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第2話 廃砦の領主は、まず屋根に上ります

 黒鐘砦へ着いたのは、屋敷を出て二日目の夕方だった。

 崖を背にした灰色の壁。半分落ちた門。窓のない塔。

 遠くから見たときは、確かに廃墟だった。

 ただ、門の内側から煮物の匂いがした。


「止まれ。何の用だ」


 槍を構えた兵が、御者の前へ出た。

 その後ろから、赤茶色の髪を短く結んだ女性が歩いてくる。

 革鎧はよく手入れされていたが、左肩の金具を紐で代用している。腰の剣は使い込まれていた。


「ルーク・ヴァルトです。砦を譲り受けました」


 紙を差し出す。

 女性は馬車に積んだ工具箱と、俺の服を見て、もう一度紙を読んだ。


「……本当に、おひとりですか」

「御者さんは町へ戻ります」

「兵も、資材も?」

「今回はありません」


 女性の肩がわずかに落ちた。

 礼儀で隠そうとしていたが、失望は伝わってきた。


「留守部隊を預かるエステルと申します」


 砦には七人の守備兵と、以前の開拓村から移ってきた人々が暮らしていた。

 伯爵家からの支給は半年も止まっている。外の村は魔狼に荒らされ、井戸も使えなくなった。

 出ていこうにも、子供や老人を連れて、安全に山を越えるだけの金がない。


「廃砦なのに、人がいるとは聞いていませんでした」

「本家には報告しています。何度も」


 エステルさんは、俺を責める口調ではなかった。

 そのせいで、かえって腹の底が冷えた。

 父の書斎には、この人たちの報告が届いていたはずだ。


 御者に別れを告げ、門をくぐる。

 旧兵舎には畑仕事の道具が積まれ、広場には水桶が並んでいた。壁の石は黒い筋で汚れている。

 塔から垂れた大きな鐘は、割れて鳴らない。

 黒鐘という名は、あれから来たのだろう。


 俺の部屋には、寝台と机と、雨を受ける鍋が三つあった。


「今夜から天気が崩れます。こちらが比較的、乾いています」

「比較的」


 鍋の一つには、もう水が入っている。

 俺は窓の外を見た。

 雲が山の尾根を隠し始めていた。


「屋根へ上る梯子はありますか」

「今からですか?」

「明日より楽に上れると思います」


 エステルさんが少し口を開いた。

 それから俺の袖をつかみ、首を横に振った。


「勝手に上って、落ちないでください。足場の場所を知っている者を呼びます」


 十分後、俺は兵士のダンさんと屋根にいた。

 欠けた瓦だけでなく、その下の板もずれている。手を当てて診断すると、右側の梁に荷重が集中していた。

 瓦を埋めるだけでは、次の雪で屋根ごと落ちる。


「下にある短い角材を二本、持ってきてもらえますか」

「何にする」

「梁を支えます。人を入れる前に」


 ダンさんの表情が変わった。

 彼は部屋の下にある食堂を見て、急いで梯子を下りた。


 余っていた板を削り、壊れた梁へ支えを入れる。

 魔法でつなぐのは、裂け目を合わせたあとだ。違う形のものを押しつけても、丈夫にはならない。

 瓦が足りないところには板を重ねた。見た目は悪いが、一晩の雨ならしのげる。


 作業の途中で、下から子供の声がした。


「新しい領主さまも、屋根直すの?」

「屋根は、領主を待ってくれないから」


 女の子が笑った。

 笑い声を聞いてから、エステルさんが見上げていることに気づいた。


 日暮れまでに食堂側の屋根をふさぎ、足場を片づける。

 袖は泥だらけになっていた。

 戻ると、机の鍋は三つともなくなっていた。誰かが拭いてくれたらしい。


 夕食は豆と干し肉の煮物だった。

 俺の皿には、ほかより少し大きな肉が入っている。


「初日から働かせてしまいました」


 向かいに座ったエステルさんが言う。


「部屋を乾かしたかったので」

「食堂も乾きます」

「じゃあ、今のうちに肉をもう一つ要求しておけばよかった」


 彼女はしばらく俺を見たあと、自分の皿から肉を一つ移した。

 冗談だった、と言う前に、皿が空になってしまった。


「明日の朝は、水汲みに人を出します。領主様は休んでいてください」

「水は、どこから?」

「谷の沢です。行き帰りで半日かかります」


 俺は匙を置いた。

 さっき広場で見た水桶の底は、どれも浅かった。


「ここの井戸を、明朝見せてもらえませんか」

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