15-19 お兄ちゃん
ジュウゴはコウをまじまじと見下ろした。コウはまだ困ったような、それでも目にはしっかり力を込めて、ジュウゴを見つめている。
「缶詰が何?」
「『夜汽車』っていうの、あれ」
あれのこともコウはそう呼ぶのだろう。「だから?」
「あの中身、夜汽車なの」
「あんな小さな容器の中に、僕は入れないよ」
「絞ってあるもん」
「何を?」
「夜汽車を」
「『夜汽車を絞る』?」
コウの言葉を繰り返した後で、ジュウゴは止まった。右手で耳の後ろ辺りを掻いている。彼は何が言いたいのだろうと言葉の裏をかいてみて、比喩の中身を考える。しかし自分の頭では答えにたどり着けないと観念すると、ジュウゴは振り返った。そこにいたのがジュウシではないことを思い出して戸惑い、一瞬で悲しくなる。
「吸いだしてんだよ。絞るなんていつの時代のやり方だよ」
ヤチネズミが壁と天井の間辺りを見遣って言う。
「絞ってるんだよ。お兄ちゃんが言ってたもん」
「今は吸い出してるって言ってんだろ!」
コウとヤチネズミが言い争いを始めた。絞っているのか吸い出しているのかで両者とも譲らない。何の話だ、とジュウゴも口を挟む。
「だから吸い出してんだよ、水分を! こう、針をぶすっと刺して干乾びるまで完全に!」
ヤチネズミが声を荒げた。右手の拳を左腕に置いて、『針を刺す』を強調する。
「それを撹拌して熱処理して真空保存で…」
「急にむずかしいよ。ヤチのお兄ちゃんってほんとに説明が下手っぴだよね」
「おま…、くっそ! この餓鬼どもは!」
「何の話?」
ジュウゴがヤチネズミたちの話に再び興味を示した。コウとヤチネズミが振り返る。サンは危険に気付く。ジュウゴの上着を掴みかけて間に合わず、爪が手の内側に刺さる。
「先から何の話をしているんだよ。僕たちにもわかるように説明してくれ」言ってからジュウゴは思い出し、「なんでジュウイチを撃ったんだよ」とヤチネズミを睨みつけた。
「車輪だ、車輪。四輪、止めようとしたんだよ。足が無きゃどこにも行けねえだろが」
ヤチネズミが面倒臭そうに答えた。
「大体、あいつはなんで突然出てったんだよ、お前ら置いて。おいジュウゴ、お前も加担したよな? 俺があいつを飲むとでも思って逃がしたのか?」
「撃たれたら死んでしまうじゃないか! 止めようとするよ、当然だろう!」
ジュウゴは再び、先の怒気を取り戻してヤチネズミに食ってかかった。
「あ? じゃああれか? 俺があいつを撃ったからお前は俺を止めたのか? 俺が悪いのか。おお、そうかそうかって、んな訳ねえだろが!」
「ヤチのお兄ちゃんだって悪いと思うよ。コウだってびっくりしたもん。ねえ、ワン?」
コウが口を尖らせてワンに同意を求める。
「あの状況でいちいち説明してられるか!」ヤチネズミが唾を飛ばす。
「なら今、説明してくれ」
ジュウゴが言ってコウとヤチネズミが黙った。サンは目をつぶって項垂れた。
ヤチネズミがジュウゴに向き直る。咳払いをして鼻をすすり、コウに「窓、閉めろ」と言い付けた。コウは頬を膨らませてヤチネズミを睨み上げただけだった。
「昨日、俺らは塔から来たって言ったよな?」
ジュウゴは頷く。ネズミはワシと違ってト線の地下ではなく塔の地下からやって来たと言っていた。
「お前も塔だ、ジュウゴ」
ジュウゴは固まる。首を横に振る。何故ならジュウゴは夜汽車だから。
だがヤチネズミはジュウゴの反応を気にせず続けた。いつの間にか視線は斜め下を行き来している。
「夜汽車も元々は塔の子どもだ。ネズミと夜汽車は元は同じ塔だ」
「僕は夜汽車だよ」
ヤチネズミは横を向いて息を吐いた。「ああ、そうだな」と否定もしないで受け流す。
「夜汽車で育てられたお前らは年頃になったらト線に入って、そこで地下の奴らに缶詰にされる。奴らはそれで生き延びてる」
ジュウゴの口が開いていく。眉間の皺が濃くなる。
「奴らを放っておけばお前らは永遠に缶詰の中身だ。だから俺らは地下掃除してた。でも全ッ然減らない! 轢いても撃ってもどんどん出てくる」
延々? 引く? 出る??
