後編
途中休憩を挟みながら、とうとう馬車はローレンツ家の玄関前へと到着した。
御者の手を借りて降りたフリードは、振り返ってミスティアへと手を差し出す。
ミスティアはにこりと微笑んでフリードの手を取り、ゆっくりとタラップを踏んだ。
「ミア!」
ミスティアが地面に降りた瞬間に声をかけられ、ふたりは声のした方へ振り返る。
豪奢ではないが、見る者が見れば質の良い生地でできたドレスを着たアイリーンが、ドレスの裾を思い切りたくし上げてこちらに駆け寄ってきていた。
思わずフリードは視線を逸らす。貴族令嬢の足はみだりに見るものではないと教えられたので。
「まあ、まあ、お姉様。そのように裾をたくし上げてはいけませんよ、お母様に叱られます」
「知ってるわよ! あとでお叱りは受けるわ。それどころじゃないの! ……っと、あら。申し訳ありません、聖者様」
駆けてきたアイリーンはミスティアしか見えていなかったらしい。
隣に目を逸らしたフリードがいるのに気づき、パッとドレスの裾を離した。
ゆっくりと視線を戻したフリードは内心ホッとしながら、慣れぬ外向けの笑顔を浮かべて胸元に手を添えた。
「はじめまして。ミスティア様の同僚のフリードと申します」
「はじめまして、聖者フリード様。ミスティアの姉、ローレンツ家が長子のアイリーンと申します」
一礼するフリードに、アイリーンはドレスの裾を摘んで ―― 先ほどよりは控えめに持ち上げて、カーテシーをした。
お互い目を合わせ、微笑む。フリードが軽くミスティアの方へ「どうぞ」と手のひらを差し出すと、アイリーンは軽く頭を下げてミスティアに向き直った。
「大変よ、ミア。あの大馬鹿者、ミア以外の女をパートナーとして連れてきたわ!!」
「あ、その女、俺の婚約者です」
「なんっ、え!?」
「フリード様はわたくしの協力者なんですの、お姉様」
「……そう。フリード様も大変だったのね」
一瞬の混乱、けれどもミスティアの言葉ですぐに理解したアイリーンからフリードに向けられた眼差しは憐憫だった。
そんな彼女の態度から、リナリアが会場でどんな態度を取っているのか想像がついたフリードは苦笑いを浮かべるしかない。
ひとつため息を吐いたアイリーンは、背筋を改めて伸ばして玄関の大扉を指し示した。
「ようこそ、ローレンツへ。歓迎いたしますわ、フリード様」
「ご招待いただき感謝いたします、アイリーン様。……不慣れで申し訳ありませんが、妹君のミスティア様をエスコートしても?」
「うふふ。本人が嫌がらなければ構いやしません」
「まあ、まあ。嫌がるだなんて。ぜひお願いいたします、フリード様」
ほんのりと頬を染めてそう答えたミスティアに、フリードは腕を差し出した。ミスティアはそっとその腕に手を絡ませる。
そんなミスティアの様子にアイリーンは目を丸くしたが、すぐに満足げな笑みを浮かべた。
ミスティアたちを迎えに来たときとは一変して、アイリーンはゆったりとふたりを先導するかのように歩き出す。
背筋は伸び、ヒールを履いているはずなのに歩き方は静かだ。
フリードが知っている、リナリアが歩く音はもっとヒールの音が高らかに響いていたというのに。
玄関前で待機していた使用人が、アイリーンたちに気づいて一礼する。
アイリーンが軽く手を振ると同時に、大扉はゆっくりと開かれた。
重厚な扉が開くと、そこは玄関ホール。正面に大階段があり、その二階廊下には陽の光が柔らかく差し込むステンドグラスがあった。
フリードの目が思わず、そちらに奪われる。
鮮やかな、様々な色ガラスで作られたそのステンドグラスには世界が崇拝する三神の姿があったからだ。
フリードの様子に気づいたアイリーンとミスティアが足を止めれば、自然とフリードの足も止まった。
「あのステンドグラスは我が家の自慢なんです。先祖代々受け継がれているもので……爵位を与えられた頃からずっとあるものじゃなかったかしら」
