編纂局の日常
久々に大賢者の登場です。
お土産話に花が咲くのは良い旅行だった証だと思います。
王都に帰り着いてしばらくのち、パトリシアは博物誌 編纂局の執務室にいた。
既に普段着慣れている町娘風の服へ着替えは済ませている。ここに来る途中でベルナルドが気を利かせて服屋に立ち寄ったのだ。諸々に付き合ってここまで彼女を送り届けた彼は、少し前に用があると言って姿を消してしまった。
「師匠、ただいまザンダより戻ってまいりました」
パトリシアはここ数日離れていた執務室を見渡した。
(意外と散らかっていませんね。私が通わなくなったら元の魔境に戻っていてもおかしくないと思っていたのですけれど)
ものぐさのユエールが散らかし放題にしているかと思いきや、予想に反してそれなりに片付いている。これならば掃除の手間もそれほど掛からなそうだと、パトリシアは少し気が楽になった。
パトリシアが部屋に入ってきたことに気がついたユエールは筆を走らせていた紙面から顔を上げ、いつもの様に軽い調子で彼女を迎え入れる。
「無事に戻ってきましたね。子供の初めてのお使いで帰りを待つ親の気分というのはこういうものなのでしょうか? 実に興味深い経験でしたが、正直なところ心配のあまり何にも手がつきませんでしたよ」
いつも通りの少し軽薄な様子の師匠だったが、それが表面上のものであるのはすぐにわかった。
今はそろそろ日も沈もうという時刻だ。常であれば怠けて机の上で平たくなっているか椅子に持たれて船を漕いでいるか。普段の師匠といえばそんな様子なのだ。
しかし、今日のユエールは自席で執務を取っていたのだ。これが普通の状態のはずがない。明らかな異常事態だった。
執務室を見回せば異変は他にもみてとれた。あれほどパトリシアが急かして確認させようとしていた原稿の山が切り崩されている。未確認の山はすっかり姿を消していて、それどころか先ほどもユエール自ら原稿を広げ手を入れていた様子。
(子供扱いというのが少し不満ですけど、確かに危険な目に遭ってしまいましたから大きなことは言えませんね。心配していただいていた、というのは本当のことの様ですし)
パトリシアは気を揉んでいたであろう師匠に、自らの無事を示す様にゆったりとした仕草で帰着の礼をした。
「ご心配おかけして申し訳ありません。でも随分お仕事の方は捗ったのですね? 溜まっていた原稿がすっかり片付いているので正直なところ、信じられない思いでいっぱいですわ」
「心配しすぎて仕事くらいしか手につかなかったのですよ。先触れで今日帰ってくると聞いて、実際気を揉んでいたのですよ? 予定よりもだいぶ早い帰りでしたが何かありましたか?」
ユエールのやる気はパトリシアの無事な姿に安心した途端にどこかに行ってしまったらしい。その手は口とは別の生き物の様に動き、机の上の書きかけの原稿を「やり直し」の箱に積み上げた。
パトリシアはといえば携えていた旅行鞄を自席の上に広げ、中から諸々の書類を取り出した。さまざまな書類があったが、そのほとんどを自席の「未処理」の箱の中に放り込む。
「目的がはっきり掴めない襲撃にあったので仕方なく切り上げてきたのです。せっかく師匠が見聞を広げてくる様にと予定を開けてくださったのに残念ですわ。それと、これが落札した品物の目録です」
パトリシアは未処理の山の中からひと束の書類を抜き出してユエールに手渡す。持ち帰った書類は全てユエールに手渡すべきものだが、ユエールはそれを咎めることはなかった。
彼女がこの編纂局に配属になって以来、ユエールは細々した仕事を全て優秀な弟子に押し付けている。書類の管理などその最たるものだ。それに態々関わることで滞らせる様な真似を、ものぐさのユエールがするわけがなかった。
椅子に深く座り直したユエールは手渡された目録に目を通し始めるし、パトリシアは自席に戻るとザンダから持ち帰った書類の整理を開始する。
つまりどういう事かといえば、編纂局は既に平常運転に戻ったという事だ。
あるべきものが戻ればあるべき様に廻り始める。既にパトリシアがこの場所で欠かせないものとなっている証左だった。
手を休めることなくパトリシアはザンダでの出来事を師匠に語り聞かせている。
真っ先にベルナルドと自分が襲われたこと。
それからザンダの街の様子、オークションで見た品々のこと
そしてテレサ夫人について--
「ザンダでは思いもかけない方とお知り合いになれたのですよ。なんとその方、剣聖様と以前お付き合いされていたというご婦人だったんです。落札する商品をどれにするかで随分とお力添えいただきました」
「剣聖 スワロフは随分と昔の人間だったはずですが。その知り合いなどによく出会えましたね。その上力まで借りられるなど、なかなかできることではないですよ、パトリシア」
「お知り合いになれたのは本当に偶然でしたわ。その方、確かにお年を召していらっしゃいましたけど、今でもお綺麗な方で。それにとにかくお元気でしたの。もう私も殿下もその方が話を始めると全然口を挟めなくて…… それで…… その…… 本当に、お喋りするのが好きな方で……」
不意にパトリシアの言葉が詰まる。
夫人の事を語るうちに不意に思い至ったのだ。自分達と別れたテレサ夫人はまた一人旅に戻ってしまったことに。
(それも今までとは違う、本当の一人旅、なのですよね。テレサ様……)
