15-24 助けたカメに連れられて
イシガメは原動機付自転車を手押しし、ジュウゴの横を歩いている。肩にはコウの小銃。持ってやると言って以来、ずっと肩にかけている。元々ジュウゴの物ではないし、重量もかなりあるから持ってもらえるのはありがたい。素直に厚意に甘えることにした。
ワンはジュウゴたちのかなり後ろをついて来る。いつもそうだ。いつも彼はジュウゴから距離をとる。決して近づかない。話しかけても無視する。だがジュウゴが無視すれば外套の裾を口で引っぱったり、時には手や脚に歯を食いこませたり、怒鳴ったり喚いたり。そしてジュウゴについて来る。嫌われていると肌で感じる。怒っているのだろうと思う。それ以上の負の感情をジュウゴに対して向けてくる。それなのについて来る。いたたまれない。
だからイシガメが同行してくれて安堵したところは正直あった。缶詰、もとい、瓶詰を譲ってくれるのならばありがたく貰っておいた方がいいのかもしれないとも思い始めていた。コウとの約束をずたずたに破って捨てて、これ以上はもう何も口にしないとその都度思いを新たにしても、数時間後には必ず喉が渇き空腹も襲ってくる。飲むことの後ろめたさは拭えないが腹の底から噴き出してくる欲求には抗えない。あんなことをしないで済ませられるなら、缶詰なり瓶詰なりを入手するのがいいのかもしれない。飲むことに違いはないのに自分の手を使わなければ罪が半減するとでも思ったのか、ジュウゴは安易な道に逃げこんだ。
隣を歩くイシガメを見た。自動二輪だと思ったそれは、近づいてみると自動二輪には遠く及ばない簡素で粗末な造りをしていた。
「どした?」
イシガメがジュウゴの視線に気づく。ジュウゴはちらりとイシガメを見た後で再び原動機付自転車を見下ろす。
「壊れているのか?」
「何が? あ、これ?」
「乗ればいいじゃないか」
「背中預けられっかよ」
ぼそりとイシガメが呟く。ジュウゴは聞き取れなくて「何?」と尋ねたが、イシガメは後ろを振り返り、「あいつが乗れないだろ」とワンを顎で指して言った。
「なあ、」
今度はイシガメがジュウゴを呼ぶ。「ワンって何なんだよ」
「ワンはワンだよ」
かつてコウに言われたままの説明をジュウゴは使った。それ以外に答えようがなかったし、ジュウゴ自身がワンがどうしてあんな体なのか知らなかった。
「んだよそれ」
イシガメが呆れた顔をした。
「なあ、お前さ、」
イシガメが再びジュウゴを呼ぶ。「何?」とジュウゴも同様に返す。その返事が気に食わなかったのかイシガメは顔の中心に目と口を寄せた。
「その態度、もう少し何とかなんねえの?」
「なんとかって?」ジュウゴは眉根を顰める。
「それだよ」
言ってイシガメは顎をしゃくった。
「四六時中ぶずっとしてさ、辛気臭くてかなわないっつうの」
ジュウゴは外套の袖に鼻を押し付けて臭いを嗅いだ。確かに臭い。
「ごめん」
「そういうとこだよ」
そう言われても洗濯機もないし風呂にも入れない。
「それなら少し離れるよ」
俯き加減にイシガメから距離をとろうとしたジュウゴの外套を、イシガメが慌てて掴んだ。襟が食いこんで首が締まる。
「ばか。お前、方向音痴なんだからまた迷子になんぞ?」
「離してくれ」
イシガメは言われた通りに手を離してから、「なんだかなあ…」とぼやいた。そしてぱっと顔をあげ、「お!」と叫ぶと、原動機付自転車をその場に倒し置いて駆け出した。ジュウゴは戸惑う。イシガメを追いかけようと踏み出し、立ち止まって原動機付自転車を見下ろし、悩んだ末に原動機付自転車を運ぼうと決めた。倒れた車体を起こそうと、左右の操縦梱を握るが持ちあがらない。想像以上に重たい。顔を真っ赤にしながらやっとのことで車体を起こすが、今度はなかなか引き摺れない。重たい。そうこうしているうちにワンが傍らを駆け抜けて行った。仕方なくジュウゴもその場を諦め、ワンの後に続いた。