「神を題材とする場合は一柱であることがほとんどですが……三柱揃っているのは珍しいですね」
「ええ、ええ。そうですの。許しを得ましたから」
誰の。
ふたりにそう問いかけそうになって、フリードは声を出さずに開いた口を閉じた。
そしてそれは正解だったようで、ミスティアがにこりと微笑み、アイリーンが「参りましょう」と案内を促した。それに応じ、フリードもゆっくりと歩き出す。
ローレンツ家は歴史が古い。
それゆえに邸宅も広く、男爵家に関わらず自前のホールで開催できてしまうほどだ。
男爵位、子爵位は自邸が小さいことが多く、夜会の主催をすることは難しい。場所を借りて主催とすることが多い。
そのことはフリードも知識として頭に入れていたため理解はしていたが ―― 。
それよりも、何よりも。
調度品に目を奪われる。
歴史を感じさせるデザインだが丁寧に手入れされ、今もなお美しく、程よい明るさで廊下を照らすランプ。
廊下の壁に飾られた絵画の隅には、平民のフリードですら耳にしたことのある有名な作家のサイン。
許されるならばその場で足を止めて眺めたいほど、穏やかで静かな風景画もある。通りながら見たサインは見たことがないから無名の画家なのだろう。
柱の彫刻は周囲に溶け込むようなデザインで作られているが、よくよく見れば繊細な意匠でこれだけで展示会ができるだろうな、とフリードは素人ながら思う。
これを建国以来維持し続ける男爵家とは。
まだそこまで詳しく歴史を履修していないフリードは内心首を傾げざるをえない。
アイリーンは別のドアから入るとのことで、会場であるホール正面入口で別れた。
待機していたローレンツ家の執事はふたりに向かって一礼し、ゆっくりとドアを開ける。
「聖者フリード様、ならびに我がローレンツ家ご息女である聖女ミスティア様がいらっしゃいました!」
執事の一声に、会場内にいた全員の視線がふたりに集まった。
思わず体を揺らしたフリードに「大丈夫、大丈夫ですわ」とミスティアが告げる。フリードがこっそりとミスティアを見れば、アズールの色が光った。
フリードは意を決し、一歩足を進めた。それにあわせて、ミスティアも一歩進む。
正装したふたりは、それはもう格好の的であった。
そもそも聖者・聖女はこういった催しに出席することはほとんどない。
フリードもミスティアも聖者・聖女となって数年経っているが、フリードが「正装の袖に手を通したのは2回目」と言った通り、正装自体着る機会がないぐらいである。
国主催の祝賀会、豊穣祭などには神官長や長年務めている聖者・聖女が主に出るため、フリードやミスティアほどの若者は出席する機会がなかったと言ってもいい。
若い男女の正装姿とは様になるもの。
ふたりの容姿が整っていれば余計にそうだ。
案の定、フリードの美貌に目を奪われ、頬を染める令嬢や夫人が何人か現れた。紳士や令息は「ほぅ」と値踏みするかのようにミスティアを見ている。
ミスティアと顔見知りの紳士や夫人たちが次々とミスティアに声をかけ、ミスティアも慣れた様子で応える。フリードは緊張した面持ちのまま、ミスティアから促されたタイミングで挨拶を返した。
まだまだぎこちない所作ではあるが、彼らからすればフリードの出自を考慮するとその努力を評価しても良いレベルだったらしい。
フリードがリナリアから常に向けられていたような、蔑んだ眼差しは彼らから一度も向けられなかった。
フリードの緊張も解けてきて、ある程度会場内の中央付近までふたりが進んだタイミングだった。
「フリード!? お前、なんでここにいるのよ!!」
「ミスティア、君は今回欠席だって……ッ」
正確には、リナリアの声が空気を一変させたのかもしれない。
しかし彼女の隣に立っているグラムの顔色が悪くなっていったから、彼らがどういう立場なのか周囲は察することができただろう。
