15-25 カメとヘビ
イシガメは声も出せずに立ち尽くしていた。乾燥しきった喉の奥が、さらにも増して干乾びてきた。その奥から酸っぱいものが込み上げてきて、思わず口を噤んで顔を背けた。
あれほどやめろと言ったのに、ジュウゴとワンは食事を始めた。絶対に腹を壊す。絶対に吐く。目に見えていた。だが目の前に広がる光景は予想とは大きく異なる物だった。
飲む、と言った。確かに言った。そりゃあ飲むよ、俺だって飲む。生きている限り誰だって飲むだろう。だが飲むのならその前に搾るものではないか。ずっとそうしてきたし皆そうだと思っていた。しかしジュウゴは違った。この、どこから来たのか素性も名前も明かさない秘密だらけの男は、腐りかけた遺体の頸部に直接自分の歯を立て、噛みつき、飲みだした。採血ではない。搾血でもない。吸血、と言うのが相応しい。こんな飲み方、見たこと無い。いや、ジュウゴだけじゃない。ワンも、この奇妙で不気味な体を持つ、言葉を持たない性別不詳の存在に至っては、食べている、野菜みたいに女の体が食い荒らされていく。ワンが求めていたのは血液ではなく、肉、臓物、遺体そのもの、頭部以外の全ての部位だった。ジュウゴに吸われ、ワンに食べられる女の腐った体は、狩りとは違った損壊具合で、イシガメにはそれが堪らなく気持ち悪かった。
食事を終えたのか、ジュウゴは顔をあげて息を吐き、手の甲で口元を拭った。ワンはまだ、女の腹部に顔を突っ込んで、くちゃくちゃと音を立てている。やがてワンも、不潔な汁でべとべとになった顔をあげた。歯に筋でも挟まったのか、長い舌を執拗に動かしながら、頭を左に傾けて奥歯を何度もかちかちと鳴らしている。
「終わった?」
ジュウゴの声にイシガメはびくりとした。相変わらず陰鬱な、無表情のままの声だった。
「なら埋めよう」
言ってジュウゴは両手で砂を掻き始めた。
砂を掘りながらジュウゴは何度も顔をしかめた。胃が受け付けない腐敗物が逆流しているのだろう。それでも決して口を開くことなく、瞼をぎゅっと閉じてそれを飲み込む。しかしやはり体の拒否反応には抗えないらしく、やがて項垂れて手を止めた。イシガメは見ていられない。息を吐いてジュウゴに近づき、その肩を押しやって砂を掻き始めた。ジュウゴは手で口元を抑えながらイシガメを見る。イシガメはちらりとジュウゴを見て、すぐに視線を地面に戻した。
「そこまで腹減ってた?」
ジュウゴは俯く。
「吐いちまえよ、向こう行けや」
首を横に振る。
「お前、何したいんだよ」
ジュウゴは空を仰ぎ、口を開けて息を吐いた。軽く咳込んでから横を向いて咳払いする。
「馬鹿」
イシガメが吐き捨てるように言った。
「これで、」
ジュウゴがようやく話し始めた。イシガメは手を止めて今にも嘔吐しそうな男に振り返る。
「彼女が死んだ、理由」
「は?」
「僕を満たしてくれた」
呆れて物が言えなかったのか、言葉の意味を理解するのに時間を要したのか、イシガメはしばらくぽかんと口を開けてジュウゴを見ていた。そのジュウゴが唾を飲み込み、ふらふらとイシガメの横に来た。イシガメは身を引く。ジュウゴはまた、一点だけを見つめて砂を掻き始めた。
「お前さ、」
ジュウゴはイシガメを見た。イシガメはジュウゴの視線を感じつつも砂の一点を見つめている。
「ほんっと馬鹿だよな」
並んで黙って砂を掘った。
無言で歩く。月はすでに見えなくなっていて、か細い明かりの星たちが、ここぞとばかりに黒い空にひしめき合っている。
ジュウゴはあれから何も言わない。俯き加減で思案顔だ。イシガメも何も言えない。ちらりと盗み見ると辛気臭い横顔がいつも以上に暗くて、イシガメはすぐに顔を逸らした。指先で頬を掻く。手の平で頭髪を掻きまわす。「だーもー!」と息を吐いて、隣を歩く丸まった背中を平手で思いっきり叩いた。不意をつかれたジュウゴは原動機付自転車に額を打ち付けそうになり、目を丸くしてイシガメを見上げた。