「だからハツは夜汽車そのものをなくそうっつった。地下に対抗していろんな薬作っても、何べん俺らが掃除してもあいつら根絶やしに出来ないなら、いっそのこと夜汽車をなくしちまえってな。そうすれば勝手に飢えて死んでくれる」
「何を死なせるの?」
話の序盤から意味を見失っていたジュウゴは、一番気がかりな単語に反応した。ヤチネズミは鼻筋に皺を寄せる。
「地下の連中だよ。あいつらを減らすのが俺たちの仕事だ」
「なんで?」
ジュウゴの脳裏にチュウヒの顔が浮かんだ。ナナを粗末に扱っていた女たちとか、それ以外はよく覚えていないけれども、豪快に笑う気のいい男には好感を持てた。
ヤチネズミはジュウシみたいな呆れた声を出してジュウゴを舐めるように見た。
「夜汽車を減らさないためにだ」
「夜汽車を減らすって?」
「お前らが死ぬってことだよ」
「僕たちが減らないために地下を減らすの?」
「そうだよ」
「おかしいよ」
「何が」
「だって僕たちが減らなくても地下が減るなら総じてやっぱり減っているじゃないか」
ヤチネズミは口を開けたまましばらく何も言わなかった。コウは険悪な雰囲気を心配そうに見守っている。ワンは鼻をひくつかせて窓の外を見つめている。サンは俯いてヤチネズミの話を聞きながら、冷や汗が止まらなかった。そうだ、ネズミ。遠い記憶の中で顔も思い出せない誰かから言われたことを思い出す。ネズミが出たら逃げろ。地上に行く度に何度も何度も言い聞かされた。ネズミが出たら逃げろ、ネズミが出たら逃げろ、挨拶のように繰り返された誰にも通じる決まり文句だった。何故忘れていたのだろう。
「じゃあお前は死んでいいのか」
ヤチネズミが言った。言ってから怒り狂って肩にかけていた小銃の柄で床を叩いた。
「眼鏡も青いのもその女もお前の仲間全員地下に殺されていいのか! 地下の腹、満たすためだから仕方ないとか言って黙って殺されるの見てんのか!」
「『ころさるる』って何?」
「死ぬってことだよッ!!」
ヤチネズミが怒鳴った。部屋の中の空気が揺れた。
「何もしなきゃお前らは殺されんだよ。死ぬんだよ。死んであいつらの腹に入るんだよ。お前らはそのためだけに育てられて、なんも知らないままで今日の今日まで来たんだろうが!」
言いながらヤチネズミが腰帯から刃物を引き抜いた。何をするのかとジュウゴが疑問をもった瞬間、ヤチネズミは反対の腕の袖をまくりあげ、その皮膚を刃先で裂いた。コウが声を上げる。サンが息を飲む。驚いて呆気にとられるジュウゴに腕をかざしてヤチネズミは言った。
「缶詰の中身だよ。お前らも飲んでたもんだ。あいつらはこれがほしくてたまらない。これを採るためにお前らを獲って吸い出すんだよ」言いながら刃物を納めてその手で切り口を握りしめた。
「コウの話だとあいつらはまだこうしてるみたいだけどな」
掴んで捩じって圧力をかけられた腕から、血液が勢いを増して固形物のように噴き出た。
「やめて、お兄ちゃん」
ヤチネズミがさらに腕を捩じる。
「見覚えあんだろ。缶詰の中身だ」
流れる。滴る。床に落ちる。
「ヤチのお兄ちゃん!」
「お前だ」
見覚えなど、
―何故か一瞬、食欲が湧いた―
死ぬ直前、ジュウシが口にしていた言葉を思い出す。
「やめてよ!」
コウが泣き叫び、余韻が響いた。ワンがコウに体を寄せ、見上げる。