令嬢や夫人方がサッと扇子で口元を覆う。
令息や紳士方の眼差しが鋭くなる。
ミスティアたちの周囲にいた人たちが数歩、その場から下がってグラムとリナリア、ミスティアとフリードが対峙する形となった。
このような空間に立ったことのないフリードは内心怖気づいたが、フリードの隣には堂々とミスティアが立っていた。
男としては情けない話ではあるが、フリードにとって異質な空間であるこの場においてミスティアというのは非常に心強い味方だ。彼女がずっとフリードの腕に手を添えているのも理由のひとつかもしれない。
リナリアはわなわなと体を震わせて、閉じた扇子を勢いよくフリードに差し向けた。
「お前は欠席だと言ったはずでしょう!? なぜここにいるの!!」
「俺は言ってないです。手元にカードが残っていたのでそれで返事をしました」
「はぁ!? お前のカードは私に預けたはずでしょう! なんでカードがあるのよ!」
「俺はあなたにカードを預けた覚えはありません」
まさかここで受けさせられた教育が役に立つとは、とフリードは内心呆れる。
ディダック侯爵から派遣された講師から「平民では声が大きい者が勝者になりがちですが、あなたがこれから踏み込む世界は喚き散らした者が負けなのです」と教わっていたフリードは、皮肉にも教育を提供してくれたディダック侯爵の娘にその教育の成果を発揮していた。
可能であれば事前に根回しをする。
それが難しいのであれば、静かに。淡々と、事実を述べて反論する。
「主催のローレンツ男爵に確認を取りましょう。男爵の手元には俺の出席カードが2枚あるはずだ。あなたが出したカードと、俺が出したカードが」
「お前のが偽物に決まっているじゃないの!!」
「ご歓談中失礼!」
リナリアの声を遮るように響いた男の声に、その場にいた全員の視線が声の主に向けられる。
さあっとリナリアの顔が血の気が引いたように青白くなった。彼女の隣にいるグラムも同じだ。
さもありなんとフリードは思う。
平民であるフリードですら知っていて、絵姿などで見かけることがある人物であり。
なにより、フリードの隣に立つミスティアの面立ちによく似た男であったのだから。その隣にはミスティアと同じ髪色を持つ淑女がいる。
にこりと微笑んだミスティアに、男性もにっこりと微笑んだ。
「お父様、お母様」
「やあ、ミア。お隣が例の?」
「ええ。わたくしとほぼ同時期に聖者となったフリード様です」
「はじめまして、ローレンツ男爵。聖者を務めていますフリードです」
この会の主催であり、ミスティアの父であり。
何より、このローレンツ家の当主である彼はフリードから見れば不思議な雰囲気を持つ男であった。
背丈はミスティアより高いが、フリードよりやや低い。
身なりは整っているものの華美ではなく、どちらかというと上品な印象を持たせる。
たどたどしいフリードの挨拶に、トーマスは他の招待客同様に穏やかな眼差しを向けながら右手を差し出した。フリードも右手を差し出して、その手を握り返す。
「うん、うん。娘のミアから聞いているよ。娘や彼女に良くしてくれてるのだとか」
「ありがたいことに、俺に付き合っていただいているようなものです。このように、場に合わせてというのがまだ不慣れなものでサポートしてもらっています」
「そうだね。もう少し自信を持って話せると変わると思うが、まあこればっかりは回数をこなすしかないな」
「そうなんですね」
何度か握手した右手を上下させ、離しながらアドバイスをしてくれるトーマスにフリードは頷いた。
やはり何ごとも経験を増やすのが良いのだなと考えていると、視界の端でワナワナとリナリアが震えているのが見えた。
そちらに視線を向けようとして「フリード様」と黙ってトーマスの隣に立っていたミスティアの母であるビビアナに呼び止められたので、フリードはビビアナへと視線を戻す。