「何をするんだよ」
「気合い入れてやったんだよ」
「『きあい』?」
「無表情」
指摘されてジュウゴは気付くが、かと言って笑う気にはなれない。
イシガメは再びため息をつき、それからジュウゴの首に腕を回しかけた。突然の重みにジュウゴは再び驚き、そしてむっとした顔をイシガメに向けた。
「だから何をするんだよ」
「そんなに下ばっか見てたらこうやって上からやられっちまうべや。お前、ただでさえ弱いのに速攻死ぬよ?」
「君はまた僕を死なせようとしていたのか?」
「俺じゃねえよ! 敵は他にわんさかいるっつってんだよ」
「『てき』って?」
「お前、ほんっとに言葉知らねえよな」
首を腕で絡まされたままジュウゴが歩きづらさを訴えていると、「お」と言ってイシガメが立ち止まった。
「何?」
首を抑えつけられたままのジュウゴはイシガメを見上げると、イシガメは前方を見つめてにやりと口角を上げた。声を出して笑うとジュウゴを離し、「おおい!」と言って駆け出した。それから振り返り、
「お前らも早く来い!」
嬉しそうに叫びながら遠ざかっていく。
ジュウゴは首を擦りながら腰を伸ばした。目を凝らすと辛うじて丘陵の上にいくつかの影があるような気もする。おそらくイシガメはそれらに向かって走って行ったのだと思う。彼の仲間だろうか。ワンを促し、後を追おうとした。
「どうした? 行かないのか?」
ワンは両耳を立てて、瞬きもしないでイシガメの走って行った方を見つめている。
「ワン、歩いてくれよ」
原動機付き自転車をその場に止め、ジュウゴがワンの顔を覗きこんだ時、ワンが前の二本の足幅を広げて叫んだ。ジュウゴは驚いて一歩退く。苦情を訴えようと上半身を戻しかけた刹那、目の前を何かがかすめた。
「……棒?」
地面に一本の棒が突き刺さっていた。微かに震えている。ジュウゴは見たことが無い。先はあっただろうか。気付かなかっただけか? 砂の下から伸びてきたのか? それともどこから……?
ワンが再びけたたましく叫び始めた。ジュウゴは棒から視線を上げる。と、もう一陣の風。見るとずぼんが切れてぱっくり大腿部が覗いていた。赤い線がついていてそこからじわじわと出血、流血。
「痛い」
徐々に確実に痛みが増す。ずくん、ずくん、と大腿部が疼く。流血を両手で抑える。指の間から滲み出る。なんだこれ、なんだこれ!
「やめろ! クサッ!」
耳元で響くワンの怒鳴り声の向こうに、イシガメの声が聞こえた気がした。ジュウゴは顔を上げる。
屈んだジュウゴと月明かりを遮る様に黒い影が迫っていた。
* * * *
細かな砂利を撒き散らして原付は斜面を下った。クサガメの乗っていた三輪に横付けして止まる。運転してくれたリクガメを待たずにヤマカガシは原付を降り、カメの兄弟のもとへ駆け寄ろうとして足を止めた。大腿に頭から血を流して横たわる男。脚は自分だ。仕留めたのはクサガメ。側頭部からの流血が夥しい。その男の前に立ち、歯を剥き出しにして喉の奥で唸っている黒い奴にヤマカガシは目を奪われた。
「何、こいつ」
目を見開いて覗きこむ。だがすぐに、ヤマカガシはそれから視線を外した。
「何やってくれてんだよ! バカ!」
「助けられといて言うせりふか?」
「誰も頼んでねえべや! 第一、助けられてもねえし?」
「まあまあまあまあ!」
ヤマカガシは慌てて唾を飛ばし合う兄弟喧嘩に割って入った。イシガメの言い草からして、この男と黒い奴は、少なくともイシガメの敵ではなかったのだろう。発見して最初に弓を構えたのが自分だったとは、伝えないでおこうとヤマカガシは思う。
「やー、とにかく無事でよかったっしょ」