ヤチネズミは大きく息を吐くと腕から手を離し、袖を戻した。手の平で目元を覆う。下げたままの反対の手指の先からは、まだ血液が滴っている。ジュウゴは滴を見つめていた。
怒りの色はそのままに、それでも呼吸で声を抑えてヤチネズミは続けた。
「寝ぐせが死んだ時のこと思い出せ。あんなことが仲間の数だけあんだよ。いいのか? 無理だろ。絶対無理だ。だから地下は掃除すんだよ」
ジュウシの顔が浮かぶ。
「ハツはお前らを仲間と同じく見てる。俺なんかと違ってあいつは心底いい奴だ。あいつが仲間だっつうならお前らは仲間だ。仲間は死なせない、そういうもんだろ」
「だったら、」
ジュウゴは考える。ヤチネズミが何度も繰り返す『仲間』の意味を。死んだジュウシ。死んでほしくないシュセキ、サン、ナナ、ジュウニ、ロク、他の皆、ハツカネズミ、タネジネズミ、そして、
「チュウヒだって『仲間』だ」
『仲間』とは死んでほしくない者たちを指しているのではないだろうか。ジュウシは行動を共にする相手という定義ではないだろうかと言っていたけれども、教室にいる皆やジュウイチは今現在、行動を共にしていない。でもジュウイチも『仲間』だとヤチネズミは言う。だったら『仲間』の定義は共にいるか否かではなくて、
「ワシか?」
しばらく思案顔でどこかを見ていたヤチネズミが言った。チュウヒはそうとも呼ばれていたと思いだしてジュウゴは頷く。ヤチネズミの顔から色が消える。ジュウゴは身を乗り出す。
「シュセキもサンもジュウイチもナナもみんな死んでほしくないよ。ハツにだって君だってそうだ。皆、同じだ。誰にも死んでほしくない」
ジュウシにだって起きていてほしかった。
「同じようにチュウヒにだって死んでほしくない」そこでジュウゴは気付き、「もちろん、コウにもワンにも」
コウはワンと目を合わせる。
「僕は誰にも死んでほしくないよ。誰かが大切だから別の誰かを死なせるとかそんな…」
「生きるためには食うだろ」
何度か聞いたような気がする、いまだによくわかっていない言葉にジュウゴは反応する。「『いきる』ってどういう意味? 『くう』って何?」
ヤチネズミは横を向いて息を吐く。そして、
「死なないためには飲み食いしなきゃいけないんだよ」
「そうなの?」
「そうなの」
ジュウゴの質問に答えたのはサンだ。ジュウゴはサンに振り返り驚いた。
「何しているの?」
サンは小銃を構えて、銃口をこちらに向けていた。いや、自分にではない。ヤチネズミを狙っている。
「お兄ちゃん?」
コウがサンに呼びかける。ヤチネズミが不機嫌そうにサンを睨みつける。
「何の真似だ、お前」
「正当防衛よ。あなたたちだって飲むじゃない。だったら先に!」
ワンが首を伸ばした。にわかに過呼吸じみた息使いになり、口を開いて舌を小刻みに出し入れする。靴音に全員が気付く。開け放たれたままの扉から射しこむ明かりの中に影が伸びて、その主が顔を覗かせた。
「お兄ちゃん!」
コウがサンにも向けたことのない笑顔で駆け出し、男に抱きついた。ワンも五本目の足を千切れんばかりに回して男の周りを飛び跳ねる。サンは突然現れた男を見上げて戸惑い、気付かぬうちに銃口は斜め下を向いていた。
「靴」
ジュウゴが滑舌悪く言った。サンは振り返る。
「あの靴、チュウヒたちと同じだ」