「ここは私たちの仕事です。出番はもう少しお待ちになって」
「……はい」
にこりと艶やかな笑みを浮かべたビビアナに目を瞬かせたフリードだったが、すぐに頷いた。
もともと、フリードはこの後なにが行われようとしているのかは知っている。
フリードとしてはミスティアとともに、出番があるまで事の成り行きを見守るだけだ。
そして、それは遠巻きでこの状況を眺める周囲の招待客も同様のことで。
グラムとリナリアの周囲に人はおらず、彼らの目の前にいるトーマスらを除けばぽつんとふたりだけが広間の中央に取り残されている状態。
そこにトーマスがグラムとリナリアのふたりの前に歩み出て、両手を後ろで組みながら微笑みかけた。
「ディダック嬢。結論から言うと、君から提出されたフリード殿の出欠カードは偽物で、フリード殿から提出されたものが本物だった。あれはどこで手に入れたものだい?」
「っ、あれは! 本当にフリードからもらったものです! それが偽物ならあの男が私に偽物を渡したんです!!」
「フリード殿はあなたとカードのやり取りは行っていないと言っているけれど?」
「嘘をついているに決まっています!! だってあの男は聖者といえ平民、学も知識もない男だもの!!」
―― なんと愚かな。
内心、トーマスは盛大なため息を吐いた。
よりにもよって聖者を侮辱するなど、ディダック侯爵はなんという教育をしていたのだと舌打ちをしたくなるレベルである。
聖者も、聖女も。神から認められた者たちだというのに。
そんな彼らを冒涜するということは、すなわち神をも侮辱するに他ならない。
そもそも薬を作るには高度な知識がないとできない。
フリードはこの国の《貴族社会》の知識や常識がないだけであって、彼自身の頭は悪くないのだ。
ディダック侯爵はフリードのことを認めているようだったが、娘はそうでなかったようだ。
「そうですか、そうですか」
納得したような声色でトーマスが呟くと、パッとリナリアの表情が明るくなった。
自分の主張が認められたとでも思っているのだろう。そんなはずはないのに。
次に、トーマスは先ほどから静かなグラムへと向き直った。
自分が詰問されるとでも思ったのだろう。グラムは勝手に口を開き、弁明を始めた。
「ちゃんと僕はミスティアに確認を取りました! 今日は僕と行けそうにないと! しかし、すでにそのときには出席の返事を出してしまっていましたので、友人であるリナリア嬢にパートナーをお願いしたのです、彼女も婚約者が欠席するからと、だから」
「だからといって、許される距離ではありませんわよ。おふたりとも」
呆れた、といった声色でそう告げたビビアナが、扇子で顔を隠したまま空いた手でひらりと振る。
それを合図に、どこからか紙の束を抱えたアイリーン、それからトレイにグラスを6つ載せた侍女と未開封であろうワインボトルを載せたトレイを持った侍女が現れる。
混乱する様子を見せるふたりに、アイリーンは「ごきげんよう」と言い放った。
「まずはおふたりの出会いから語らせていただきますね!」
「えっ」
「は?」
「おふたりとも、それぞれの婚約者である私の妹のミアとフリード様との面会後、偶然神殿の中庭で出会ったのだとか。はじめは挨拶だけ。しかし、それぞれ面会後に中庭へと散策に出ると約束もしていないのに必ず出会ったことから、偶然ではなく必然、神からの思し召しだと思ったんですよね?」
ふたりの表情はそれぞれだった。
リナリアは当然、というような表情であったが、グラムの顔色は悪い。
ミスティアが静かに笑みを浮かべ、口元に手を添える。
それに気づいたフリードがほんの少し腰をかがめて耳を近づけると、何かを囁いた。何度か目を瞬かせたフリードはあからさまに呆れた表情を浮かべながら姿勢を戻す。
「まあ、フリード様。こういうときは胸の内に感情をしまっておくのですよ。顔に出すのは……」