砂の中に岩が混ざり始めて、眼前の地面が陥没していた。ごつごつした坂をやっとのことで降りた頃には、聞き慣れない轟音がジュウゴの耳にも響いていた。
ワンの隣で立ち止まる。ワンは口を閉じて直立不動し彼方を見つめていた。ジュウゴは口を半開きにしたまま辺りを見回す。どこまでいっても砂しかなかった地面が、ある一線から突然水に変わっていた。水面が意思を持つように来たり行ったりしている。左右にくまなく目を凝らすが、果てが見えない。
「地上が切れている」
「海だよ。初めてか?」
「『うみ』?」
ジュウゴとワンは同時にイシガメに振り向いた。イシガメは水面には目もくれず、岩がごつごつした斜面に片足をかけてしきりに何かを拾っている。
「『うみ』って何?」
「海は海だろ」
「どこまで巨大なんだ? この貯水槽は」
「だから海だって」
イシガメが笑って言った。やけに嬉しそうだった。ジュウゴはもう一度正面を見る。初めて見るものなんて地上では山ほどあるのに、その中でもこの光景は特別だと思った。
「すごい」
大きくて、すごい音がして、黒くて暗くて恐ろしささえ感じるのに、波立つ水面の先は静かで、月が映っている。
「入んなよ。お前、手、怪我してるし」
イシガメが背を向けたままで声をかけてきた。ジュウゴはワンに噛まれた手の平を見下ろす。
「沁みんだって。なんま痛いよ? 死ぬよまじで」
「何故痛いんだ?」
「そりゃ海水だしな」
「『かいすい』?」
「塩水」
「食塩水? これが全部?」
「飲むなよ」
「そんなに塩分濃度が高いのか? 飲めないくらいに?」
「死にたきゃやってみろ」
ジュウゴは自分足元を見下ろした。
水が傷口に沁みることはジュウゴだって知っている。塩分が含まれているとその痛みは増すらしい。しかし飲めないほどの塩辛さとはどれほどのものだろうか。こんなに水があるのに飲むことも入浴にも使えないなんて。こんなにきれいなのに、ただあるだけなんて。
「何をしているんだ?」
見られるだけで使い道も関わりようもない海を見つめつつ、ジュウゴはイシガメに歩み寄った。振り返りもしないでイシガメは作業を続けている。
「それは何?」
「塩だよ、塩」
「食塩?」
首を捻るジュウゴの鼻先に、イシガメは拾い上げた塊を差し出した。いつの間にか分厚い樹脂製の手袋を両手に嵌めていた。
「いらないの?」
「え…、いや…」
塩の塊を何に使えというのか。
「あっそ」
ジュウゴが疑問を尋ねる前に、イシガメは差し出した塊を腰帯に括りつけた袋に詰め込んだ。
突然、背後でワンが怒鳴り始めた。物凄い勢いで自分の名前を連呼している。
「どうかしたのか?」
ジュウゴはワンに振り返る。ワンは水際に立ってジュウゴに向かって怒鳴り続けている。
「なんだ…?」
イシガメの問いかけにジュウゴはワンを見下ろしながら答えた。
「時々あるんだ。彼ときたら何も無いところで突然…」
言いながら振り返りかけたジュウゴを襲ったのは夜汽車が大破した時のような衝撃と轟音だった。それが頭から大量に浴びせられた水だと気付いたのは、足元の水が遠くに離れて、ころころと転がる濡れた砂が露出し、その上でずぶ濡れの全身が空気にさらされた後のことだ。とりあえず不明瞭な視界を払うように手の平で顔を拭う。
「……なに?」