リクガメが顔と声色にちぐはぐな言葉でゆっくりと近づいて来る。「よかったよまじで。散々心配かけといて平気な顔してさあ。ねえ? イシ」
「リク…」イシガメが怯む。ヤマカガシは前に出る。
「そや。心配してたんぜ。クサものお?」
「別に? こんなバカ兄貴、どうでもいいし」
素直じゃない。血相変えて飛び出して行った奴が何を言っているのか。ヤマカガシは呆れかえる。しかし、
「はあ? ざけんなお前。俺だっててめえなんてどうだっていいわ。波にでもカエルにでもとっとと飲まれちまえよ」
「ちょお、イシぃ」
イシガメの威勢が復活した。それにしても素直じゃない、顔だけでなく性格まで似すぎていて、傍から見ると笑ってしまいそうになる。
「死んだかな」
リクガメが男を見下ろして呟いた。ヤマカガシも振り返る。リクガメが男に手をかけようと屈むと、黒い奴がさらに低い声で牽制してきた。まずこいつをどうにかしなければならないらしい。
「ジュウゴ!」
イシガメが男に駆け寄った。クサガメが「おい!」と怒鳴るも、見向きもされない。
「ジュウゴ、おい、大丈夫か? ジュウゴ!」
イシガメは男の両肩に手をかけて激しく揺さぶる。ヤマカガシは慌てて止める。
「なーん、揺らされんな。頭、打っとるんやし」
イシガメは手を止めて顔を上げた。ヤマカガシは黒い奴から目を離さぬよう注意を払いながら、男を挟んでイシガメの向かいに膝をつく。
「こいつ大丈夫かな。死なねえよな? なあ、ヤマ」
なあ! とイシガメは必死の形相を突き出して来る。あまりに必死でヤマカガシは面食らった。
「どしたん、イシ。こいつそんなに大事なんけ?」
「借りがあんだよ! 返さねえと腹の虫が納まらねえ!」
「それは返さないとね」
リクガメが立ち上がる。「運ぶかい?」
イシガメは心底ありがたそうにリクガメ向かって頷いた。それからクサガメに振り返り、「お前の三輪使うからな」と口調を荒げて言った。
「乗せる場所なんてねえよ。お前が負ぶればいいべや」クサガメが鼻筋に皺を寄せてイシガメに言い放つ。あれほど心配していたくせに素直じゃない。
「バカか? お前。ヤマの話、聞こえなかった? 揺らしちゃ駄目なんだよ。おんぶよりも荷台の方がいいに決まってるべや」
「ちょお、イシぃ」
ヤマカガシはやんわりとイシガメを窘めた。わざわざ火に油を注がなくても。案の定クサガメは再び顔を真っ赤にして何か言いかけたが、リクガメに肩を叩かれて唇を固く結んだ。
「したっけそいつば三輪乗せて。イシ、お前は歩けや。歩けんだべ? ヤマ君はクサと…」
リクガメの指示を待たずに前にクサガメが踵を返し、リクガメとヤマカガシが乗って来た原付に跨る。
「クサ!」リクガメが声をかける。
「お前、どこ行く気だよ」とイシガメ。
「三輪使うんだべ?」
原付に跨ったクサガメがこちらを見もしないで答えた。イシガメがまた怒鳴る。
「お前がそれに乗ってったら誰かが歩かなきゃなんなくなんだろ。考えろや、バカ!」
クサガメはむっとした顔のまま原動機を起動させながら、「てめえが歩けよ、くそったれ」と小さく言った。
「ああ? 何つったお前。おい、クサ!」
リクガメが憤りを隠さずに息を吐く。「ヤマ君、イシ、お願いね」
「あ、はい」
リクガメの背中に向かってヤマカガシは慌てて返事をした。リクガメが後ろに乗るや否や、クサガメはすぐに百八十度向きを変えて、元来た方へ走り去っていく。
「ああ、くそっ! なんなね! なんま腹立つでや!」
「まあまあまあまあ」
ヤマカガシはイシガメを宥める。
「イシもちょっと言い過ぎやんねえ。クサがどんだけ心配してたかわかるやろ、自分。クサ、昨日の朝から寝てなかったんぜ?」
イシガメは決まりが悪そうに顔を背ける。
「まずそいつ運ばんなんね。クサには後で謝られ」
「なんで俺が謝んなきゃ…」
「謝れま」
イシガメが口を尖らせた。
