レモントゥリー
天使が、デスクの脇にある錆びついた大きな赤色のレバーを、雑にガチャンと引き下ろした。
ガタガタガタガタッ!!
突如として、私の足元の透明な床が、観音開きのようにバカッと開いた。
「キャアアアアアアアアアア!?」
「じゃあねー、第二の人生楽しんでねー。二度とこっちくんなよー」
上空から聞こえる天使のあまりにも投げやりな声を遠くに聴きながら、私は底なしの暗黒の渦へと一直線に落下していった。
暗闇の中で意識が途切れそうになりながら、私は心の中で猛烈に呪詛を吐いた。
(あのバカ天使しぇぇぇぇえええ!! 絶対何か押し間違えただろ! 次会ったら絶対にあの金髪むしり取ってやるからなあああああ!!)
──
「……ん……っ……」
どのくらいの時間が経ったのだろうか。
深い沈黙と暗闇の中から、私の意識がゆっくりと浮上してきた。
(生きている……? 私、無事に転生できたの……?)
真っ先に感じたのは、心地よい暖かさと、どこか香ばしい土の匂いだった。
良かった。どうやら無事にどこかの異世界に生まれ変わることができたらしい。
(ふぅ……あの雑な天使のことだから、どこかの肥溜めに落ちるんじゃないかとハラハラしたわよ。さて、私の新しい体は……?)
私は目を開けようとした。
……が、開かない。
いや、「目を閉じる・開ける」という感覚そのものが存在しない。
(え? なにこれ? 目が開かない? まさか赤ちゃんに転生したから、まだ目が開かない時期とか……?)
次に、手足を動かそうとした。
指先を握り締め、腕を伸ばし、脚をバタバタさせようとする。
……動かない。
それどころか、手足の感覚が一切存在しないのだ。
代わりに感じたのは、奇妙な『触覚』だった。
自分の体の中を、どくどくと流れる冷たい水分と栄養の感覚。
体の先端――いや、体の『下部』全体が、しっとりと湿った冷たい土の中に、何千、何万という細い糸のように深く深く張り巡らされている感覚。根っこだ。
そして、体の『上部』は、どこまでも高く広がり、そよ風を受けてカサカサと心地よい音を立てている。葉っぱだ。
(根っこ……? 葉っぱ……? え、ちょっと待って? 私の体、どうなってるの……?)
困惑する私の脳内に、突如として怒涛の勢いで『世界の知識』と『この体の記憶』が流れ込んできた。魂が宿った肉体(?)の履歴だった。
悪役霊樹。
……はい?
あくやく……れいじゅ……?
(令嬢じゃなくて……霊樹っ!?!?)
違う違う!! 全然意味が違うわよ!
あまりの衝撃に、私の魂(樹木)が激しく震えた。
知識の濁流が、容赦なく私の頭(幹)へと注ぎ込まれる。
この木――『悪役霊樹』の記憶。
かつて、この木は世界樹の分霊として、人々に崇め奉られる『聖なる霊樹』であったらしい。
病を治す聖水を湧き出させ、豊穣の恵みをもたらし、人々から感謝され、平和に暮らしていたのだ。
しかし、数百年前。
人間の強欲と裏切りによって、この地に凄惨な戦争が勃発。
聖なる樹のパワーを軍事利用しようとした人間たちは、樹の周囲で凄惨な虐殺を行い、無数の兵士の血と怨念がこの大地に染み込んだみたい。
人々の醜い裏切り、絶望、死に際の呪いを受け続けた聖なる樹は、やがて精神を病み、闇へと落ちたっぽい。
聖なる力はドロドロとした邪悪な魔気へと変貌し、近づく者全てを狂わせる『災厄の樹』――すなわち『悪役霊樹』へと成り果てたのだ……?
やがて、危険を察知した当時の英雄と聖女によって、この樹は深い森の奥底に強力な結界とともに封印された……。
(重い!! 重すぎるのよ設定が!! 悪役令嬢どころの騒ぎじゃないじゃない!! 完全にラストダンジョンのボスとか、世界を滅ぼす邪神の類じゃないのよこれ!!)
私は声にならない悲鳴を上げた。
あのバカクソ天使が!!
『アクヤク・レイジョウ』って入力する時に、絶対に予測変換で最初に出てきた『アクヤク・レイジュ』をよく確認もせずにエンターキー連打で決定しやがったな!!
「どうすんのよこれぇぇぇぇ! 私、女の子としての人生どころか、歩くことすらできないじゃない!!」
枝を振り回して暴れたかったが、当然ながら樹木なので動けない。せいぜい、風もないのに葉っぱを『シャカシャカ……』と寂しく揺らすことしかできない。
(落ち着け、落ち着くのよ私……! 霊樹になったのは百歩譲って受け入れるとして……いや受け入れたくないけど! 何か他に前世の知識とか恋愛できる要素はあるわけ!?)
私は自分の体や、感知できる周囲の状況に意識を向けた。
幹の太さは大人十人がかりで抱え込めるほど巨大。
高さは数十メートル。
表面の皮はゴツゴツとした黒紫色の禍々しい樹皮で覆われており、周囲には紫色の怪しいモヤ(魔気)がうっすらと漂っている。
まさに悪の威厳に満ちちあふれた、凶悪なモンスターツリーだ。
しかし。
ふと、自分の頭上――一番日当たりの良い大きな枝のあたりに意識を向けたとき、猛烈な違和感を覚えた。
(……ん? なにこれ?)
禍々しい黒紫色の枝から、ひょろりと伸びた緑色の小枝。
そこに、コロンとした丸い形をした『何か』が、鈴なりに実っていた。
禍々しい魔気を放つ巨木には、およそ似つかわしくない、鮮やかでポップなビタミンカラー。
(……黄色? レモン……?)
そう、レモンである。
どう見ても、前世のスーパーの果物売り場で売られていた、あの甘酸っぱくて爽やかな黄色い果実『レモン』が、禍々しい悪役霊樹の枝からたわわに実っているのだ。
(なんでえぇぇぇぇぇ!? 邪悪な呪いの樹に、なんでレモンが成ってんのよ!? 属性が渋滞しすぎでしょ!!)
知識を辿ると、どうやら元々が『恵みの樹』だった名残で、闇落ちした後も「何か果実を実らせなければならない」という樹木としての本能が狂い、なぜかレモンだけを大量生産する体質になってしまったらしい。
漆黒の幹、紫の魔気、禍々しいトゲ。
そして、そこに実るフレッシュな黄色いレモン。
あまりにもシュールすぎるビジュアルだわ。
(どうするのよ私……。悪役令嬢としてイケメン王子とエンカウントして『ざまぁ』するはずだったのに、これじゃ通りすがりの冒険者に『珍しいレモンが生えてる呪いの木だ! 伐採しよう!』って薪にされる未来しか見えないじゃないのよ!!)
風が吹き抜け、私の枝に実ったレモンたちが『ゆらゆら……』と揺れた。
ほのかに、爽やかな柑橘系の良い香りが、紫色の魔気混じりで漂う。
私の異世界第二の人生は、足もない、手もない、声も出ない、ただの『レモンが成る呪いの大木』として、絶望的なスタートを切ったのだった。




