第二話:『隠者』の講義
ステッパーを踏みながら、私はふと思った。
そういえば、ダイエットって何だっけ。
いや、痩せることじゃないのは知っている。
知っているのだが、なんだったか忘れた。
すると脳内図書館の奥から、カツ、カツ、と杖の音が聞こえた。
ああ、ちょうどいいや。
知識と記憶と経験担当。
海馬担当。
脳内外在化メンバー最年長。
御年七十八歳。
週に一度の晩酌を何より楽しみにしている。
紫色のパーマを完璧に決めた図書館司書。
みんなのばあば。
『隠者』である。
隠者は私の前に腰を下ろすと、老眼鏡をくいっと押し上げた。
「さて」
始まった。
これは長い。
私はステッパーを踏みながら聞く体勢に入った。
「そもそもダイエットとは何だと思う」
「痩せること?」
「それは現代日本での使われ方だな」
隠者は満足そうにうなずく。
こういう質問に答えられなくても怒らない。
むしろ講義の導入として喜ぶ。
教師向きの性格である。
「語源は古代ギリシャ語の『ディアイタ』。生活様式、生き方、暮らし方という意味だね」
「あー」
習った。
看護学校で習った。
「英語のdietも本来は食事制限だけを指す言葉ではない。食事も運動も睡眠も休養も含めた生活全体の管理だ」
「あー、習った習った」
「糖尿病食も、腎臓病食も、減塩食もdiet。つまり本来は体重だけの話ではない」
「うんうん」
隠者は満足そうにうなずいた。
私はステッパーを踏む。
隠者は講義を続ける。
この人は聞き役が相槌だけでも問題なく話せる。
長年の経験である。
「さて、ちよや」
「はい」
「アンタ、このステッパー日記を何だと思っておる」
「ダイエット日記?」
「半分正解」
隠者はニヤリと笑った。
嫌な予感がする。
こういう顔をした時は大体なにか刺してくる。
「第一話で何を書いた」
「ステッパー買った」
「違うね、なぜ自分のために金を使えなかったのかを書いておる」
「あー」
言われてみればそうである。
ステッパーの話をしているようで、八割くらい人生の話だった。
「第二話では何を書いた」
「明太子カルボナーラ美味しかった」
「そこじゃないよお」
「違ったか」
「習慣化だね」
確かに。
何分やったかより、続けることを優先していた。
「アンタがやってのは、体重管理ではなく生活再建」
図書館の窓から差し込む夕日が老眼鏡に反射した。
「人は、生活が崩れると自分を後回しにし始める」
「うん」
「睡眠を削り、食事を後回しに、運動をやめる。そして自分のための金を使えなくなる」
「……うん」
隠者は穏やかだった。
責めるわけでもない。
ただ長い人生で見てきた事実を語るように続ける。
「だが人は、自分を大切にする練習もできる」
私は黙って聞く。
ステッパーだけが一定のリズムを刻んでいる。
「五分でも十分でもいい」
「うん」
「数日休んでもいい」
「うん」
「大事なのは、自分のために時間を使ったという事実だねえ」
その言葉に、なんだか少しだけ力が抜けた。
痩せなきゃ。
頑張らなきゃ。
続けなきゃ。
そういう言葉ではなかった。
もっと静かなものだった。
「つまりねえ」
『隠者』は最後にこう結論づけた。
「アンタが書いているのはダイエット日記で合っている」
「おお」
「ただし本来の意味でのダイエットだね」
「生活の方の?」
「そうそう」
「なるほど」
「だから安心して明太子カルボナーラを食いな」
「そこ許可出るんだ」
「美味かったんだろう?」
「美味しかった」
「ならいい」
海馬担当は満足そうにうなずいた。
そして、
「さて、今日はビールの日だ」
と言い残し、図書館の奥へ消えていった。
さすが七十八歳。
最後に一番大事な予定を確認してから帰るのであった。
■2026/06/09■
ステッパー 何度も実施
今日は市役所に行って、苦手な書類を書いてきた。職員さんに聞きながらなんとか提出できた。私偉い。すでに記録が適当になってきた。




