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15-18 思惑の錯綜

 目を見開いて額に皺を刻んで、なんでそんな目で見られなければならないのだろうとジュウイチは顔を背ける。


「お兄ちゃんは飲まないの?」


 コウがヤチネズミに勧めた。ヤチネズミは口を閉じ、無言でコウを見つめる。


「シュセキ、飲めそう?」


 ジュウゴが空になった缶詰を置いてシュセキとサンの元に歩み寄った。


「もう一本もらっていい?」


 ジュウイチは盆の上の最後の缶詰に手を伸ばす。「スズメにもあげないと。きっとお腹を空かせていると思うんだ」


「え、でも…」


 コウはヤチネズミを見上げる。ヤチネズミは無表情で「ああ、持ってけ」とジュウイチに言った。ジュウイチは立ち上がり、礼も言わずに部屋を出て行った。


「お兄ちゃんの分だったんだよ、あれ」


 コウは扉を見遣ってからヤチネズミに向き直った。「スズメにはさっきあげたし、あれが最後のだったんだよ?」


「コウ、お前もあれ飲むんだな」


 ワンがヤチネズミを睨み上げる。


「飲むけど、お兄ちゃんたちもお腹空いてたでしょ? だからいいんだよ、お兄ちゃんも飲んで」


 コウはワンの背中を擦りながら、「それにもうすぐお兄ちゃんが来てくれるはずだから大丈夫だもん。ね? ワン」


「これ飲んだら?」


 言ってジュウゴが缶詰をヤチネズミに差し出した。「シュセキ、全然起きないんだ。本当に死んでないんだよね?」


「今はな」


 ヤチネズミはジュウゴが差し出した缶詰を押し返して答えた。


「そいつにやれ。お前らには必要なんだろ」


「あなたは?」


 サンがヤチネズミに尋ねた。ジュウゴは少し意外でサンを見る。ヤチネズミはぎろりとサンを睨んだだけで、何も言わなかった。

 ジュウゴは手の中の缶詰を見つめていたが、やがて黙ってシュセキの枕元に置いた。


「起きたら温め直してもらうといいよ」


 シュセキに向かって呟く。


「早く起きろよ。君にはまだ謝ってもらってないのに」


 言って腰を下ろすと、ジュウゴは何気なく窓を見上げた。雨戸が閉まっていて外の様子は窺い知れない。昼なのだから仕方ない。きっと外では太陽が空にいて、眩しくて暑くて光っているのだろう。

 何も写さない窓を見上げるジュウゴを見て、サンはふと、あの事件を思い出した。


「地上の木のことだけど、あれってハツカネズミだったんじゃないかしら」


 ジュウゴとヤチネズミが怪訝な顔を向け、コウが目を見開いて振り返った。


「あなた、始業前に言っていたでしょう? 地上に木が立っていたって。数日前に皆の個別指導を中断させて集団授業に持って行った…」


「どうしてハツが木なの?」


「何の話だ」


「可能性の話よ」ヤチネズミには答えずにサンは続ける。「ヤチネズミの話ではハツカネズミは損壊個所も回復するのでしょう? それに負傷したハツカネズミの指が六本になっているのを私たち、見たじゃない。同じように腕や脚を複数回復させて地上に立てば木のように見えるんじゃないかと思ったの」


「ハツと木を見間違えたりしないよ」


「あの時はあなただってハツカネズミを知らなかったでしょう? それに夜汽車を襲撃するために線路を見張っていたというのだから、あなたが目視出来る距離にいたとしてもおかしくないわ」