「ああ、それは……分かってるんだが、難しいな」
「うふふ。これも場の積み重ねですわ」
小声でのやり取りだったが、さすがにその会話はグラムとリナリアに届いた。
グラムは親しい様子のフリードとミスティアの様子に愕然としていたし、リナリアは侮辱されたとでも言わんばかりに顔を真っ赤にしている。
ミスティアがわざわざ、グラムとリナリアの目の前で声を抑えて伝えた内容だ。
おそらく自分たちのことを言ったのであり、フリードの様子からそれは自分たちのことを貶める内容だったのだろうというのは容易に推測できた。
何か言おうと口を開いたリナリアに、手元の用紙をめくったアイリーンが被せた。
「時期としては半年ほど前からですか? 街にふたりで出かけるようになったりしたとか」
「ゆ、友人だ。同じ聖者、聖女の婚約者同士、気が合って」
「神殿の中庭で抱擁していたなんて目撃談もありますが? 妹のミアだけではなく、神官様方や聖者様、聖女様方からもいくつか証言をいただいております」
弱々しいグラムの反論にアイリーンはバッサリと切り捨てた。
そもそも、神殿の中庭は開かれた場所である。ミスティアが抱擁しているふたりを見かけたように、他にも目撃者がいるのは当然のことだろう。
はて、とフリードは首を傾げた。
神殿内のことは口外しないとする神官や他の聖者、聖女たちが証言してくれるとは思ってもみなかったのだ。なぜならば、この件はミスティア個人、フリード個人のことだから。
聖者であるフリードが疑問に思ったのであれば当然グラムやリナリアも疑問に思うこと。
リナリアは扇子を強く握りしめながら震える声で「なぜ神官様方が?」と問う。その顔色は、悪い。
「あら、あら。ディダック様はご存知ないのですか?」
ミスティアが微笑みながら、明るい声で告げる。
「我がローレンツ家は、神殿の後ろ盾なんです。なんせ我が家の祖先は初代神殿長であり、神々から啓示を受けた初代聖者ですから」
―― はるか昔、病に苦しむ人々を哀れに思った三柱の神々がひとりの男にギフトを与えた。
男はギフトを用いて薬を開発した。
神々から助言を聞きながら、この組み合わせは毒、この組み合わせは薬、量は、奇跡の込め方は、と知識と記録を積み重ね、人々を病から救っていった。
しかし、世界には男の手の届かぬ土地、国に病に倒れる数多くの人々がいる。
男ひとりでは大変であると気づいた神々は、男の補佐となるに相応しい者たちを選別し、ギフトを与えた。
これがこの世界の神話のひとつであり、聖者、聖女誕生の一幕である。
この内容はギフト発現前、平民時代のフリードでも知っていることだった。ただし、内容のうち一部は異なっていたが。
周囲の貴族たちに驚いた様子がないということは、ローレンツ家がどういう立場だったのか理解していたということになる。
いや、とフリードは目を伏せる。
教養があるものであれば、あの玄関ホールにあったステンドグラスで察することができるのだ。
一度でもあの玄関ホールを通り、あのステンドグラスを目にしたのならローレンツ家がどういう立場なのか理解できるはずなのだ。
婚約者の家だ。グラムが訪問したことがないはずがない。
社交界でも影響のある家だ。リナリアは訪問したことはなくとも、両親であるディダック侯爵夫妻は招待されたことがあるはずだ。
神殿側が、三柱から認められたローレンツ家からの正式な、正当な要請を受け取って対応したに過ぎない。
「だ……だから、なんだって言うのよ。グラムの言う通り、私とグラムは友人だわ。友人同士、挨拶で抱擁することぐらいあるでしょう。グラムと私は相談し合っていただけだわ。お互い、婚約者が聖者、聖女ともなると普通の婚約者同士のような交流ができないねと。それだけよ」