呆気に取られて誰にともなく疑問を口にする。ジュウゴを襲った水はまた先までと同じ位置まで後退している。ワンは寸でのところで退避していたのか全く濡れていない。
「うみ……」
水は自分では動かないものだと思っていた。けれども夜汽車を降りてからそれまでの常識が通用しないことなど多々あった。もしかしたら『海』は明確な意思を持って自ら動く水で、意図的にジュウゴを濡らしたのかもしれない。
「よくあることなの?」
イシガメに尋ねる。イシガメはワンと違って言葉を持っているし質問に答えてくれたし知識も多いと思ったから。しかしイシガメは何も言わない。
「海がこうして意図的に突然大きくうねったりしてくることはよくあることなのか?」
自分の質問の仕方が悪かったかと、今度はきちんと言葉を補って尋ねた。しかしイシガメは答えない。
「イシガメ?」
消えた、突然。イシガメはアイみたいなものなのだろうか。でもアイは呼べば出てきてくれる。
斜面の方に歩み寄りながら辺りを見回す。寒さにくしゃみと身震いをする。ワンが再び大声で叫び、ジュウゴは呼ばれた気がした。ワンの視線の先を辿ると、イシガメがいた。
「イシガメ?」
『うみ』の中で泳いで…、
「イシガメ!」
違う。溺れている。泳いでいるようにもみえるが動く水面に合わせて顔が出たり隠れたりしている。腕を動かしているようだが、どんどんジュウゴたちから離れて行く。
「今行く!」
「…んな!」
「ええっ?」
ジュウゴは困る。『来るな』と言ったのか? 泳げない癖に何を言っているのか。溺れている癖に助力は不要だというのか。
ジュウゴは浮き輪を探した。ある訳がない。夜汽車ではない。自分もそんなもの持ち歩いていない。何か代わりになる物をと考え慌てて外套を脱ぎ、袖を握って反対の袖をイシガメに向かって投げた。
「掴まって!」
駄目だ。長さが全然足りない。ジュウゴは次に上着とずぼんも脱いで外套とそれらを結んだ。かなり長くなる。これなら。
「イシガメ!」
水面にジュウゴの衣服たちが揺れる。上下運動をするイシガメは顔を水面に出すのがやっとだ。駄目だ、見えていない。
ジュウゴは衣類を手繰り寄せた。斜面の近くの岩に先端を縛りつけて、反対側を握りしめて今度は自ら『うみ』に入る。途端に足を掬われる。突然見た目以上に底が深くなっていた。足先で地面を探す。着かない。覚悟を決めて飛び込んだ。
物凄い水量、水圧、動き、質量。ジュウゴの知っている水と違う。これは泳げない。言ってられない。イシガメの顔が見えない時間が長くなっていく。
「掴まっで!」
塩辛い水が口の中に入って来る。喉が焼ける。手の甲が痛い。あまりの痺れに目の前が点滅した。塩分濃度ってこれのことか、とジュウゴは思い知る。ワンめ、後で覚えておけ。
「…がめ!!」
イシガメがこちらを見る。一瞬で意図が伝わる。イシガメは最後の力を振り絞りジュウゴに向かって腕をばたつかせた。ジュウゴも指を伸ばした。
水中で指先が触る。イシガメの手だ。ジュウゴは引き寄せようと試みるが両腕は限界まで伸びきっていて背筋は収縮しきっている。衣類とイシガメの指を握っているのがやっとだ。
不意に衣類を握る腕が引かれた。ジュウゴは首を回す。見るとワンが水際でジュウゴの外套を口でくわえて後ろに飛ぶように引いていた。
「ワン…」
衣類を握りしめた。
「登って!」
イシガメに怒鳴った。イシガメが目を開ける。返事もせずに両手でジュウゴの腕にしがみ付いた。肩に激痛。歯を食いしばる。足を踏ん張れればまだ違ったかもしれない。だがジュウゴの足の下には水しかない。痛い、冷たい、重い、痛い。衣類を握る手の感覚が薄れて来る。早く、早く、