「ふざけんな! ハツなわけあるか」


 ヤチネズミが不機嫌そうに声を荒げた。「さすがのハツも手足が三本も四本も生えねえよ」


「でも、あの時指が一本増えて…」


「木が生えてたの? 地上に?」


 コウが体ごと会話に割り込んできた。サンは乗り出していた上体を引く。


「彼が見たと言っていたの。私も他の誰も見ていないし定かではないけれども」


「君も僕を疑っていたの? 『信じる』と言ったくせに」


「それは…」


「お兄ちゃん本当に見たの?」


 コウは興奮してジュウゴの両腕を袖の上から掴んだ。ジュウゴは少しだけびくりとしてコウの手を見下ろしながら小刻みに頷いた後で、コウの顔を真正面から見た。


「見たよ。あれは木だった」


「ワン!」


 コウがワンに振り返る。ワンが自分の名を大声で言った。


「君は信じてくれるの?」


「コウだよ!」


 ふり返ってジュウゴに言うと、コウはジュウゴの腕を引いた。ジュウゴは戸惑い気味に立ち上がる。


「コウ、は信じてくれるの?」


「ちょっと来て!」


 言ってコウはジュウゴを引いて部屋を出て行った。ヤチネズミが続く。ワンが扉を出ようとして振り返り、サンを見つめる。サンは一瞬戸惑ったが好奇心には勝てない。


「ごめんなさい。すぐ戻るわ」


 シュセキに言い置いてワンと共に部屋を出て行った。



* * * *



 慌ただしい音の中でシュセキが眉根を顰め、目を開けた。

 シュセキはぼんやりと天井を見つめている。息が荒く苦しげだ。全身に不快な汗をまとって、流れてきた雫を瞬きで回避しようと試みる。

 やがて緩慢な動きで上半身を起こそうとし、顔を歪めて歯を食いしばった。次に目を開いた時に彼が見たのは、長さが非対称の自分の脚だった。シュセキは瞬きもせずにそれを見つめる。頭皮からにじみ出た汗が滴り、見開かれた目の中に吸い込まれた。

 荒い呼吸。不規則にうるさい動悸。煩わしい汗。


「ああ…」


 何かを思い出したのか納得したのか、シュセキは低い声を絞り出した。顔をあげる。辺りを見回す。湧き上がって来た寒気に身を揺すり、唇を閉じて両手で布団から這い出た。床の冷たさを手の平で感じ、脚の切断面の摩擦に顔を歪めて動きを止める。酷く遅い動きで部屋の隅まで辿り着くと、投げ捨てられていた自分の上着を手に取った。弄る。端末を取り出す。辺りを見回す。目を細め顔を突き出し、目的物を見つけて再び這い進んだ。壁に設えられた電源に端末を繋ぐ。端末の充電、それは彼にとって当たり前の行動だった。何か明確な目的があったわけではない。もし仮に、彼が片脚を失ったり酷い発熱にうなされたりしていなければ、彼はそのような行動は起こさなかったかもしれない。現に片脚が無くなっている事実は目の前にあるのだ。だが、綿密な思考よりも普段の習慣が勝った、ただそれだけだった。

 眠り続けていた端末が弱く光りはじめた。シュセキは指先で操作する。習慣から時刻を確認した。始業まではまだある、と思った後で、ここは夜汽車ではなかったか、と思い至った。しかし、


「……アイ?」


「はい」


 夜汽車だっただろうか。



* * * *



 すやすやと寝息をたてるスズメの枕元で、ジュウイチはコウからもらってきた缶詰を弄んでいた。

 スズメに食べさせてやろうと思ったのは事実だ。だが、まだ眠っているだろうという予想もしていた。ただ、あの場にいたくなかったというのが本音だった。

 誰かがいると動揺を憤りに変えてぶつけたくなってしまう。夜汽車を降りてからずっと続いている銃声の耳鳴りを掻き消そうと頭を振り続けた結果だ。疑問が不安を呼んで、不安は怒りになって、声を荒げていないと別の声が聞こえてきそうで気持ち悪くて仕方なかった。考えても考えても疑問は疑問のままだし、質問してみても明確な回答は得られないし、それどころか余計な情報まで飛び込んで来てそれらは尚更ジュウイチを混乱させる。かといって静かになってみれば、不安と恐怖で叫び声をあげそうだ。


