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『港南の白銀』は ペティナイフを折りたくない


パキン!

台所に硬い音が響く。


「ああ…」


膝から崩れ落ちる。


「なんで…?」


これで三本目。


ホムセンで買った一本目。

通販で買ったちょっとお高い二本目。

専門店で買ったかなりお高い三本目。


「トマトって…ラスボスよりも難しい…」


結婚前の、付き合い始めた頃の話である。


輝琉は旦那くん(その頃は「彼氏くん」だけれど)に手料理を振る舞いたくなった。


『女子力アピール(笑)』


あの人の前だけは、可愛い女でいたい。

……いや。

たぶん、こっちが本当の私だ。



「白銀」とは知らない

私のことを温かい目で見てくれる

荷物を持とうかと言ってくれる

車道側を必ず歩く

穏やかに私の話を待ってくれる

そして

私のことを「好き」って…


そんな相手。


他人? ……まあ、そこまで興味はない。


「よし、ならば料理だ」


決意は固い。

包丁だって硬い。

……そのはずだった。

現実は、三本損失。


『ケース《あの人の胃袋をつかむ》』


は、計画こそ万全だが、準備の一歩目が出ないままである。



店内に入った瞬間、少しだけ背筋が伸びた。

二度目の来店である。

壁一面に包丁が並んでいる。牛刀、三徳、菜切り、出刃、柳刃。照明を受けた刃が、どれも静かに光っていた。


いつもの、装備の整備をお願いしている店とは違う。


派手な装飾もない。

怒鳴り合う喧噪もない。

魔力もない。


ただ、よく研がれた鋼の匂いと、木の柄、それから砥石の湿った匂いがする。

奥では店員が、一丁ずつ包丁を布で拭いていた。


「すみません」


「はい…あれ? 昨日のお客さん…なんか不都合がありましたか?」

手を止めた店員が振り返りつつ応対する。少し訝しげな表情だ。


「丈夫な…丈夫な包丁が欲しいんです」


「丈夫な?」


「はい。すっごく丈夫なの…が…」


「何にお使いですか?」


「料理です」


「それはそうでしょうけど」


少し笑われた。


む。


私は持ってきた布袋をカウンターへ置いた。


「これより丈夫なのが欲しくて」


店員が中を検める。包丁の箱を取り出す。昨日、売ったうちの店の包丁だ。一本6万円だ、それなりに良い品だ。

が、折れている。

笑顔が消えた。


「……これ、お客様が?」


「はい」


「何を切りました?」


「……トマト」

言いにくかった。


店員が顔を上げた。目がまん丸ってこんな顔なんだな…


「トマト?」


「トマト」


しばらく沈黙が続いた。

店の奥で、時計の秒針だけが聞こえた。

我を取り戻した店員は包丁を手に取り、折れた根元をじっと見る。


「曲がってもいない」


「はい」


「根元から、ほぼ一気に折れてる」

折れた断面を見る。

「一瞬?」


「だから丈夫なのを」


店員は私を見た。それから、再度手元の包丁を見る。もう一度、私を見る。

「ここが折れるって…初めてのことです……店主を呼びます」

店の奥から、年寄りの男が姿を表す。そして包丁をしばらく眺める。


「お客さん…冒険者?」


「…はい」

ちょっと恥ずかしくなった。


「こりゃ、うちの包丁では無理だよ」


さーっと血が下がる。このままでは…


「来な、俺ではどうしようもない…」


え? 見捨てられたと思ったら、ちょっと違うらしい。

『ケース《あの人の胃袋をつかむ》』は継続可能?


店の2階、自宅らしき台所へと導かれる。


「あらあら~」

そこに居たのはちんまりとした中年の女性。

「話は聞いたわよ、トマト切りたいんでしょ?」


よく分からないままに頷く。何度も頷く。


「料理するとき、力が入りすぎなのよ」


「入れてません」

即答した。


「本当に?」


「はい」


ダンジョンに比べれば、ほとんど入れていない。


「じゃあ…」

と、一本の包丁が差し出される。

ペティナイフ。

ダンジョンで使っている素材取り用のナイフに合わせてこれまで牛刀を買っていた。

このペティナイフは余りにも小さい、細い。投弾用のナイフに近い大きさだ。


「これ……」

戸惑いは大きい。馬鹿にされているのかとも思った。


「握ってみて」


握る。

軽い。余りにも弱々しい。

これを持ってダンジョン行けって言われるくらいならば、殴る方が早い。言った相手を…


「じゃあ、これ」

まな板の上にトマトが置かれた。


おのれ! トマトめぇ!


「切ってみてもらえます?」


「ここで?」


「はい」


私は刃を当てる。


「あ、力抜こ」


「抜いてます」


「肩、もっと」


「……抜いてます」


「もっと」


む。

でも、逆らわない。主婦歴=私の年齢 の人に逆らってはいけない。

輝琉、今学んだ。


「腕の力」

「握る力」

「指!」


言われた通り、指先から力を抜く。


「よし!」

刃を前へ滑らせる。

すっ。

トマトが切れた。


「…………」


断面が、つるりと光っている。


潰れていない。


汁もほとんど出ていない。


「切れた」


「でしょ?」

ふふふっと、中年女性(あとから「優子さん」という名を知った)が笑う。


「でも、力入れてないですよ?」


「入れなくていいのよ、ちゃんとした包丁ならば、使い方を間違わなかったら、ちゃんと切れるからね」


「…………」


知らなかった。そんなこと、この8年間、誰も教えてくれなかった。経験の中で「どれだけ大きな力を正確に叩き込むか」を覚えただけだった。

初めての経験は、初めての快感を得させてくれた。

5年前に初めてラスボスを倒した時より、少しだけ衝撃だった。


「切るものをよく見なさいな、どう切って良いか、素材の方が教えてくれる」


私はダンジョンでは岩を斬れる。魔物の装甲も斬れる。

が、トマトで戸惑った。

でも、みんな一緒だ。

素材だ。


「師匠! 弟子にしてください」


「あらあらあら、そんなたいそうなものになりたくないわ」


「じゃあ…お母さん…」

口に出してから、自分で固まった。なんで、そんな言葉が出たのか。

私には父も母もいない。

けれど、今のこの人を見ていたら、なぜかそんな言葉が出た。


「そっちの方が嬉しいなぁ」

優子さんは嬉しそうに、ホントに嬉しそうに私を見た。

私も笑っているはずだった。


「この包丁、買います」


「え~~? 私がいつも使っているのだよ?」


「それでも…買います。 私が初めてトマトを切った包丁だから…」


優子さんは笑っていた。見に来てた店主も笑っていた。

とても、とても良い雰囲気。私もその中に浸りたくなった。



白銀が持っている刃物の中で一番思い入れがあるもの

それはダンジョンでの普段使いの伝説級の剣でも魔導具でもなく、

十四センチくらいの台所用ペティナイフ。

そのペティナイフは、今も台所にある。他の包丁も増えた。

何度も研がれて、最初より少し細くなった。

それでも輝琉は、買い替えようとはしない。



料理中、旦那くんが後ろから覗いてる、何だかむずがゆい。


「その包丁、ずっと使ってるね」


「うん。お気に入り」


「高かったの?」


「そんなに」


「へえ」


旦那くんは知らない。

知らなくても、私が覚えている。


トマトを初めて切った包丁、旦那くんに手料理を振る舞いたいと…


そして

「お母さん」

を得た…そんな包丁。




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