「早くしろよぉッ!!」
叫びながら渾身の力でイシガメを引っぱった。息を合わせたかのように、イシガメの上半身が水面から出た。イシガメはそのままジュウゴの腕、肩、頭を踏み台にして両手両足でジュウゴの上を這いずり越えた。ジュウゴの顔は完全に水の中だ。痛さと冷たさと重さに息苦しさまで加わる。物凄い水勢。手がむり
手首を引かれる。足が水以外に触れる。岸辺に上がったイシガメがワンに代わって衣類を手繰り寄せ、ジュウゴの腕を掴んだ。久しぶりの空気に体が歓喜し、えづくように咳込みながら下手糞な呼吸をする。
全員息が上がっていた。海だけが変わらず行ったり来たりしている。ずぶ濡れのイシガメが息も絶え絶えに声を出す。
「わりいな…。たすか……」
ジュウゴは声が出ない。流されていないことが信じられないでいる。
「おま…」
顔を上げてイシガメを見る。
「お前…、馬鹿だべ?」
言ってイシガメが笑い始めた。泣き出しそうな目をしながら口元だけを引き攣らせて、全身を震わせる。
「うそ、」
ジュウゴも言う。イシガメが泣き笑いのまま「はあ?」と顔を突き出す。
「うそつき…。時間、ととらせないって、言った」
きょとんとした後、イシガメが「ばっ…」と言いかけてまた笑いだした。喉の奥が丸見えだ。ジュウゴも笑う。声を出して笑った。怖かった。恐怖しかなかった。その後にこんな愉快な安堵で笑えてくるなんて知らなかった。
「手、沁みたべ?」
「死んだと思った」
イシガメが笑ってジュウゴの肩を叩いて、ジュウゴも笑ってそれを受け止めた。
指摘されてから気がついたが、昼間が長い。暑い時間を寝て過ごし、夜になれば移動していたジュウゴとワンだったが、そう言えば最近は目を覚ましてからしばらく経っても太陽が居座り続けていると思った。気温の上昇に伴い、海から流れてくる臭気の塊と、イシガメとワンの汗と体臭、それにイシガメに言われて飲み水代わりに溜めた尿の臭いも立ちこめている。だが臭気の中にいると嗅覚が麻痺してくることをジュウゴは身を以って気付かされていた。
「でもやっぱり臭うよ」
廃屋の日陰の下、窪みに溜めた尿の前で半裸のジュウゴはぼそりと呟く。全身の毛穴という毛穴からは玉の汗が噴き出している。
「あんまり飲み過ぎんなよ。脱水症状起こすかんな?」
同じく半裸のイシガメがなんの躊躇もなく片手で尿を掬い、ごくりと飲んで腕で口を拭った。全身くまなくずぶ濡れになった衣類は砂の上でぱりぱりに乾ききっていたが、互いに着る気になれないほど太陽の光と熱が凄まじい。
「よく飲めるね」
「飲まなくても脱水するべや」
「『だっすい』ってどういう意味?」
「まぁたそれ?」
うんざりした顔でイシガメは額の汗を手で払い、「ああ、あれだ。だから、水不足になんだよ。そんで…」と要領を得ない説明を試みた後、「とにかく飲めや!」と怒鳴った。ジュウゴの傍らをワンがすり抜け、黄色い水面をぺろりと舐める。無言でジュウゴを横目で見てから定位置になりつつある壁際に戻って行った。ジュウゴは再び尿溜まりと見つめ合う。
「お前、よくそんなんで生きてこれたよな。まじで」
イシガメが胡坐に頬杖をつきながら呟いた。そしてワンを見ると、「ん? どこだよ」と言ってワンの体を撫で始めた。
「彼が何を言わんとしているのか理解出来るのか?」
結局一口も飲めずにジュウゴは床に腰を下ろす。イシガメは気持ちよさそうに目を細めるワンを両手で撫でまわしながらジュウゴを見て、「慣れだ、慣れ」と言った。
「どうして? 彼は一言も話さないじゃないか」
「俺からしたらお前の方が無口だけどな」
「僕が?」