「スズメ?」


 眠り続ける少女に呼びかけた。スズメは眉を顰めて寝返りをうつ。動いた。反応して動いた。それを見てジュウイチはほっと息を吐く。恐怖が少しだけ和らぐ。変わらずにその場にいてくれることがこれほど嬉しくてありがたいとは知らなかった。閉じた瞼の裏に変わり果てたジュウシが見えて、ジュウイチは慌てて目を見開いた。

 ジュウシが埋まった。埋められた。サンとネズミの手によって。ネズミは塔から来たなどと言っていたが塔は塔でも地下だとか何だとか。地下なんじゃないか、結局、とジュウイチは思った。だったら彼らと同じだ。そしてサンも。地下から来たことを否定しなかった。地下に住む者とずっと時間を共有していたなんて。騙された。嘘をつかれていた。ジュウシだってサンが皆を地下に誘ったと指摘していた。シュセキがそれを否定していたが、サン自身は否定しなかった。サンはナナも送りだした。ナナは地下に向かったと言っていた。皆でようやく探し出して取り戻したのに。彼女は信用できない。彼女と一緒にいるといずれ皆、地下に運ばれるのではないだろうか。だってネズミも言っていた。地下は夜汽車を取りに来たって。でも何故……。


 地下は何のために夜汽車を襲撃するのか。何故僕たちを入手しようとするのだろうか。地下の一室に閉じ込めたり、逃げているのに追いかけてきたり、腕を掴んだり、脚を切ったり、小銃で撃ってきたり、『死ぬ』させたり。

 十中八九死んでいる、とネズミは言っていた。教室の皆はジュウシと同じ状態だと。皆が眠ったまま砂の中に埋められたというのか? 何のために? どうして皆がそんな目に? 理由が全く思い浮かばない。あんなことされる謂れが誰にも無い。ゴウだってジュウニだってキュウだってロクだって。だから、だから、

 だから信じられるわけがないじゃないか。みんなが『死ぬ』しているなんて。


 絶対嘘だ。間違いだ。そもそも夜汽車を壊したネズミの言うことなど信用に値するはずがない。地下に住む者だったというサンにはこれ以上騙されてたまるか。ジュウシが正しかったんだ。ジュウゴの考えに間違いがないことはないから彼の過ちは仕方ないとしても、シュセキもきっとどうかしている。勉強は首席だけれども普段の彼が何を考えているかは不明だし、勉強が出来るからと言って彼が全て正しいなどということもない。だからシュセキも騙されている、間違っている。だから、だから、


 夜汽車に帰らなければいけない。教室の皆と合流しなければ。ネズミに唆されて夜汽車を降りるような彼らと行動を共にしたのが失敗だったんだ。どうせいつものように寝坊だろう、呼んでくるよ、などと安請け合いした自分が間違いだった。アイも言っていたのだからあのまま教室に待機していればよかった。

 ジュウイチは静かに立ち上がった。スズメの眠る布団を迂回して窓辺に立つ。分厚い硝子が嵌めこまれたその奥には、夜汽車同様に鉄製の雨戸が見えた。違いは手動で開けられそうなことだ。



 ジュウイチは硝子窓に手をかけた。簡単な仕掛けを解錠して横に引く。建てつけが悪いのか、窓は耳障りな音をたてた。スズメに振り返る。まだ眠っている。ジュウイチは鉄製の雨戸に手をかけた。横に引くのではないらしい。押したり引いたりしているうちに雨戸は勝手に弾みをつけて上に巻き上がって行った。途端に眩しい光が射してジュウイチは顔を背ける。ゆっくりと目を開けると外は空気が赤かった。太陽の姿は見えなかったが、辺り一面がそれによって明るく照らされているのはわかる。じわりと額に汗が浮いた。

