メリー・メアーと虹の架け橋 3
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詞浪さんを誘ってホテルのプールへ行った。センセイは遠慮した。周囲を調べてくるという。〈ホール〉を危険と見て、生徒の安全確保に動いたのかもしれなかった。
我々は水に浮かんだ。
例によって色んな物を持ちこんだ。それらが夏の光を反射してプールを彩った。
プール用のカヌーを浮かべて、実は学生時代カヤックで国体まで行ったのです、などといってみたが、詞浪さんは私の拙い動作から即座に嘘だとみやぶってしまった。
「体幹の使い方で分かるんだよね」
そういって、詞浪さんはぷかぷか浮かんだお菓子の中から、ハリボグミを選んで、口へ運びそうな素振りを見せた。が、結局歯をたてただけだった。使用したカロリーの分だけ随時補給するのだという。
詞浪さんはそぎ落とされた肉体をしている。そしてネコ科の猛獣のように、腿だけが逞しかった。
「たいして動いてないから食べる気しないんだ。癖みたいなもの。体軽くしておかないと損した気持ちになる。軽い方が有利だから」
彼女はそういったが、これではよくわからない。
はっきりしたのは、センセイが競技用自転車を持ってやって来た時だった。
「裏で見つけた。ホテルの客の持ち物という事なのかな? もちろんその客は実在しないんだろうから、好きにしていいよな。クロモリ製で重いが、ツーリング程度なら問題ないだろう。セッティングも詞浪に合わせておいた。近くに峠もあるみたいだし、乗ってみたらどうかな? ここが夢の中なら……その、足も平気なんじゃないかと……思ったんだが……」
手柄を報告する様子だったのが、言葉尻はしぼんでいった。詞浪さんの反応は淡泊だった。
「気が向いたら試してみるよ。それよりセンセイも游いだら」
「ああ……そう。いや、游ぐのは止しておくよ……」
振り返りながら、センセイは引っこんでいった。
自転車競技を? と私は詞浪さんへ尋ねた。
詞浪さんは当たり前のように、こう応えるのだった。
「はい。天才でしたね」
彼女は話し始めた。浮き輪にお尻を突っこんだ姿勢で、傷のある方の足で水をパチャパチャ蹴っている。つまり、こういう事だった。
「親がチャリンコ好きでさ。で、私は偶然にも才能に満ちあふれてた。だから強者の義務として競技へ行ったわけ。自転車部があるからって、わざわざお堅い学校受験したんだけど――まあ、これですよ」
彼女は傷跡のある右膝を叩いて見せた。レースでの落車と練習のしすぎが祟ったのだという。
「手術したし日常生活では問題ないよ。たまに傷むだけ」
復帰は、と訊くと、しないと答えた。
「私が競技をするのは才能への奉仕で、義務だった訳。で、今はもう違う。だから違うことをする」
では義務を終えて、今はバカンス中というわけですねと私がいうと、彼女は声を上げて笑った。
「バカンスか。そりゃあいいや」
そういって、色とりどりのハリボグミを水中へばら撒いた。
なんら湿ったところのない心からの笑い声に聞こえた。いろんな夢があるものだ。
センセイは、その自転車部の顧問なのだった。
詞浪さんのヒザのことで責任を感じているらしい。それであの態度の謎が解けたが、足の事が全てではない気もする。
センセイはあなたへ特別な感情を抱いているのでは? 私がいうと、詞浪さんはさすがに驚いた様子を見せた。浮き輪からずり落ちて、しばらく浮いてこなかった。
ビート板で浮かべたラジオからは、素敵に甘酸っぱいメロドラマ放送が流れてくる。ちょうど、一年ぶりに再会した婚約者がサメに食べられたところだった。
そこへ詞浪さんが浮いてきて、ビート板を転覆させた。彼女は説明して、
「あの人のはそういうのじゃないよ。よくわかんないけど」
という。立て続けにこう付け加えた。
「――怪我のことだって、いうほど先生は気にしてないと思う。だって実際悪くないし。休めっていわれたのに私が隠れて練習してたのが悪い。でも先生は謝る。多分、謝ったり後悔するのが好きなんだよ。悪い意味でいうんじゃないけど、あの人はそういうのが青春だと思ってるんだ。きっとそれだけだよ。いや、ホントに」
なかなか辛辣な意見だが、単純に照れ隠しだけの言葉だろうか? 謎だ。彼女らには彼女らの関係性があって、本人達にだけ分かることが存在する。
だが同様に、センセイ個人にはセンセイ個人の欲求があって、それは身近な人間にも明かされないものなのだ。
〈ホール〉は隠された欲求の発露する場所でもある。それが、強い即棒として存在するなら、いずれ悪夢の姿をとって現れるはずだ。
個人的な欲求をいうと、センセイの欲望が素敵なメロドラマなら面白いのだが。
プールから上がって移動するとき、外にいるセンセイを見つけた。
彼は、畑にしゃがんで西瓜生徒たちと会話していた。
「大丈夫だって。きっと伝わるよ。勇気を出して」
子供達のなぐさめるような声が聞こえてきた。さて、どうなることやら。
夕方になると、センセイが食事を作り始めた。
私は、畑の野菜を使ってもいいのですよと進言した。ところが、実際、いったい何故だかまったく分からないのだが「いや。結構」という返事が戻ってきた。さらに、烏賊君は低カロリー高タンパクの上、独特のエグ味が最高ですよと親切からいってみたところ「いや。結構」というお答えをいただいた。ならば手伝いましょうとすると、やはり「いや。結構」という。謎だ。
詞浪さんは詞浪さんで「ゆで卵とかで良いけど」などとネガティブなことをいい、結局、私たちはキッチンから追い出されてしまう。
「三時間ほど遊んでからまた来てくれ。最高のヘルシー料理を用意しますよ」
待つ間、私たちは戯れに二度、接吻した。
それはともかく三時間後。上階の貴賓室へ入り、隣り合って座った。
白い布をかけたテーブルに、センセイは約束通り、ヘルシーな料理を並べて待っていた。私の素敵な野菜たちは一切使われていない。
「大丈夫だぞ。材料の安全性はぜんぶ俺が確認したからな。さあ食べてくれ。せめて箸をつけてくれ、さあ。口を開けて噛むだけ。ふくむだけでも良いから。さあ」
センセイは前のめりになって勧めてくる。
詞浪さんが変な顔をした。
「やたらと勧めてくるな……」
彼女は脂身の一切ない、鹿肉のソルベを選んで、ゆっくり噛んでいる。センセイはテーブルに両手をついて、それをかぶりつきで見守るのだった。
「食べてるか? ごっくんしたか? 口を開けて見せて、口を開けて見せて。食べたな? 食べちゃったねえ」
「どうしちゃったの? この人」
詞浪さんの眉根に苛立ちの影が走った。
〈悪夢の兆し〉は客人の認知や行動に変化を与えるのです。と私は説明した。夢の中って変な行動をとるものでしょう?
「正気じゃなくなるって事?」
いずれはそうなる。が、今のセンセイはまだそこまでは行っていないように見えた。だが、早めに帰らせた方がいいのかもしれない。
詞浪さんがお尻で合図をしてきた。
「ずっと口元見てくるんだけど……」
センセイは慈愛に満ちたような笑みを浮かべて、詞浪さんを見つめている。
いったいどういう欲求がセンセイにこうさせるのだろうか。単純に生徒のお腹をいっぱいにしたいのだろうか? それだけではないだろう。