「で、」ヤマカガシは立ち上がり、相変わらず威嚇して来る黒い奴を見下ろす。「そっちは何け?」
「ああ」と言ってイシガメは振り返り、その黒い奴に手を伸ばした。黒い奴はヤマカガシを威嚇しながらもイシガメに撫でられる。
「悪いな、ワン。お前ら急いでるっつってたのにな。ジュウゴの手当てすっからもう少し付き合ってくれねえ?」
ワンと呼ばれた黒い奴は白い歯を向きながらヤマカガシを睨み上げていたが、イシガメがその顔の周囲を撫でる度に徐々に殺気を納め、やがて口を閉じて静まった。
「そいつ、何なん?」
「ワンっつうんだ」
「ワン?」
変な名前。
「で、ワンって何なん?」
「ワンはワンらしい」
「何、それ?」
「いや、だって」
言いかけてイシガメは負傷した男を見下ろした。
「とりま、運ぶか」言ってからヤマカガシは、「運ぶ『べ』か?」と言い直した。イシガメが振り向く。それからにやりとして「ちげーよ」と言った。
イシガメが三輪を極々低速で転がした。後部座席に座らせた失神中の男を揺らさないように。燃料切れの原付をヤマカガシが手押しで歩き、そのかなり後ろをワンという名の黒い四本足の妙な奴が付いて来ていた。ヤマカガシはワンにちらちら振り返りながらイシガメの話を聞いた。
「じゃあ、こいつらがどっから来たかわからんの?」
「うん、まあ。でも悪い奴らじゃないんだって。現に二回も助けられたしさ」
「本っ当にワシじゃない? 確信ある? 証拠は? 絶対?」
「ワシじゃない! 確信ある」
「でもどこから来たかわからんのやろ?」
「めちゃくちゃ弱い」
「え?」
「超弱い。なんまら弱い。ヤモリより弱い。アオでも勝てる」
ヤマカガシは瞼を閉じる男を見た。
「だから万が一そいつがなんかしてきても、止められると思うんだわ」
「はあっ!? 何、その賭け」
弱い振りをしてイシガメを出し抜いている可能性もあるだろうに。そうしてまんまと騙して駅に潜入されて中から不意打ちを食らうとは考えなかったのだろうか。ヤマカガシはそう問い質したが、イシガメはまたしても自信満々に否定した。
「だってこいつ、なんまバカだし」
「だからそういう『振り』しとんのかもしんないぜ。もっと考えんまいけ」
ヤマカガシは呆れて肩を落とした。もう何を言ってもイシガメは動かないだろう。もう少し理論的に考えを巡らせてほしい。どうもカメは直情的というか直感派というか、理屈よりも肌感覚で何でも決めてしまう傾向にあるとヤマカガシは思う。
「で、あいつは?」
ヤマカガシは後ろを振り返った。ワンはまだついて来ている。イシガメも振り返り、ワンを見遣った。
「あいつ喋んないんだ。でも多分、こいつよりもずっと賢い」
言うとイシガメは「ワン!」と大声で呼びかけた。
「もっとこっち来いよ。大丈夫だって、さっきのはクサのバカの早とちりでもうあんなことしないから。ジュウゴもすぐ手当てすっからさ。な?」
イシガメの呼びかけにワンが早足で近づいてきた。ヤマカガシは少し身構える。
ワンはヤマカガシを睨みながら、三輪を挟んで反対側についた。
「悪かったな。びびったべ」
イシガメが手を伸ばし、その頭らしき箇所撫でた。
改札が見えてきた。火まで灯して皆でイシガメを待っている。不貞腐れて頭を掻いているクサガメが見えた。リクガメにやられたのだろう。ヤマカガシたちが声をかける前に、シマヘビが顔をあげ、こちらに気づいて駆け寄って来た。
「イシ!」
泣き出しそうなシマヘビに対して、イシガメは満面の笑みで返して三輪を止めた。運転席から降りて片手を上げる。
「おう! ただいま」
「何が『ただいま』け! どこほっつきまわってたん! このボケクソミソカス!」
「お前、女がそんな言葉使うなよ…」
シマヘビの勢いに気圧されてイシガメが上体を斜め後ろに引いた。ヤマカガシは「まあまあまあまあ」と言いながらシマヘビの前に割って入る。