 視界の端に四輪駆動車が見えた。ジュウシは向かって反対側にいるということか。そしてナナは右手後方に歩いていったということだ。


「スズメ」


 ジュウイチは少女を起こした。スズメは眩しそうに目を擦っている。


「行こう」


 スズメが顔をあげた。窓から射しこむ紫色の空気が白い頬を照らしていた。



* * * *



「ここは…」


 ジュウゴは言葉を失った。ジュウゴだけではない。サンも、ヤチネズミも、その場にいた全員が口を開けたまま立ち尽くした。コウに導かれた地階に通じる階段の先には、巨大な空間が広がっていた。眼球が左右上下に動く。眼球だけでは足りなくて、首を回し、ようやく足が一歩前に出てジュウゴは全身で周囲を見回した。


「はたけ!」


 コウが言う。「お父さんの畑だよ。お父さんとお母さんが土をほったり種をまいたりして、コウとワンが手伝ってたの。今はコウとワンが土をほってお兄ちゃんが手伝ってくれるんだよ」


「植物がこんなに」


 サンが言いながら辺りを見回し歩み入る。ジュウゴも同様に前に進んだ。足元には敷き詰められた土。高い天井からは煌々と照明が降り注ぎ、その天井に届かんばかりに枝葉や蔦を伸ばした無数の植物たちが、床から天井、壁から壁まで所狭しに立っていた。


「これはすげえな」


 ヤチネズミさえ感嘆の声を漏らしていた。「あんなもんいらねえだろ」


 コウはワンを伴ってとことこと歩いていくと、自分よりも背丈のある蔦からぶら下がる赤くて丸い果実をむしり取り、それをサンに差し出した。


「おいしいよ」


「…え?」


 困惑したサンの横からヤチネズミが手を伸ばし、そのまま自分の口に運んだ。ヤチネズミは赤いその表面に歯をたてて、自分の歯でそれを千切りとり、唇を閉じて口中で千切り取ったものを転がしているのか頬と顎を動かす。喉を上下させた。


美味(うま)いわ。お前、上手(うま)いな」


 赤い実を握る手と反対の手でヤチネズミはコウの頭をわしゃわしゃと揺らした。


「コウだよ」 


 コウがヤチネズミの手を煩わしそうに払いながら嬉しそうに言う。


「俺もヤチネズミだ」


 ハツカネズミがジュウゴや他のネズミたちにしていたそれとは似ても似つかない手付きでヤチネズミはコウの頭を揺らすと、最後にとん、と軽く小突いた。


「でも悪いな。腹いっぱいだわ」


 言ってヤチネズミは食べかけの実を見つめ、ふとジュウゴを見た。


「食う?」


「どういう意味?」


 ジュウゴは眉根を寄せて尋ねた。『くう』? コウとは違うのか?

 ジュウゴの態度が気に入らなかったのかヤチネズミはあからさまに顔を顰めた。顰められても困る、とジュウゴは思う。


「ちょうだい」


 コウがヤチネズミからそれを受け取って、屈んだ。ワンが近づく。コウの手の上で赤い汁を滴らせながらワンがヤチネズミと同じことを始めた。歯茎が見え隠れして、ジュウゴは何故か背筋が寒くなる。