サンは自分の足元を見下ろした。男の足元と比較し、視線を上げながら、
「ワシ…」
言うより早く銃声が響いた。サンとジュウゴは同時にびくりと肩を竦め、振り返る。ヤチネズミが構える小銃の先から一筋の煙が立っていた。
「ヤチのお兄ちゃん?」
コウが驚いてヤチネズミを見る。その体を背後の男が引き寄せ下がらせ、ワンとコウを廊下に押し出した。後ろ手に扉を閉める。扉を叩くコウの声が聞こえる。
「お前が『お兄ちゃん』かよ」
ヤチネズミが小銃の弾を装填しながら言った。鼻筋に皺を刻み、顎を引いて男を睨み上げる。
「お前は……」
「ヤチネズミ?」
ジュウゴがヤチネズミを呼んで、男がジュウゴの方に顔を向けた。サンは固まる。直感が体中を駆けめぐる。ここにいてはいけない。
男がヤチネズミに向き直り、見下ろしながら眉間に皺を寄せた。「ネズミか」
ヤチネズミがさらに発砲した。男の質問に答える気はないらしい。男は首だけを小さく動かし、銃弾を避ける。避けながらヤチネズミに歩み寄り、その銃身を素手で掴んだ。
「中で撃つな。コウが怖がる」
「ジャコウの礼だ」
男は眉根を顰める。
「ハツとカヤの分だけじゃ足りねえんだよ!」
ヤチネズミが小銃を支点に跳び上がり、男の顔めがけて二つの踵を振りまわした。男がその軌跡を目で追い上体を退く。ヤチネズミが一回転して小銃を構え直す。
男がヤチネズミを見下ろして納得したように息を吐いた。ヤチネズミがさらに顎を引く。男は顎を上げ、窓の外を見遣った。
「随分死ににくい奴だった」
「てめえ!!」
ヤチネズミが男目がけて発砲した。ジュウゴの呼びかけなど届いていない。男に照準を合わせて何度も何度も引き金を引く。男は顔色をほとんど変えずに銃弾を避けながら、腰帯の細長いものに手をかけた。
「調達品を壊すな」
言うとその刃物を振った。振ったのだろう、おそらく。ジュウゴには何が何だか全く見えなかった。気がつくと男が握っていたものが細長い刃物で、いつの間にか小銃が半分になっていたからそうなのだろうと思っただけだ。目を見開いたヤチネズミにさらに刃物が振り下ろされ、ヤチネズミが顔をしかめた。肩口から流血する。
「ヤチネズミ!」
「床を汚すな」
男は少し憤って踏みこんだ。ジュウゴはサンの制止を振りきって男の腕に絡みつく。刃物を振るうのをやめさせようとした。男は動じない。ジュウゴを見下ろす。
「ジュウゴ…」
「逃げろジュウゴ!」
ヤチネズミが怒鳴って半分になった小銃を振り投げた。男の側頭部を掠める。首を斜めにした男がヤチネズミを見下ろした。サンはジュウゴの手を握り、大股で扉に走る。ジュウゴがヤチネズミを呼ぶ。ヤチネズミが肩にかけていた別の小銃を構える。男がさらに刃物を振り下ろす。ジュウゴが見たのはそこまでだった。廊下に躍り出たサンはジュウゴの手を離し壁に放り投げると全身を使って扉を閉めた。コウとワンが目に飛び込んでくる。
「お兄ちゃんなんで?」
コウがサンにしがみ付いた。
「コウ、お兄ちゃんは飲まないよ。言ったでしょ。信じてよ」
「ヤチネズミ! ヤチネズミ!」
銃声と銃声、ばたばたとした物音に向かってジュウゴが叫ぶ。壁にびりびりとした衝撃。
「お兄ちゃん!」
コウはヤチネズミと男のいる部屋に入ろうとする。サンはそれを引きとめた。