「無事だったんやしそんくらいにしとかれ」
「そうそう! 土産もあるし」
イシガメが外套をまさぐり始めた。大小の塩の塊を取り出す。シマヘビが両手の平を広げて受け取り、塩とイシガメを交互に見た。
「スーちゃんしょっぱいもん食いたいって言ってたべ? それでなんか作っちゃってや」
シマヘビは驚いた顔でイシガメを見て、それから嬉しさを堪えて口元を歪ませ、「だら」と言った。イシガメは満面の笑みで歯を見せた。
「イシ、お前、海まで行っとったが?」
ヤマカガシは体を乗り出して尋ねる。
「言ったべや。言ってなかった?」とイシガメ。
「だからあんた、そんな怪我しとんがか」
シマヘビがイシガメの手を見下ろす。言われてヤマカガシも初めて気付いた。イシガメは片手を包帯で巻いていた。シマヘビは、塩を持っていなければ、おそらくその手でイシガメの患部を包み込んだのだろう。だから代わりにヤマカガシがその手を持つ。
「大したことねえって」
「どこで引っ掻いたん?」
「いや、引っかけたんじゃなくて…」と言いにくそうにイシガメはワンを見遣った。
「あいつにやられたが? おまっ、全っ然大丈夫じゃないやろ!」
「何あれ! ちょっ、きゃあ!」
シマヘビがワンに気づいて悲鳴をあげた。ワンは平然として、憮然としていたのかもしれないが、ぴくりとも動かずに佇んだままだ。
「どうした、シマ」
「トカゲ! あれ」
「何、騒いでんのさ」
「ワンって言ってこいつは…」
「イシ、何連れてきたが!」
「だからワンって言って…」
「う…」
三輪に座る男が顔をしかめた。騒々しさで目を覚ましたか。
「ジュウゴ!」イシガメが三輪に駆け寄る。「おい、ジュウゴ、起きれっか? 大丈夫か?」
ジュウゴと呼ばれた傷だらけの男がうっすらと目を開けた。シマヘビが身を引き、トカゲが構えた。クサガメが覗きこむ。男は虚ろな目でクサガメを見て、「イシガメ?」と口を利いた。
「いや、それ違う。俺、こっち」
イシガメが自分の顔を指差して、ずいっと乗り出す。クサガメが顎を上げてイシガメを睨み下ろす。男の動きは緩慢だ。俺の仕事だな、とヤマカガシは男に歩み寄った。
「自分、名前は? これ見えるけ? とりま、こっち向かれ」
トカゲを押し退けて三輪に近づいた。男がゆっくりとヤマカガシの方に首を回し、しかし途中で止まった。目が見開いていく。
「シュセキ…」
全員がきょとんとした。男が突然素早い動きを見せてトカゲに向かって身を乗り出した。
「シュセキどうして? 足…! 『さいせい』したの? よかった、本当に、よかっ…」
トカゲが右脚を引き上げた。ヤマカガシは慌てて屈む。頭上で弧を描いたトカゲの踵は、見事に男の側頭部を直撃した。
「触るな」
「トカゲえッ!!」
イシガメが怒り狂う。トカゲはそっぽを向いている。クサガメがおろおろして、シマヘビが口をあんぐりとして固まった。
「大丈夫かい?」
リクガメに声をかけられ、ヤマカガシは「すんません」と苦笑して見せた。手を借りて立ち上がる。
「死んだかな」
「トカゲの蹴りっすからね」
「ちょっと興味あったんだけどなあ」
リクガメが顎を擦りながら男を見下ろした。ヤマカガシはリクガメを見上げる。
「この外套に小銃、眼鏡の類は身につけてないけど重装備だろう? これで例のでかい原付にでも乗ってればネズミだよ。でも靴はやたら薄っぺらいし中の服は薄着だし、第一ネズミなら単独行動はとらないっしょ。ハグレだとしてもネズミがイシガメと馴れ合うと思うかい?」
「まあ、そうっすよねえ」
イシガメはまだトカゲに怒鳴り散らしている。トカゲは不貞腐れてそっぽを向いたままだ。
「それにあの毛深い奴。あいつ、何なんだべね」