「お父さんね、植物のけんきゅうしてたの。植物をここよりもいっぱい育てられたら、みんなおなかいっぱい食べられるし、そしたら夜汽車もいらなくなるのにって」


「『夜汽車がいらない』?」


 ジュウゴはコウの言葉を繰り返す。ヤチネズミがはっとしてコウの腕を引き、ジュウゴとサンから離れた。


「コウ?」


 ジュウゴはコウを呼ぶ。コウは振り返ろうとするがヤチネズミに頭を叩かれて止められている。


「『夜汽車がいらない』ってどういう意味?」


 ジュウゴは傍らのサンに尋ねた。だがサンも返事をしてくれない。サンは何かを思い出したような、閃いたような、驚いた顔で固まっていた。


「サン? 聞こえる? 『夜汽車が』…」


「ジュウゴ、私たち…!」


「こいつの『オヤ』は研究者だったみたいだ」


 ヤチネズミがコウを伴って戻って来た。サンが唇を固く結んで顔を背ける。「コウだよ」とお決まりの文句。「『研究者』?」とジュウゴの興味はそちらに移る。 


「研究してたんだよ、植物を。ここじゃ手狭でまだまだ植物を増やしたいんだってよ」


「十分すごい数じゃないか。最後尾の車両なんて比にならないよ」


 ジュウゴは天井を見回しながら感嘆の息を吐いた。だがコウは首を横に振った。


「全然足りないの。ここはお父さんの畑だからお父さんとお母さんとコウとワンとお兄ちゃんの分だけなら足りてたけど、それじゃ駄目なの。もっともっと必要なの」


「これ以上の施設を維持しろというのか?」


 ジュウゴは半ば呆れたように言った。「施設を造るだけでも一大事だ。電気の確保も」


「お父さんは電気も『たてもの』も使わないで植物を育てようとしてたの。地面の上で」


「地面の上で」ジュウゴが繰り返す。一拍置いて「地上で?」


 コウは頷く。これにはヤチネズミも驚いたようだ。目を見開いて首を前に突き出す。コウは真剣な面持ちでジュウゴに歩み寄った。


「お父さん、何回も何回もがんばったけど、何回も何回も失敗してた。成功する前に地下が来て死んじゃった。でもお兄ちゃんが地面に木が生えてたのを見たんなら、お父さんの研究がどっかで成功したのかも」


「待て待て待て待て」


 ヤチネズミがジュウゴとコウの間に割って入る。


「ちょっと待て、おい、コウ。お前、今、すごい話してるぞ、わかってんのか?」


「すごい話?」ジュウゴが繰り返す。


「そんな計画、お前の『オトウサン』だけで進められることじゃないだろ。ってことはここは上の連中が出入りしてるってことか? その『お兄ちゃん』っつうのもまさか。でもこいつさっき…」


「ヤチネズミ?」ジュウゴはヤチネズミの顔を覗きこんだ。「どうかしたのか?」


 ヤチネズミはジュウゴに気づかないのか、俯き加減でぶつぶつと呟き続けた。既にコウに何かを尋ねているという感じはない。考えが頭の中に納まりきらずに口の端からこぼれ落ちている。


「ヤチのお兄ちゃんどうしちゃったの?」  


 コウも怪訝そうだ。

 ジュウゴは反応を示さなくなったヤチネズミにもう一度呼びかけようと、さらに近付いて顔を覗きこもうとした。しかし上着の裾が何かに引っかかってつんのめる。枝か何かかと振り返るとサンの指だった。掴まれていた。


「サン?」


「コウ! あの、あ、私たち、シュセキの様子を見てくるわ」


 酷くあわてた様子でサンは早口にまくしたてた。ジュウゴは不審がる。


「シュセキは眠っているだけだと君も言っていたじゃないか。今はヤチネズミの…」


 サンの視線にジュウゴは口を噤んだ。縋るような形相がただ事ではない。


「…何?」


「早く。シュセキとジュウイチを…」


「ジュウイチも?」


「いや行くな」


 ヤチネズミだった。俯き加減のまま、口元を手の平で覆ったままの恰好で、いつの間にか呟きが止まっていた。「ここにいろ、ジュウゴ」


 コウがこちらを向く。上着の裾がさらに引かれる。交差するいくつもの視線のどれに答えるべきかジュウゴが戸惑っていた時、振動が頭上に響いた気がした。視線から逃れるようにジュウゴは天井を見上げる。腹に響くこの音は確か原動機。