「はなして! お兄ちゃんたちを止めるの。ねえ、お兄ちゃんってば」
サンはジュウゴとコウの手を握り、シュセキのいる部屋に飛び込んだ。ワンが続く。中から鍵を閉めて扉に額を押しつけ座りこむ。
「どいてくれ、ヤチネズミが!」
「お兄ちゃんどうして? なんでお兄ちゃんとヤチのお兄ちゃんが…」
ジュウゴが頭の上から怒鳴り声をかけてくる。コウの困惑しきった声。銃声が聞こえる。
「ヤチネズミが!」
ジュウゴが扉の取っ手に手をかける。サンが必死に止める。
「ヤチネズミが損傷させられていた」
「お兄ちゃんどいて!」
「だから今のうちに逃げるんでしょう?」
「どういう意味? 第一、彼とは話が終わっていない」
「お兄ちゃん!」
「あなたは少し静かにして」
「ネズミは僕たちを助けてくれた」
「ワン!」
「振りよ。全部嘘。信用させて利用されて飲まれるの。ワシと同じ。彼らも地下よ」
「ジャコウネズミは死んだ!」
ジュウゴは怒鳴った。「ハツもヤチネズミも皆すごく悲しんでいた。ハチが死んだと言った時の君と同じだ。ジュウシが…」言い淀む。「僕は彼にも死んでほしくない!」
ジュウゴはまだそんなことを言っている。どう言えば彼に伝わるのだろう。ジュウシはどのようにして彼と会話を成立させていたのだろう。歯痒い苛立ちをぶつけたい衝動を必死に抑えてサンはジュウゴに説明を試みて顔を上げた。
「シュセキ」
「シュセキ?」
サンの言葉にジュウゴは振り向いた。そして喉から空気を吸った。
「シュセキ!」
ジュウゴは壁に向かって胡坐をかくシュセキに駆け寄った。
「良かったシュセキ! 起きた、起きたんだ。良かった! 本当に」
「うる…さい」
シュセキは寝起きの様子を隠さずに、目頭を指で揉んだ。その仕草があまりに普段通りに過ぎて、異常な状況の中でジュウゴは思わず笑ってしまう。
「何しているの?」
サンが息を飲んで固まっていた。ジュウゴは振り返る。手と前髪が小刻みに揺れている。視線はシュセキの胡坐の上で鈍く光る端末に注がれている。シュセキがゆっくりと顔をあげた。
「何してるの! バカッ!」
サンが悲鳴じみた声をあげた。ジュウゴを押し退けシュセキから端末を取りあげ、充電器が抜けたそれを思いっきり床に叩きつけた。
「君こそ何をやっているんだ!」
ジュウゴはサンの肩を掴む。
「やっと起きたんだ! 死んでなかった! 壊れそうなのにそれ以上手を出すなよ!」
「あなたは黙って!」
手を払われて怒鳴られるが、黙ってられるはずがない。ジュウゴはもう一度抗議しようとサンとシュセキの間に足を踏み込んだ時、床の上で端末が鳴った。小さな画面の中でアイがにっこりと笑う。
「もうすぐ着きます」
「助かる」
シュセキが答えた。
サンが恐ろしい形相をシュセキに向ける。ジュウゴは驚く。サンが片足を上げた。止める間も無かった。サンの踵が端末の上に落ちる。画面が割れる。部品が飛ぶ。完全に壊れたそれをサンは執拗に何度も何度も踏みつけた。
「サン?」
ジュウゴが信じられないものを見る目でサンを見上げる。
「何、を」
動きの遅いシュセキにサンが俊敏に振り返り、膝をついて両腕を掴んだ。ジュウゴは圧倒されてさらに退く。
「何したの? アイに何を言ったの?」
「脚が無い、と」
いつもの数倍以上の時間をかけて、ゆっくりとシュセキが答える。ジュウゴはシュセキを見下ろした。