ヤマカガシもそれは多いに気になっていた。黒い奴はヤマカガシたちから一定の距離を保ったまま、じっとこちらを見つめている。目が合った気がした。ヤマカガシは一歩踏み出す。と、
「イシガメ、母さんどこだ?」
改札からオサガメが顔を覗かせてクサガメに言った。ヤマカガシも思わず振り返り足を止める。
「じいちゃん、俺、クサガメ。イシあっち」
クサガメはため息交じりに言いながらオサガメに歩み寄った。
「お前、クサガメか。イシガメはどうした?」
「イシも帰ってきたよ。安心しな」
「母さんはどこ行った」
「ばあちゃんは死んだべや。何年前の話だよ」クサガメがうんざりして空を仰ぐ。
「母さんが死んだ? なんで! いつ!」
「じいちゃ~ん…」
毎度おなじみのやり取りにクサガメががっくりと肩を落とす。リクガメが小さく息を吐いてからオサガメのもとに駆けていった。大変そうだな、とヤマカガシは思う。
「おっちゃん、おばちゃんは俺が探してくっからさ、中で待ってな」
「お前、誰だ」
完全に見知らぬ顔として訝るオサガメにリクガメは苦笑するだけだ。
「リク、ばあちゃん探すって…?」
言いかけたクサガメを目配せで黙らせてリクガメはオサガメを改札の方へ導いた。
「おっちゃん、そういやさ、この前教えてくれた電のこの…」
「獣か。懐かしいもんがいるなあ」
リクガメに体を支えられて駅に入りかけたオサガメが、黒い四本足を見遣って呟く。『けもの』? とヤマカガシが疑問を持ったとき、それまでじっと身動ぎもしなかった黒い四本足が突如駆け出した。物凄い脚力だ。矢のように一直線にオサガメに突進し、直前で踏み切ってその口と思われる部分を全開した。攻撃だ、とヤマカガシの直感が言う。オサガメが襲われる、と。
リクガメが前に出ていた。右手でオサガメを背後に庇って左腕をかざす。黒い四本足は空中で方向転換することは適わなかったらしく、オサガメ目がけて開いた口で、そのままリクガメの左腕に噛みついた。
「リクさんッ!」
ヤマカガシは駆け出す。イシガメたちも気づく。クサガメが黒い四本足の胴部を両手で引っ張り、リクガメがその口の中に右手を突っ込んでこじ開けようとした。
「じいちゃん邪魔!」
クサガメが叫び、オサガメがおたおたと改札の中に帰っていく。
「何やってんだよ! ワン!?」
イシガメが駆けつけた。
「何なんだよこいつ! 突然じいちゃんに襲いかかったぞ!」
クサガメの言葉にイシガメが動揺する。
「こいつが? 嘘だろ?」
「お前何見てんだよ! 目の前に…」
「お前ら、どけ」
リクガメの一言で全員が後退した。空間が開けてリクガメが左腕に右手を添える。踏み込むと自らの半身もろとも黒い四本足を振り回しながら地面に打ち付けた。黒い四本足は横腹から叩きつけられ、高い声で短く悲鳴をあげてリクガメから離れる。左肘を砂にめり込ませたリクガメが立ち上がると四本足も立ち上がり、喉の奥から唸り声を上げてリクガメを睨み上げた。
「何だよ、何があったんだよ…」とイシガメ。
「お前が変なもん持ってきたんだべや!」クサガメが怒鳴り散らす。
「リクさん、見せて!」ヤマカガシよりも早くシマヘビがリクガメの患部を覗き込み、トカゲは四本足と対峙して短刀を抜いていた。
「大丈夫だよ、シマちゃん。それより『あれ』に背中見せちゃだめだよ」
シマヘビを自らの背後に押しやって、リクガメも四本足を睨み下ろした。
「待てって!」
イシガメが四本足とリクガメたちの間に割って入り、双方を交互に見比べる。「こいつらまじでいい奴らなんだって。理由もなく攻撃するはずないんだよ」
「リクがやられたんだぞ!」クサガメが怒鳴る。
「トカゲがジュウゴを蹴ったのが悪いんだよ。ワンが襲いかかってくるのなんてそれ以外にないんだって」
「俺のせいか?」トカゲがイシガメを横目で睨む。
「大体全部お前のせいだよ!」とイシガメ。