「四輪駆動車?」


「ジュウイチ」


 サンが言って息を飲み、突然駆け出した。ジュウゴは後ろ向きに袖を引かれて倒れそうになりながら、無理矢理走らされる。


「待ておい、ジュウゴッ!」


 ヤチネズミの怒鳴り声が反響した。



 サンが走る。ジュウゴも走らされる。背後でヤチネズミの怒鳴り声が聞こえたが、サンは全く振り向きもしないで階段を駆け上がった。


「ねえ、どうしたんだよ、サン?」


「彼ら…」階段を上りながらサンが言葉を発した。


「彼ら、私たちを飲むつもりよ」


 思いもよらない突飛な推論を聞かされて、ジュウゴは思考と共に足が止まった。


「ジュウゴ、走って早く!」


 ジュウゴは急かされるも、口をあんぐりとしたままサンを見上げるだけだ。


「ジュウゴ!」


「何、言っているの? 君」


「え?」


「どうしたの? 本当に。地上に降りてから変だよ、ずっと」


「い、今はいいでしょそんな!」


「彼らが『飲む』? 僕たちを?」


 熱くなっているサンとは対照的にジュウゴは冷静になっていた。呆れた、と言った方が正しい。だがサンの言葉を肯定的に捉えてみようとも努力した。癇癪を起した時のジュウイチ並みに興奮している彼女が気がかりだった。これ以上泣いてほしくなかった。考える。左手は後頭部を掻いている。やがてその動きが止まり、出た言葉は、


「僕たち、水?」


 サンは目を瞬かせ、唇を戦慄かせると首を横に振り、髪の毛を振り乱すほど頭を振った。


「そっちじゃない!」


 ジュウゴは困り果てる。


「そっちってどっち?」


「だから私たち、かん…」


「お兄ちゃんたち」


 ふり返るとコウとワンだった。コウは小銃と大きな鞄を肩にかけていた。サンは身を固める。


「コウ」


 ジュウゴは立ち上がり、上って来るコウたちを待った。


「何、話してたの?」


「それがサンが変なんだ。彼女ときたら君たちが僕たちを飲み…」


「何でもない!」


 サンが大声で叫んだものだからジュウゴは驚いて口を噤む。驚きと一緒に呆れもして、信じられない物を見る目でサンを見つめる。


「どうしたの、本当に」


「おい、ジュウゴ」


 遅れてヤチネズミが上がって来た。サンは口元を両手で押さえてさらに後ずさりする。ヤチネズミの肩にも小銃がかかっていた。それも左右合わせて数本。


「お前も手伝え」


 言ってヤチネズミは小銃を一本、ジュウゴに差し出した。ジュウゴは手を出せずにただただそれを見つめる。小銃だ。これでジュウシが死んだ。これでシュセキが眠っている。これで、こんなもので、こんなもの…


「お前がやらないと仲間が死ぬぞ」


 ジュウゴはヤチネズミを見た。

 動かないジュウゴにヤチネズミは不機嫌そうに目を細め、その肩越しにサンを見遣った。


「お前の方が慣れてるか?」


 サンは息を飲んだ。体が勝手に後退していた。けれども、と考える。

 サンは腹を決めた。ヤチネズミの目を見据える。視線を逸らさずにジュウゴを押し退けて一段一段下りていく。ヤチネズミの前まで行き、差し出された銃身に手を伸ばした。


「サン?」


 ジュウゴは信じられない思いでサンの横顔を見つめた。その顔がぐりんとこちらを向く。驚くジュウゴの手と小銃を掴んでサンは再び駆けだした。ジュウゴの反論もコウの呼びかけもヤチネズミの舌打ちも無視してひたすら階段を駆け上った。


「サン、なんでそんなもの…」


「これからは!」


 ジュウゴの不服を遮ってサンが走りながら叫んだ。


「絶対に自分が夜汽車だと公表しないで。危ないと思ったらその場から走って離れて。いい?」


「どういう意味?」


 答えを聞きだす前に廊下に至った。スズメが眠っていた部屋の扉を乱暴に開けて中に入る。布団は敷かれたまま、誰もいない。やけに肌寒いのが開け放たれた窓から入って来る外気のせいだと気づくまでにジュウゴは数秒かかった。


「起きたのかな?」


 ジュウイチと一緒にスズメは『居間』にいるのではないだろうか、そんなことを考えているジュウゴの傍らをサンはすり抜け、窓辺に駆け寄る。胸から外に乗り出し周囲を見回している。


「ジュウイチ!」


「ジュウイチ?」


 ジュウゴも慌てて窓辺に駆け寄った。何故ジュウイチが外に? 何のために?