「そ、そうだ。そうなんだよミスティア。誤解だ。リナリア嬢とは君と出かけるプランを相談していたんだ。君と出かけたときに退屈させないよう、あらかじめ下調べするためにリナリア嬢に協力を仰いでいただけなんだ。逆も然りだ。君や、フリード殿が思うような不貞は一切ない」
どの口が言うのかとフリードは思わず頭を抱えたくなった。
交流しようと努力していたフリードを「つまらない」と振り払い、文字通り叩いたのはリナリアである。
グラムが事情を知らないだけか、それとも知った上でこの言動か。
だが、それもすぐに分かること。
ミスティアは瞳を細めると、ゆっくりと歩みを進めた。
合わせてフリードもグラムとリナリアのふたりに近づく。
アイリーンがその場から数歩避けてミスティアとフリードのふたりに道を譲り、彼女たちは互いに手を伸ばせば触れ合えるほどの距離で立ち止まった。
静かに、自分たちに歩み寄ってきたミスティアとフリードに身構えたグラムとリナリア。
ミスティアはにこりと微笑むと、片手を上げた。
するとアイリーンに続いてこの場にいた、グラスが乗ったトレイを持った侍女がミスティアの隣に立つ。
トレイの上にある6つのグラスはいずれも空だ。
続いてワインボトルのトレイを持った侍女が、グラムとリナリアの前に立ち、軽く一礼した。
「未開封であることをご確認ください」
「な、なによッ! なんで私たちが!」
「……見よう、リナリア嬢。これは僕たちが後で難癖をつけたと言われないための配慮だ」
逆を言えば、未開封であることを確認したからこそグラムたちが難癖をつけることができないようにするための行動でもある。
グラムはボトルを持つと、コルク栓の周りをじっくりと見た。リナリアも隣から覗き込むように見つめる。
コルクの上から蝋で封じてあるタイプだった。一度でも開封すれば、蝋に傷がつき開けたことが一目で分かる。
10年ものの白ワイン。この手の夜会でよく出される、味も良い有名な醸造所が生産しているものだ。
何度か父に連れられ、夜会に参加したことがあるグラムもよく見るもの。
さすがに細工は無理だろうとグラムはリナリアへと視線を向けた。
リナリアも侯爵家の娘である。この手のものは必要知識として叩き込まれていたので、これが細工されていないものだとグラムの目を見て頷く。
トレイの上に戻そうとすると「開封をお願いいたします」とトレイに置かれていたナイフとコルクオープナーを使うよう促された。
ミスティア側が細工していないと立証するためのものだろう。
周囲の目もあり、グラムは渋々とワインボトルの蝋栓をナイフで軽く削って、トレイに戻すとオープナーを手に取って開けた。
ポン、と小気味の良いコルクが抜けた音とともに、熟成した白ワイン特有のローストしたナッツのような香りがグラムの鼻をくすぐる。
開封したボトルとオープナーをそのままトレイの上に戻す。
侍女は軽く膝を曲げて一礼すると、ミスティアのもとに向かった。
何をするのか、と怪訝な表情でうかがうグラムとリナリアの前で、ミスティアは懐から手のひらサイズの透明な容器に入った液体を取り出した。
「こちら、新薬になります。神に認可され、この度完成いたしました」
ちゃぷんと揺れたその新薬は、透明な液体である。
まるで水のような新薬が入った容器の蓋を開けたミスティアは、なんの躊躇もなく栓が開けられたワインボトルに注ぎ込む。
「ちょ、ちょっと! あなた何してるの!?」
「まあ、ご安心ください。この新薬は、疲労回復、二日酔い防止の効能があるのですよ。無味無臭、ワインの味や香りを損なうことはございません」
アイリーンが踏み出して、ワインボトルを手に取った。
軽くボトルを揺らして、それから6つのグラスに均等に注いでいく。
「二日酔い防止? そんな薬ができたのか」
「ええ、ええ、グラム様。正確には病ではありませんが、薬という形で作ることができたということは、神が認められたこと。神が必要と判断されたのでしょう」