「トカゲちゃんじゃなくておっちゃんだった」
リクガメが言ってイシガメたちは押し黙る。「おっちゃんが無事で良かったけどさ、」言いながらリクガメはシマヘビに短く礼を言って自分で左腕の患部をの見る。「なまら痛かったわ。そいつまじでやるつもりだったんでないかい?」
リクガメが顔を上げ、イシガメを除く全員が黒い四本足を睨みつけた。黒い四本足は歯茎を剥き出しにして涎を垂らし、全身で威嚇しながら唸り続けている。
「ワン! なんかの間違いだよな? お前は理由もなく攻撃してくるような奴じゃないよな?」
イシガメが懇願するように黒い四本足を窺い見る。喋らないと言っていたくせに、答えが語られるまであのまま待ち続けるつもりなのだろうか。
「ヤマ君?」
「カッちゃん?」
リクガメとシマヘビを片手でいなして、ヤマカガシは黒い奴に歩み寄ってみた。
「ヤマ?」
視線は黒い奴を捉えたまま、口の前で指を立ててイシガメを黙らせる。黒い奴はヤマカガシを見つめる。
「えっと、ワン…さん?」
身長はヤマカガシの方が明らかに高いのに、下手をすれば見下されているような気がした。ヤマカガシは気付かないうちに背を丸め、窺うようにワンに近づく。
「…は、大丈夫ですか? 腹、結構痛かったでしょう。俺、そういうの診れますよ」
トカゲが場所を譲る。
「どこから来られたんですか?」
「ワンは喋んねえんだよ」
イシガメが言った。「ヤモリみたいなもんだ。でも話はわかってると思うんだ」
「ヤモリを馬鹿にするな」
すかさずトカゲがイシガメを睨みつける。
「してねえだろ。『ヤモリみたいに話はわかる奴だ』って言ってんだよ」
「そんな風には言ってない」
「言ったよ」
「言ってない」
「言ったっつってるべや!」
「言ってない。自分が何を言ったかも覚えてないのか。相変わらず中身の無い頭だな」
「お前なあ!」
「イシ」
リクガメがイシガメを一喝して、それからトカゲを見据えた。イシガメは決まりが悪そうに口を尖らせ、トカゲも目を背けた。
「ワンさん、俺ら、怖いんすよ。こんなご時世です、敵を駅に入れるわけにはいかないんです。でもワンさんのお仲間にイシは助けられたっていうし、お仲間さんが俺らのせいで怪我したなら治してやらんなんとも思います。ワンさんは俺らの敵ですか?」
「敵だろ? どう見ても。リクとじいちゃんがやばかったべや!」
「黙れや」リクガメがクサガメを静める。「がなってばっかいないでヤマ君の戦法、見ておきな」
「ワンもジュウゴも大丈夫だって。ずっと一緒にいた俺が言ってんだから」
イシガメがワンに近づきながら言う。
「お前も少し黙ってろ」とリクガメ。
「死ぬまで黙ってろ」とトカゲ。
「うん、うるさい、イシ」シマヘビも加わってクサガメも頷いた。
イシガメは外野の野次に睨みを効かすとワンの横に膝をつき、その頭を撫でようとした。しかしワンはその手に向かって口を開き、空を噛む。
「イシ!」
「ワン…?」
戸惑うイシガメをおいてワンはヤマカガシに向き直った。ああ、こいつ、そうか、とヤマカガシは納得した。その場で両膝をついて正座し、背中を丸めてワンを極力見上げるように低くなる。
「お願いします。お仲間さんを治させてください。俺らのけじめです。でも約束して下さい。その間は互いに狩りはしない。お願いします」
ヤマカガシはそのまま頭を下げた。皆の動揺が伝わってくる。もしここでワンに襲われればひとたまりもないだろう。だがそれは絶対にない、とヤマカガシは確信していた。
無言でヤマカガシを見下ろしていたワンはやがて、それまで砂を握りしめていた手足の力を抜き、腹を砂につけるようにしてその場に低くなった。腰を下ろしたのかもしれない。自分とは異なる体の構造をしていそうだから、ワンの動作が自分のどの姿勢に当たるのか、ヤマカガシにはわからない。だが、自分の意見は聞き入れられたのだろうと思った。ヤマカガシは顔をあげ、「お仲間さん、運びますね」と告げてから立ち上がった。