 ジュウゴがサンの横から身を乗り出すと、ヤチネズミが運転していた四輪駆動車の運転席に座るジュウイチが目に入って来た。ジュウゴは戸惑う。サンが叫ぶ。サンは窓枠に足をかけてよじ登ろうとした。慌ててジュウゴが制止する。


「危ないよ。何しているんだ」


「ジュウイチ、待って! お願い、話を聞いて!」


 サンの声にようやくジュウイチが振り返る。ジュウゴは目が合う。泣きそうな顔。


「どけッ!」


 ヤチネズミが大股で駆けつけて、ジュウゴの肩を掴んで引いた。サンとの間に割り込み、ジュウイチを見つけて身を乗り出す。


「馬鹿野郎! 戻れ!」


「ジュウイチ、お願い、待って!」


「おい、夜汽車!」


 四輪駆動車が唸った。原動機が正常に動き始める。ヤチネズミの怒声。サンの悲鳴。ジュウゴの呼びかけも振り払ってジュウイチは四輪駆動車を発車させた。ヤチネズミが舌打ちして小銃を構える。サンが固まる。銃口が狙うはジュウイチだ。ジュウゴは慌ててヤチネズミに体当たりした。片手で払われる。銃声。もう一度跳びかかる。ヤチネズミの両腕に手をかけて小銃を奪い取ろうとするが腕力も身のこなしも何一つ勝るものがなくて、再び振り払われた。それでも何度も跳びかかる。


「どけ!」


「なんで撃つんだよ、やめてくれ」


「離せ」


「やめてくれ!」


「ジュウゴッ!」


 終にヤチネズミがこちらを向いた。ジュウゴは何度目かの尻もちをつく。顔をあげると目の前に銃口があった。黒い穴の奥に暗い道筋が続いている。


「どいてろ」


 ヤチネズミに凄まれて、ジュウゴは銃口から目を離せなくて、怖くて、自分の荒い呼吸だけが頭の中で音量をあげた。

 ジュウゴが動かないことを確認して、ヤチネズミが窓枠をひらりと飛び越えて外に出た。窓際で立ち尽くしていたサンがヤチネズミを目だけで追う。再び銃声が聞こえる。ジュウゴは立ち上がり窓枠に両手をかけて声の限り叫んだ。


「行け! ジュウイチーッ!!」


 サンがジュウゴを見た。

 小銃を撃ち続けていたヤチネズミは、やがて射程距離外になったと悟ったのか発砲を止め、手にしていた小銃を地面の上に叩きつけた。砂が舞う。微かに聞こえる息使いは早く、その背中だけでも彼が怒り狂っているのが見て取れた。


「お兄ちゃん?」


 サンは振り返った。見るとコウが自分の裾を引いていた。サンは慌てて小銃を構えようとするが手間取って上手く行かない。コウは困った顔をワンに向け、それから眉毛をハの字にしてサンを見上げた。


「違うよ」


 サンは小銃を持て余したままコウの顔を見下ろす。


「飲まないよ」


「…え?」


 ざくざくと砂を踏む音が近づいて来て、サンは再び窓の外に目を遣った。ヤチネズミがすぐそこに迫っていて、サンは思わず窓枠の下に身を隠す。出て行った時と同じように窓の桟に片手を置くと、高さを物ともせずに跳び越えてヤチネズミは入って来た。


