取り除く。
ハチは使える時間だけ、重い材木を運んだ。俺は水車の部品を診断し、直せるものに印をつける。
羽根の木は腐っていた。魔法でつないでも、弱った木材が強くなるわけではない。
新しい板が必要だった。
近くの森へ、兵士を伴って木を取りに行く。
俺は斧を振って、三度目で休んだ。
ダンさんは何も言わず、続きを切ってくれた。
「木まで勝手に切れる力じゃないのか」
「残念ながら」
「それなら、その力が俺にはなくてよかった。仕事がなくなる」
彼は笑って木を倒した。
俺も、手の痛いところを揉みながら笑った。
四日目、ようやく水車を戻せた。
谷の水を導く細い水路の石を直し、流れを少しずつ入れる。
最初の半回転で、伝達用の歯車が鳴った。
俺はすぐ水門を閉めた。
急ぐと、直したばかりの軸を曲げてしまう。
位置を合わせ直し、もう一度。
今度は、石臼がゆっくり回った。
「麦、入れます」
ミナさんが上から麦を落とす。
下の箱へ、淡い色の粉が溜まった。
指でつまむと、砦で使っていた粉よりずっと細かい。
「これなら」
ミナさんの声が弾んだ。
その夜、台所はいつもより遅くまで明るかった。
彼女は若いころ町のパン屋で働いていたという。粉があれば、いつも通りのパンが焼ける。
俺が前世の記憶から怪しい製法を思い出す必要はなかった。
作れる人が、ここにいた。
翌朝、食堂に入った瞬間、香ばしい匂いがした。
丸いパンの表面は薄い茶色で、割れ目から湯気が漏れている。
トトが俺の前へ、いちばん大きなものを置いた。
「領主様の、初注文です」
「注文したことになってたのか」
「お母さんが、そう言ってた」
割ると、中はふんわりしていた。
一口食べる。
顎が、喜んでいた。
向かいのエステルさんは、俺より先に食べ終えていた。
いつも慎重な人が、二つ目のパンに手を伸ばすときだけ少し早い。
目が合った。
「……工事の間、よく動きましたから」
「俺は何も言ってません」
彼女はパンを半分に割り、小さいほうを俺へ渡した。
それから、やっぱり半分を取り戻した。
水車が動いたことで、麦を挽く仕事が楽になった。
浮いた時間で、皆が放置していた畑を見直してくれる。
食糧が今日いきなり増えるわけではない。次の収穫までは、買い足す必要がある。
俺は銅貨の残りと、母が持たせてくれた少しの銀貨を数えた。
稼ぐ方法を考えなければ。
そう思ったとき、門の外で角笛が鳴った。
エステルさんがパンを皿へ戻し、立ち上がった。
「全員、兵舎へ。魔狼です」