「そいつ運ばれ」
「え…?」
「なーん、大丈夫やちゃ。了承得たし」
「了承、得た?」
「得た、得た。もうばっちりがっつしまかしとかれ」
不安そうなクサガメを促してヤマカガシは三輪に近づいた。
「でもカッちゃん、『それ』、オサガメさんを襲ったぜ?」
シマヘビが不安そうに言った。そうなのだ。それについてはヤマカガシも説明が付かない。
「オサガメが『獣』と呼んだからじゃないのか?」トカゲが言った。
「『けもの』って?」ヤマカガシは尋ねる。
「俺もよくは知らない。だがそういう奴がいるとは聞いたことがある」
「何の説明にもなってないべや」
イシガメが鼻で笑ったが、トカゲも黙ってはいない。
「何の根拠もなく無害を主張するお前よりはましだ、単細胞」と返した。
「んだとてめぇ!」
「事実を言っただけだ」
「うるせぇよ」
リクガメの舌打ちでイシガメとトカゲは押し黙る。イシガメたちがうるさいのはいつものことで、リクガメがそれを諫めるのもいつものことなのだが、今のリクガメはおそらく痛みもあっていつも以上に苛立っているのだろう。左腕を押さえるリクガメをヤマカガシも気遣った。リクガメは眉尻を下げてシマヘビとヤマカガシに礼を言ってから顔を上げる。
「したっけ運ぼっか」
「本気で?」
クサガメが驚く。
「だってそのために連れてきたんだし」リクガメがクサガメに言う。「それにここに放置しといても気がついて襲ってこられたら、そっちのほうが厄介でしょや」
まだ不服そうなクサガメを促してリクガメが伸びている男を運び始めた。
「イシ、お前はその『けもの』? 見てろよ」
イシガメに言い置いてリクガメたちは駅に入っていった。
「イシ」
ヤマカガシはワンの横で立ち尽くしているイシガメに声をかける。イシガメは打ちのめされた顔をしてワンを見下ろしていた。
「ワン、なんでいきなし噛もうとしたかな」
かなり傷ついている。よほど驚いたのだろう。ヤマカガシはワンに聞こえないようにイシガメに小声で耳打ちした。
「こいつ、なんつうの? かなり気高いんやわ」
イシガメが振り返る。
「上から目線、だめ、絶対」
「別に上から目線なんてしてねえし」
言ってイシガメはその場でしゃがみ込み、ワンと同じ目線になって話しかけた。
「なんかごめんな? ジュウゴが蹴られたんだ、そりゃあ怒るよな」
リクガメも言っていたように、ワンはトカゲではなくオサガメ目がけて仕掛けてきたとヤマカガシは思う。
ヤマカガシもイシガメの横に並んでしゃがみ込んだ。
「ワンさん、約束して下さい。駅にいる間は絶対に攻撃はなしでお願いします」
「しないよな? お前はそんな奴じゃねえよな?」イシガメがワンに語りかけながら手を伸ばした。今度は拒まれることなく撫でることを許されたようだ。
「よかったぜ?」
ヤマカガシは言ってやる。
「うるせぇぜ?」
イシガメが笑いもしないでそんなことを言う。
ヤマカガシはワンを見つめた。目が合う。『けもの』と言っていたか。あいつならそれが何なのか知っているだろうか。あの男に物を尋ねるのは癪だが、わからないままにしておくわけにもいくまい。
「とりま、入るか」
ヤマカガシは腰を伸ばした。
「イシも腹、減っとるやろ?」言ってから「減ってるん『べ』?」と言い直した。イシガメが振り返って鼻で笑う。
「だから違うって」
それからイシガメも「違う『がやっちゃ』」と言った。ヤマカガシも噴き出す。
「なーん。全っ然違うが」
ふざけ合っているうちにワンが立ち上がり歩き出した。数歩進んで立ち止まり、ヤマカガシたちを催促するような目で振り返る。ヤマカガシはイシガメと顔を見合わせた。