いつか果たされると信じていた剣聖との再会の約束。それを胸に旅していた時とはもう異なるのだ。
それを思うとパトリシアの胸は締め付けられる様に痛んだ。
手紙を書こう。何枚でも、何度でも。
少しでもテレサ夫人の心の隙間を埋められる事を願って。
目の端に浮かぶものをそっと拭うパトリシアの様子をユエールが顧みることはない。いつだって、この大賢者は底意地が悪く、どこまでも自分勝手なのだ。
それでもそんなユエールの傍は存外に居心地が悪くないのが不思議だった。今だってまるで彼女の気持ちが落ち着くのを見計らったかの様に声をかけてくるのだ。
ユエールは書類から目を上げ、夕闇が濃くなってきた窓の外に目を向ける。
「パトリシア、今日はもう良いから帰りなさい。時間も遅いですし、何より旅で疲れているのでしょう?」
パトリシアにはユエールの声音がいつになく優しく感じられた。常なら自分のことなど揶揄うか振り回すかでしかない師匠に、今日はひどく気を遣われているのがわかる。
その事実が、ひどく疲れているという事を自分に突きつけている。その様にパトリシアには感じられた。
パトリシアは作業に没頭するのをやめ、手を止めるとため息を一つつく。
「おっしゃる通りですね。今日はあまり無理をしてはならない様です。私、明日に備えてこれで上がらせていただきますわ」
「ええ、そうしてください。なにせあなたがいないと書類仕事が滞っていけない」
師匠のぼやきを適当に流しながら広げていた書類を手早く片付ける。それが終わるとパトリシアは席を立った。
手にはザンダまでの手回品を詰め込んだ旅行鞄。侍女の仕事で体力には自信があったが、それでもしっかりとした革で作られたそれを持ち上げるのはそれなりに苦労する。
(この重みが今回の旅行きで私が得た経験の重さなのでしょうか。いずれ抱え切れないほどの経験をすることもあるのかもしれませんね)
そんな他愛もないことを考えながら、パトリシアはユエールの前に立つ。
「それではお師匠様、本日はこれにて失礼いたします」
「ええ、慣れた道でしょうけれど気をつけて帰ってくださいね。ザンダでの働き、実に見事でした。初めての買い付けにしては上出来でしたよ」
「師匠にそんな風に手放しで褒めていただけるなんて光栄ですわ。あら? ひょっとして初めての経験かもしれませんわね」
「いやいや、いつも褒めてるじゃないですか。私のことをなんだと思っているのですか?」
ぼやくユエールに王宮式の丁寧なお辞儀をして、パトリシアは踵を返した。重たい旅行鞄を両手で持ち上げて、少し体を傾けて歩きながら出入り口へと向かう。
それではまた明日、と執務室を辞して家に帰ろうとしたパトリシアだったが、ユエールの驚いた様な声にその足を止められてしまった。
「おや、首飾りを新しくしたのですね。いつもの首飾りはどうしましたか?」
ユエールの言葉にパトリシアは首をかしげる。ユエールが何を言っているのか理解できなかったのだ。
(新しくも何も、いつもの首飾りをかけているだけですけれど)
首にかけているのはいつもの百日草を象った首飾りだ。ユエールだっていつも自分がこれを身につけていることを知っているはずだった。
(そう言えば鎖を新調したのでしたっけ)
一瞬考え込んでしまったもののパトリシアはすぐに答えに辿り着いた。
「首飾りはいつものものから変わっていませんわ。ただ、ザンダで鎖が切れてしまったのでそこだけ新しくしたのです」
そう言いながら、パトリシアは胸元から首飾りを引き出してユエールに見せる。
「王都に戻ってきた時に替えの細鎖を殿下に買っていただいたのですよ。私、自分で買うつもりでいたのに、殿下がいつの間にか買ってきてしまって……」
パトリシアは少し言い訳がましい様子で細鎖が変わった事をユエールに伝えてた。勝手に細鎖を買ってきたベルナルドのことをさも迷惑そうに語っている。
替えの細鎖を手渡された下りをパトリシアは不満げに語る。しかしその間も細鎖に指を這わす仕草が、その口振りが本心では無いと語っていた。
(贈られたこと自体嬉しいくせに素直ではないですね、この弟子は。とはいえ以前のパトリシアであれば単に切れたから修理した、くらいで済ますはず。殿下と二人でザンダに向かわせたのは意外に良い結果となった様ですね)
ユエールは目を細めて弟子の心の成長を存分に楽しんだあと、ようやく彼女を解放した。
「帰り際に引き止めて悪かったですね。殿下には私の弟子をあまり揶揄わないでくださいとお願いしておきますよ」
パトリシアはユエールに改めて暇を告げると、彼女の家へと帰っていった。
執務室に一人残されたユエールは自席から立つと窓辺に向かうと、そこから外の景色に目を向けた。目の前に広がる湖畔の風景はそろそろ夜の闇に沈もうとしている。
「私が与えていた加護ではなく、殿下の祈りがパトリシアを護ったということなのですね。殿下は呪術の才能などないというのに」
だから人間は面白い
その大賢者の呟きは誰の耳に届くこともなく、夕闇に沈む部屋に消えていった。
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
次回でこのお話は完結です。
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