「始業までにき…教室に、行けそうにないから、…どうすればいいか、と尋ねた」
ジュウゴは言葉を失った。サンは肩で息をしながら顔に困惑の色を浮かべる。
「このまま、居室で、個別指導をうけるべきか、否か、確認したら…」
「夜汽車じゃないよ」
堪らずジュウゴが口を挟んだ。サンを押し退けてシュセキの肩に手をかけ、自分の方を向かせる。
「降りたんだよ、僕たち。ナナは地下に行ってしまってジュウイチもどこかに行ってしまった。教室の皆もどうなっているかわからなくて、ジュウシは死んだ」
シュセキは目を細め、酷くゆっくりと顔の筋肉を動かし、そしていつものようにジュウゴを見下した。
「何を、言っている」
「事実だよ」
「理解不能…」
「しなきゃ駄目だ」
「君の話うぁ、…わかりづらい」
シュセキが重たそうに首を回した。探している、ジュウシを。解説を頼みたいのだろう。彼とジュウゴの意思疎通にはジュウシの通訳がいつも不可欠だったから。
「いないよ。庭だ。砂の下に眠っている」
シュセキがジュウゴを見上げる。
「もう起きないんだ。死んだんだ。動かない。もういないんだよ」
「砂の…下?」
シュセキはジュウゴを睨み上げ、「彼が何を、した」
「何も出来ないんだ。何も無い。だってジュウシは…」
「もういい」
サンだった。「もういいわ。彼には後で説明する」言うと立ち上がり、窓に駆け寄った。硝子怒を開け、鉄の雨戸を押し上げる。途端に冷たい外気が入り込み、ジュウゴは目を瞑り、シュセキは身震いした。
「行きましょう」
サンが振り返る。
「どこに?」
ジュウゴが尋ねる。
「わからない」サンが首を横に振る。「でもここから逃げるの」
「ここはどこだ」
シュセキが部屋を見回した。「僕の部屋では、ない」
「だから夜汽車じゃないって」
言ってジュウゴは立ち上がった。シュセキの腕を握って立ち上がらせようとするが、シュセキは上手く立てない。ああ、脚、とジュウゴは思った。
「駄目だサン、シュセキは立てない。歩けないよ。どこかに行こうにも…」
「担いで」
「『かつ』…?」
「持って運んで、ジュウシみたいに」
ジュウゴはサンを見つめる。憤りを抑えられなかった。
「シュセキはまだ動いている!」
「そんなのわかってる! でも動けないなら運ぶしかないじゃない!」
建物が大きな音を立てて揺れた。シュセキ以外が同時に振り返る。数秒遅れでシュセキが顔を上げる。扉が開いていた。
「コウ?」
ジュウゴは辺りを見回す。「コウとワンがいない!」
「もういい」サンがさらに顔を青くして叫んだ。「いいわもう、早く逃げるの!」
「『にげる』って何? コウたちは?」
「いいからついて来て!」
「あれは、何だ…」
窓の外を見ていたシュセキが言った。ジュウゴはシュセキを見下ろしてから窓の外を見遣る。耳を澄ませる。目を細める。近付いて来る原動機の音。
「ハツ?」
ジュウゴは嬉しくなってサンに笑顔を向ける。
「自動二輪の音だ。ハツだよ。ネズミの皆だ」
言うと窓辺に駆け寄り、窓枠に両手をついた。先のヤチネズミを真似て、外に出ようとよじ登る。
「だめ、ジュウゴ! お願いやめて」
「呼んでくる!」
「ジュウゴ!」
ジュウゴは窓枠を乗り越え、砂に落ち、起き上がって駆け出した。