もっと無口で無愛想な男がいつも傍にいたから、自分がそう評価されたのが初めてで、ジュウゴは驚いた。
「無口、無口! なんも喋んないべや。大波ん時に少しは笑ったかと思ったらまた無愛想だし。ワンの方がよっぽどよく喋るよ、なあ? ああ、喋んないけどさ」
イシガメはワンに語りかけながらその額をわしゃわしゃと揺らした。その仕草がハツカネズミみたいでジュウゴはじっと見つめる。
「色々秘密あんだべ? 聞かないけど。でも疲れねえ? そういうの。せっかくいい天気なのにもったいないっしょ」
イシガメは早口だし、『ほうげん』ばかりでヤチネズミよりも話が難しいし、口調も荒い。でも、世話焼きだとは思う。
「…仲間が、死んだんだ」
イシガメとワンが顔を上げた。
「彼は話すことも動くことも何もかももうないのに、僕は笑ったりしていていいのかなって」
ワンが組んだ脚の上に顎を置いてそっぽを向いた。
「何をしていても、申し訳なくて。だって彼は…」
「なら死ぬしかねえな」
イシガメがしみじみと言った。ジュウゴは驚いて顔を上げる。イシガメは澄ました顔で「ん?」と首を傾げた。
「それしか、ないかな」
「他に方法あるか?」
わからない。
「方法は…」
「海に飛び降りれば? まだ徒歩圏内だし」
言ってイシガメは外を見遣った。ジュウゴも首を回す。あっけらかんとした透き通った空が光っている。
「死にたいの?」頬杖のイシガメが言う。
「…たくない」俯いてジュウゴは答える。
「なら生きてくしかねえな」
ジュウゴは顔を上げてイシガメを見た。
「死ねないなら生きるしかねえだろ? 生きてんなら無表情じゃいられねえだろ? やるしかないならやればいいだけだべや」
「後ろめたさは?」
「んなもん誰でも持ってるわ」
びくりとした。
「持っててもやってくんだよ。割りきれないことなんてそこらじゅうにあんだろ。十割る三とか絶対余るべ? 余しときゃいいんだよ、すったらもん。どうせ割りきれねえんだからさ。そのうちどっかで使えるかもしれねえし」
「三分の一という解があるじゃないか」
「うっせえな! お前。例えだよ、例え! いい話してんのに水差すなや! 現実で綺麗に三分割出来る物の方が少ねえだろが!」
なあ、ワン? と言ってイシガメはワンに同意を求めた。ワンは目も耳も閉じて眠ったふりをしている。
「彼は言葉を持たないよ」
「喋れなくても返事はするだろ、なあ?」
イシガメは眠ったふりをするワンの頭をぐしゃぐしゃに撫でまわした。ワンは自在に動かせる両耳を横に向けた。
「ほら」
とイシガメが胸を張ってワンを指差した。ジュウゴはワンを見つめ、尋ねた。
「……いいの?」
ワンは答えてくれない。代わりにイシガメが、
「自分で考えろよ」
―自分で考えろ―
ジュウゴは俯いた。しかしその手はしっかりと拳を握っていた。
ワンが耳を立て、瞼を持ち上げてジュウゴを見つめた。
大分肥えた月明かりのおかげで視界は開けている。海の音も聞こえなくなった地上をジュウゴたちは進んだ。気が変わったのかイシガメはジュウゴを原動機付自転車に乗せてくれると言ったが、連日の長い昼間のせいで燃料が蒸発していたらしい。ジュウゴたちは再び徒歩を余儀なくされる。
「そこに指をかけるんだ。銃身は抱えるようにしていた。そして、引き金を引く」
ジュウゴに指導されながらイシガメは小銃を構えた。イシガメが操作した後の原動機付き自転車は、ジュウゴでも曳いて押せるようになっていた。
「やー、すっげえなあ、小銃。後でばらさせろよ」
小銃をまじまじと見ながらイシガメは言う。並んで歩くジュウゴには『ばらさせろ』の意味がわからない。しかしここでまた意味を尋ねたら怒鳴られそうだったから、黙って承諾した。