「副作用は!? 中には、効能以外にも副作用が出るものもあると聞いてるわ!」
「今のところはないです。先日、国王陛下にも献上し、何名か陛下の前で服用いただきましたがいずれも『だるさがなくなった』とお喜びいただけました。その後、陛下と宰相様が服用され、大層お喜びになったと神殿長から報告を受けています」
フリードの答えにグラムが「陛下が……」と呟いて、拳を握った。
さあ。疑うことはできないだろう。
この国の中枢を担う王と宰相が服用し、問題ないと太鼓判を出した代物である。
さあ。その手に取るしかないだろう。
「おふたりとも、お疲れのご様子。ぜひ、お飲みくださいませ。きっとよく効きますわ」
ミスティアの一言で侍女がグラムとリナリアの前にグラスの乗ったトレイを差し出す。
自分で選べ、ということだ。
リナリアは視線を泳がせた。
いくら神が認可した、王家が服用したものとはいえ、得体のしれない薬は服用したくない。せめて、見知った、リナリアが信頼する人物が服用して何も問題がなければ ―― 。
するとひとり、顔色の悪い男が手を上げた。
「私もひとつ、いただいてよろしいか」
「す、すみません、私も」
「おや。ディダック侯爵にウィディアム子爵」
「お父様!」
まだ成婚していないグラムとリナリアがこの場にいるということは、ディダック侯爵夫妻とウィディアム子爵夫妻も招待されているということ。
意外だ、と言わんばかりにトーマスは彼らに呼びかけていた。
実際には子の暴走を止めようとして、静かに周囲に抑え込まれ今の今まで出てこれなかっただけ。
夫人らはこの状況に耐えきれず倒れてしまい、今は休憩室に運ばれている。
しかしリナリアは歓喜した。
そう、そうだ。父がいる。
父が飲んで何もなければ大丈夫だろう。
父はリナリアの言うことであれば何でも聞いてくれる。
今だって、リナリアのために出てきてくれたのだろう。
目を輝かせるリナリアとは対照的に、ディダック侯爵の顔色は悪い。
それはリナリアの隣にいるグラムとディダック侯爵の隣にいるウィディアム子爵も同じで。
すでにリナリアに対する評価は地の底に落ちていたフリードだったが、リナリアの態度を見てもはや呆れを通り越して哀れみすら感じていた。
かわいそうに。かわいそうに。
―― ティアが指示した薬が、そんな単純なものなわけないだろうに。
グラスは6つ。
先にディダック侯爵、ウィディアム子爵が手に取り、続けてグラムとリナリアが手に取った。
最後に残った2つを、フリードとミスティアが手に取る。
「それでは、皆さまに神の奇跡がありますよう」
ミスティアの乾杯の音頭で、リナリアを除く5人が白ワインを喉に流し込んだ。
味は、良質な白ワインだ。
熟成した証拠である複雑な香りが鼻を通り抜け、ホッとした心地へといざなう。
ふとミスティアがディダック侯爵とウィディアム子爵を見ると、ふたりは驚いたような表情でワイングラスをじっと見ている。
顔色は良くなっていて、しきりに自分の体をあちこちと動かしていた。
やがてウィディアム子爵がミスティアと目が合うと、先ほどまでの顔色の悪さはどこへやら。明るい表情まで見せた。
「ミスティア様! これは素晴らしいです、昨日からずっと体が重苦しかったのですが、スッと軽くなったような心地です!」
「まあ、まあ。お酒の影響もあるかもしれません。もう少し様子見なさった方がよろしいかと」
「……身が軽くなったような心地は私もしている。ただまあ、疲労回復と聞いて期待したほどではないが。二日酔いの方は明日にならんと分からんな」
「うふふ。ぜひ、お聞かせくださいませ」
両家当主が穏やかな表情で会話している様子に周囲もざわめきを大きくし始める。
様子見していたリナリアも、安堵したようにワインを口にした。
まあ、試してみたいわ。
陛下も、おふたりも試されたのであれば大丈夫だろう。
大丈夫も何も、神に認められているのだ。何も問題は、