「なんで…」


 何かを言いかけたジュウゴの言葉を待たずに、ヤチネズミはその頬に拳をめり込ませた。ジュウゴが弾かれるように上半身をのけ反り、尻をつく。


「ヤチのお兄ちゃん!?」


「本気で使えねえな、お前ら、この夜汽車。何してくれてんだよ、ああ?」


「お兄ちゃんってば!」


 コウの仲裁を全く聞き入れずにヤチネズミはさらにジュウゴに迫った。サンは小銃にしがみ付いたまま、目を開けていることが精一杯だ。

 ヤチネズミはジュウゴの襟を掴んで引き起こすと、再び拳を振り上げた。無抵抗なジュウゴはそのまま殴られる。首が弾かれる。頬を挟んでヤチネズミの拳と歯が接触する。

 四回殴られたところで、ジュウゴは解放された。ヤチネズミはジュウゴを殴っていた右手を、砂を払うようにして手首から下を振っている。サンはヤチネズミを警戒しつつ、ジュウゴの傍に駆け寄った。


「ジュウゴ」


 ジュウゴは左手で顔を押さえている。唇の端は切れて血が出ていた。もごもごと頬を動かすと、ジュウゴはえづくようにして床に何かを吐き捨てた。血液が混ざった痰だった。サンはジュウゴの顔を覗きこむ。ジュウゴは顔を抑えながらヤチネズミを睨み上げると、唇を歪に動かした。


「なんで撃ったんだ」


 唇を切っているせいか、聞き取りづらい。


「なんで撃ったんだよ! ジュウイチが死んだら死なせたかったのか?」


 相変わらず変な言い回しだったが、それを訂正する者はいない。

 ヤチネズミは左手で右手の指の付け根を揉みほぐしながらジュウゴを見下ろした。その視線が冷たくて、ジュウゴは思ってもいなかった結論を導き出す。


「『飲む』か? 『飲む』のかよ、僕たちを!」


 先ほどサンが口にした突拍子もない考えを叫んでいた。サンが唇を閉じてジュウゴを見つめる。ジュウゴは歯茎を剥いてヤチネズミを睨み上げる。ヤチネズミは眉毛をひん曲げた。

 初めに聞いた時は何を言っているのかさっぱり理解出来なかった。だがヤチネズミがジュウイチを小銃で狙っているのを見て、そうかもしれないと思い始めていた。どうやるのかわからないけれども、『飲み込む』というのが何を指した隠喩なのか見当もつかないけれども、いずれにしろ夜汽車を死なせることなのだろうとジュウゴは思った。だってジュウシは死んだ。ハチも死んだという。シュセキも死にそうだし、ジャコウネズミだってあれで。

 ヤチネズミが盛大にため息を吐いた。がっくりと項垂れてもまだ息を吸う気配がない。あまりの長い沈黙にジュウゴは立ち上がった。


「そのためだったんだろう? だから夜汽車を壊したんだ。だからアイのことも…」


「駄目だこいつら、ハツ」


 ヤチネズミが項垂れたままぼそりと言う。ハツ。ジュウゴは唇を閉じる。ハツカネズミも自分たちを死なせたいのだろうか。ちょっと違う気がした。いや、ハツは絶対違う。


「そうだよ」


 コウだった。サンから震えた鼻声が聞こえた。コウは幼子に言い聞かせるように、少し困ったような顔をしながら続けた。


「夜汽車は飲むんだよ。そのための夜汽車だもん」


「コウ!」


 ヤチネズミがコウを咎める。コウは困った顔のままヤチネズミに言った。


「ちゃんと話さないとわかんないよ、ヤチのお兄ちゃん。だって夜汽車なんでしょ?」


「だから俺が」


「何の話?」


 ジュウゴがコウとヤチネズミを見比べた。右手が後頭部に伸びて地肌を掻き毟る。


「何、言っているの? 『飲む』って何の例え?」


 ジュウゴはサンに振り返った。サンはなぜか視線を合わせてくれない。


「サン? ねえ、サンって…」


「缶詰の中身だよ。あれ夜汽車だもん」


 ヤチネズミが目元に手をやり、息を吐いた。

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