「誰でも撃てるんだよな? 結構当たるもんか? 飛距離は? かなり鉄がいるよな。足りっかな…」
イシガメは首を傾げながらぶつぶつと言う。
「誰でも撃てると思うよ。引き金を引くだけだ。僕でも出来た。目標とする物に当たるかどうかは使い手の技術次第みたいだ。僕は当てられないけれども。距離はどれくらいかな。かなり遠くまで飛んだと思ったけれども…」
「ちょい、おい、ジュウゴ?」
イシガメが立ち止まっていた。ジュウゴも立ち止まり振り返る。
「何?」
「当たらないの?」
「技術が高ければ当てられるんじゃないか?」
「お前は?」
「僕は無理だよ」
「俺を助けた時は?」
ジュウゴは眉を寄せる。
「だからほら、一番初めにお前がカエル共を撃った時だよ。ワンが走って来て俺の腕に噛みついて…」
「ああ。あの時は夢中で。とにかく君がサン…、仲間の女子だと思ったからその周囲の男たちを遠ざけたくて、撃てば彼らの注意が逸れると思ったから…」
「じゃなくて!」イシガメは首から上を突き出す。「お前、あん時、何を狙って撃った?」
「当たれば損壊して死んでしまうだろう! 誰にも当たらないようにやったよ、もちろん」
「当たらないように?」
「うん」
ジュウゴは自信たっぷりに頷き、イシガメは絶句した。小銃を見下ろし、ジュウゴを見て、ぶるっと全身を震わせた。
「俺、ワンに助けられたんだな」
「え?」
イシガメが小銃を握りしめて足早に歩き出した。
そのイシガメの横をワンが駆け抜け、砂丘の畝の辺りで立ち止まった。砂に鼻先を擦りつけている。
「何してんだ? あれ」
イシガメが怪訝そうに言って駆け出した。ジュウゴも原動機付自転車を押しながら後を追う。立ち止まったイシガメの横でジュウゴも足を止め、息を飲んだ。
「ワン、また君は…!」
「いや、ワンじゃねえよ」
憤りかけたジュウゴに小銃を押し付けてイシガメはワンの横に歩み寄った。膝をつき、誰かの動かない体を持ち上げ、ひっくり返す。ジュウゴは思わず口元を手で覆う。およそ生きていた頃の風貌など読み取れないその顔をイシガメは丹念に観察し、やがて砂の上に置いて立ち上がった。胸を撫で下ろして息を吐き、ジュウゴにちらりと目配せする。
「知らねえ顔だ。多分、カエルだろ」
イシガメは空を仰ぐ。
「身内かと思って焦ったわ」
微かに喜びまで滲ませてそう言った。
ジュウゴは、顔だけでは誰だか判別できない、その横たわる体を凝視して固まっていた。
ワンが死なせたのではないと瞬時に判断したイシガメに驚いた。言われてみれば、あの一瞬でこれほど損壊させることは不可能だろう。冷静になってじっくり熟考して、ジュウゴもその結論に達した。ワンを闇雲に疑っていたことが後ろめたい。
イシガメが顔を確認したのは理解出来る。ジュウゴもこの体がサンかと不安になり、恐怖した。だから髪型も体格も違っていて安堵した。
そして安堵し、サンでないならば飲める、などと考えていた自分自身に驚愕した。腹が減ってきたせいかもしれない。いや、そうだとしても。目の前の誰かを当たり前のように缶詰の中身として見ていた、見るようになっていた自分が信じられず、身震いし、嫌悪し、落胆し、愕然とした。しかし。
「やめとけ。結構経ってる。んなもん飲んだら腹壊すって」
イシガメがワンを見下ろして忠告した。ワンはイシガメを見上げ、黙って体から離れる。
「したら行くべ。もうそろそろだ」
イシガメが言ってワンと共に歩きだしても、ジュウゴはその場に立ち尽くしていた。
「どうした? ジュウゴ」