そんな囁きが聞こえる中、ガシャンッとグラスが落ちた音が響いた。
全員の視線が一斉に向けられる。
落としたのは、リナリアだった。
「リナリア?」
「……ぁ、あ……?」
グラリとリナリアの体が大きく傾く。
グラスを放り投げてディダック侯爵は娘に駆けつけ、グラスの破片が散らばる床に倒れ込む前にリナリアを抱きとめた。
「リナリア!!」
「あら、まあ」
「グラム!!」
続けて、グラムが膝から崩れ落ちた。
幸いにも倒れ込むことはなかったが、その場に座り込んだ形でグラスも床に転がった。ワインがじわりと床に広がっていく。
ウィディアム子爵が駆け寄り、グラムの顔を上向かせると彼は眠っているだけのようだった。
だが、グラムは過去にワインは何度も飲んだことがある。
なぜ、どうして。自分たちはなんともなかったのに。
仮にあの薬が毒だったとして、ミスティアは未開封のワインに注いでこの6人に配った。
毒であるならば、薬の扱いに長けた聖者や聖女が毒が効かない可能性があるということを考慮しても、自分たちになんの影響もないのはおかしい。
トーマスが静かにディダック侯爵とウィディアム子爵に歩み寄り「部屋を用意しましょう」と告げた。
ビビアナに視線を向ければ、静かに頷いて使用人たちに指示を出し始める。
やがて数人の男性使用人と女性使用人が現れ、それぞれグラムとリナリアを運んでいく。
「ミスティア様! なぜ、なぜ!? なぜグラムは!!」
「説明を!! なぜ娘が倒れた!? 毒ではないのか!?」
周囲が大きくざわめく中、まるで胸元を掴みかからんばかりにこちらに寄ってきたふたりとミスティアの間に割り込むように、フリードが立つ。
ミスティアは目を瞬かせ、フリードを見上げる。彼の真剣な横顔が目に入った。
フリードは真面目な表情で、淡々と告げる。
「落ち着いてください。そもそも俺達は毒を作れません。それに、聖者や聖女が作った新薬を神の認可を経て、さらに問題がないことが確認されたとしても。人によっては効きすぎるということがあるのです」
「効きすぎる……?」
「あの薬は疲労回復がメイン。直前まで少し興奮されていましたし、回復の部分で眠らなければとなってしまったのかもしれません」
「……おふたりの婚約者が? 同時に?」
納得しかけたウィディアム子爵に対し、ディダック侯爵は懐疑的であった。
まあそうだろうなとフリードも思う。
もともとこの言い訳は考えていたものの、納得はしてくれないだろうなと思っていたからだ。
まあ確かに不審であろう。
聖者、聖女の婚約者ふたりが同時に倒れたのは。
すると、するりとミスティアがフリードの背中から出て、にこりと微笑んだ。
「おふたりが倒れられたもうひとつの可能性もございます」
「……それは」
「こちらへ」
ミスティアが手招く。
十分近いというのに手招くということは、人には聞かせたくない話ということ。
ディダック侯爵とウィディアム子爵は顔を見合わせ、ミスティアの話がよく聞こえるようにとわずかに身を屈めた。
「我々がギフトを与えた者は薬に奇跡を込める。そのときに我々に祈るのよ。どうかこの薬を服用する者の苦しみが晴れますように、と」
驚いたディダック侯爵とウィディアム子爵がミスティアを見て、表情が強張った。
ミスティアのスカイブルーの瞳が細められる。
「彼らと婚姻を結ぼうとする者は婚約の段階で我々に向かって誓約するわよね? 彼らの友となり、夫や妻となって支え合いながら共に歩むと」
「……あ、なたは」
「バカねぇ。我々との誓約を破り、彼らを蔑ろにする者どもに我々の奇跡が効くわけないじゃない。―― ご安心ください。きっと薬が効きすぎたのだとしても、約3日ほどで目を覚ますでしょう」
途中一度、瞳を閉じたミスティアは。
後半、周囲に聞こえるように告げたときには、すでにアズールの瞳になっていた。




