メリー・メアーと虹の架け橋 4
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ホテルを裸足で出歩くのはたいそう気持ちが良い。特にお風呂上がりなどは。
髪も濡れたまま、炭酸水片手に、私と詞浪さんは夜の屋上へ出た。というより、屋根の上に出た。風が吹いて心地よかった。
私はプロジェクターを持ち出して、無声映画の壁面上映会を催した。〈ホール〉式の恋愛映画に、詞浪さんはすぐ飽きてしまった。カマキリ少女のラブシーンはお気に召さなかったらしい。
そもそも娯楽というものをあまり嗜まない性質のようだ。
夕食も、けっきょくほとんど食べていない。競技という義務を失って、もう食事を摂る必要がなくなったという風情だった。消化器官の退化したウスバカゲロウのようだ。
彼女はセンセイの見つけたあの自転車を持ってきている。未練はないといったが、少なくとも愛着は持ったままでいることが、その手つきから分かった。
湯上がりのラフな格好のまま、彼女はサドルに跨がった。
両足をペダルに乗せてしまい、曲芸のようにバランスを取りはじめる。九階建てのホテルの、滑り台みたいに傾斜した屋根の上である。素敵にスリルのある光景だった。
彼女はついに両手を離して、地図を眺めはじめた。
「あっちが……北。海だな……。ねえ、現実そっくりだっていうけど〈ホール〉に果てはあるの? 地球の原寸大レプリカ?」
レプリカ、と私は答えた。宇宙に果てがないように〈ホール〉にも果てがない。少なくとも観測できる限りはそうなっていた。
「どこまで行っても誰もいないんだ?」
と詞浪さん。
屋上から大きな橋が見える。向こう岸は淡路島だ。
「気になってたんだけど。ここって修学旅行のルートから外れてるんだよね。現実と同じならバスは神戸辺りにいるはず。〈ホール〉に来た人はみんなこの辺にワープしてくるの?」
そこは〈ホール〉の七不思議。私にも不明だったが、一種の〈駅〉のみたいなものだと考える事にしていた。
客人は〈扉〉を通じて〈ホール〉へ現れる。
ちょうど、何処から汽車に乗っても停車駅が決まっているように〈扉〉の現れる地域は、ある程度決まっているようなのだ。だいたいは睡った場所から近い〈駅〉で降りるようだ。
実際、ここの海峡付近以外では、長崎と群馬に〈駅〉があるのを、私自身が確認している。
長崎なら長崎、群馬なら群馬近辺、マサチューセッツ州エセックスで睡ったなら、マサチューセッツ州エセックスに近い〈駅〉に〈扉〉は現れるというわけだ。もちろん〈ホール〉は気まぐれだから、必ず決まったルールが適応されると期待してはいけないが。
「ねえ。憶えてないんだけど、私の〈扉〉ってやつは、離れたところにある気がする」
自転車を前後に揺らしながら詞浪さんはそういった。
神戸より向こうに? と聞くと「うん」という。
つまり、詞浪さんの〈扉〉は修学旅行のルート上のどこかにあって、そこから〈ホール〉の自動車道をバスで走り続けた結果、ここまで辿り着いたということらしい。
詞浪さん本人がそう感じるのなら、そうなのだろう。彼女の〈扉〉だ。彼女本人の感覚を信じるべきだ。
しかし、だとしたら彼女たちが現実へ帰るには、少なくとも、旅行ルートとの分岐点である神戸まで移動しなくてはならない。
確か、ここから一〇〇㎞ほどある。車では一、二時間の距離だ。
詞浪さんは軽く「一〇〇くらいなら圏内かな」という。「ロードレースでは当たり前の距離だよ。短いくらい」
自転車の話? と聞くと、もちろん、という。自転車で一〇〇キロメートル? まあ、バスがあるし、センセイが運転すれば帰りは問題ないだろうと納得しておいた。
ところでセンセイは何をしているかというと、この時、西瓜畑の所にいた。屋上から見えるのだ。モブとセンセイの笑い声が高まって、ここまで届いてきた。
「みんなありがとう。ありがとうみんな。怖がってごめんな。みんなが先生のことをこんなに思ってくれてるなんて知らなかった!」
〈先生頑張れ〉
〈見てるよ先生〉
〈見てるぞ〉
〈おいでよ先生〉
「ありがとう。ありがとう。先生は今夜生まれ変わります!」
いったい何の話をしているのか。
「こわぁ」と詞浪さんはいった。「やっぱり、もう帰った方がいいのかな」
確かに、悪夢に対するセンセイの耐性は弱い。
確かに早く帰るにこしたことはないだろう。
とはいえ、要は〈扉〉をくぐることができれば良い。
例えば、これまで〈ホール〉で大怪我をした人も見たことがあるが、その人は体が真っ二つになった状態でも現実へ帰っていけた。
悪夢が安全だった場合もある。また別のある人は、悪夢に半ば飲みこまれながらも〈扉〉まで容易に辿り着くことができた。「眼球に毛が生える」というだけの悪夢だったからだ。センセイも、状況によっては安全に帰還できるだろう。詞浪さんが送ってやれば良いのだ。
私は詞浪さんに、もっとここにいたいかと尋ねた。
詞浪さんは自分でもよくわからないらしく、曖昧な答えを返した。
「修学旅行に戻るのがさ……嫌って訳でもないんだけど、あんまり興味ないっていうか。私はチャリンコ乗りに学校選んだわけで……。でも、それももう関係ないわけで、別に誰も悪くないんだけどさ……『なんでここにいるんだろ?』って思ったりもするわけ」
彼女自身、自分の欲望やストレスが分かっていないのかもしれないなと私は考えた。
とはいえ夢分析は私の仕事ではない。
確かに、センセイの様子を見るに、いったん帰った方が良いでしょうと私はいった。詞浪さんは溜息をついた。
「そっか~。車も信号もない道って興味あったんだけどな。センセイのいったとおり、一回くらいは乗っておいてもよかったかなって思ってた所だけど、まあしょうがないよね」
そういって彼女は自転車から降りた。また来れば良いのですよと私はいった。
「あ、これるんだ。じゃあいいよね~」
詞浪さんは、素直に頷いていたが、急にとても困った、申し訳なさそうな顔で、何か切り出しかけた。
「でもさあ、ほんとのほんとの事をいうとさあ……私は……いや。やっぱりいわない。いう必要のない事だから。いうべきじゃない。こんなこと」
〈ホール〉では何をいってもいいのですよ。そう伝えようとしたときだった。私たちは下からの声が変化しているのに気づいた。悲鳴が上がっている。
それはモブたちの声で、子供が演技をしているような、造りっぽい声色だったが、悲鳴には違いない。
屋根のヘリまで行って西瓜畑を見下ろすと、闇の中センセイのシャツが白く見さだめられた。体を仰向けに投げ出して倒れているように見えた。