イシガメが立ち止まり、声をかける。それからはっと顔を強張らせ、慌てて戻って来た。
「もしかしてこれ、お前の探してた女…」
「違う」
「なんだよ、びびらすなや」
またすぐに頬を弛緩させ、「あ~、よかった」などとイシガメは言った。
良かった、のだろうか。
良いことなのだろうか。
誰にとって何が良いのだろうか。
ジュウゴは原動機付き自転車をイシガメに預け、膝をつき、小銃を砂の上に置いた。ワンがジュウゴを見上げる。イシガメが怪訝そうに覗きこむ。ジュウゴは死んだ女の体に触れた。
「飲もう」
「は?」
イシガメが上半身を突き出した。ジュウゴは女を見つめたままもう一度言った。
「僕は飲むよ。お腹、空いたから」
「いや、だから腹壊すって。見ればわかるべや。もう腐ってんだろ? こんなになっちまったら搾っても出てくんのは血じゃなくて汁だよ」
「でも、お腹、空いたから」
「だーかーら! もうすぐ俺の駅に着くから! あと少しの辛抱だべや。そんなんじゃなくてちゃんと瓶詰にしたやつやるって言ってんだろ?」
「でも、でも…」
「ジュウゴ」
イシガメに腕を掴まれて、女の体から引き離された。ジュウゴの目はまだ女に釘付けだ。その視界の中にイシガメが割って入って来る。
「駄々こねんなよ。ほら、立って。もう少しだから。な?」
「……彼女はなんで死んだの?」
「あ?」
イシガメがさらに眉をひん曲げた。ジュウゴはまだ女を見ている。
「彼女はどうして死んだの? 何のために? だって、でないとコウは、何のために…」
「知るかよ!」
イシガメの怒鳴り声にジュウゴはようやくその顔を見返した。
「知らねえよ、すったらもん! こいつが餓死か毒殺か自分で死んだかなんてわかる訳ねえべや! でも誰だって死ぬ時は死ぬんだよ。俺らだって一歩間違ってりゃ死んでただろうが。見も知らねえ自分に関係ねえ奴の生き死になんて考えるだけ時間の無駄だ。んなことしてる暇あったらてめえが生き伸びる方法考えろよ。こんなの飲んだら腹壊すのくらいお前でもわかるだろ。腹壊してげえげえ吐いてびちびち漏らして体力失ってそのまま死ぬことだってある。そんくらい考えろ」
「飲んだら、死ぬの?」
「こともあるって言ってんだよ」
「でも…」
ジュウゴは女を見下ろした。
女がどういった経緯で死に至ったかが気になったわけではない。女が死んだことの理由が、意義が、ジュウゴはほしかった。何のために死んだのか、女が死ぬことで起こり得る損失、影響、そして恩恵。もしそれらがあったなら、彼女が死んだことには意味があると思える。あるのだ。あったはずだ。あってもらわないと困るのだ。さもなければ僕は、コウは、何のために、ジュウシ。
ジュウゴはイシガメの手を払った。「おい!」と背中に怒鳴り声を浴びながら女に歩み寄る。女の頭頂部のすぐそばに膝をつき、その体を持ち上げた。顔は見たくない。女の背中を自分に凭れかけさせ、座位をとらせた。ずっしりと重たくて、ぶよぶよと柔らかくて、臭くて、全然違うのに、ジュウシに似ていた。そしてコウにも。
ワンが女の足側に回る。無言でジュウゴを見つめる。ジュウゴは頷く。
「お前ら、本気で?」
イシガメが完全に呆れて、軽蔑して、引き気味に体を逸らしている。
「空腹でもないのに死なせるのは、飲まないなら、失礼だ。でも、だから、だから空腹だったら、仕方ないから」
イシガメにではない、自分自身への言い訳。
ジュウゴは唇を噛む。それから意を決して顔を上げた。ワンが見つめている。頷く。
「僕はこっちからがいい。ここが一番、飲みやすいから」
言って息を吐き、背後から女の首筋に歯を立てた。




