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黒い本  作者: 愛理 修
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黒い本

 彼が小説を書いてみたいと思うようになったのは中学生のころであった。もともと本好きなのだ。それが高じて、自分でも書いてみたいと思ったにすぎない。最初は授業中に、ノートに記していた。退屈しのぎの悪戯書きと同じだった。友だちに見せ、それが受けると楽しかった。それでまた話を創る。もっと受けてみたいと思う。それの繰り返し。あらすじ程度のものであったお話は、年齢を重ね、新たに書くごとに、いくぶんなりとも小説のていをなしてきていた。うまくなりたいと思い、小説家になれたらと夢想するようになった。

 公募に挑戦してみたのは大学生になってからだった。自信作はあえなく落選し、一次予選をかすりすらしなかった。実力のほどを、まざまざと知らされた気がした。二度三度と投稿し、大学を卒業した翌年に、ようやく一次予選通過者の中に自分の名を見つけた時は、続けてきてよかったと心の底から思った。バブルはすでにはじけ、彼が卒業した時期は就職難の時代だった。多分にもれず、彼も就職浪人のひとり、フリーターとなっていた。バイトで糊口をしのぎ、小説家を目指すというのは、彼にとってささやかな希望の灯となった。

 それから十数年、彼は小説を書き続けていた。バイト先はいくつも変わっていた。自分を信じ、夢を見続けた結果がいまだった。毎年毎年、賞を取って新人作家が誕生していくなか、彼はずっとひとり取り残されていた。彼にとって、応募する小説はすべて自信作だった。しかしそれが入選することは一度もなかった。

 それでも彼は、小説を書くこと、夢見ることをやめることはできなかった。すでにそれは、彼の人生の一部を成していた。それをやめることは、彼が彼でなくなることに等しかった。


 図書館からアパートに戻った彼は、さっそく男から預かった黒い本を取り出した。六畳に簡素な台所がついただけの部屋は、がらんとし、寒さで冷え切っている。狭いが、風呂とトイレがついているぶんまだましなほうだった。

 時計を見ると、バイトにいく時間が迫っていた。読みたい気持ちはあったが断念するしかない。どうせなら、腰を据えて読んでみたかった。

 彼は黒い本を卓袱台の上におごそかに置くと、図書館で借りてきた本をぱらぱらとめくり、バイト先である、駅前の居酒屋へ出かける用意をしだした。

 帰ってきたのは深夜の二時半になるころだった。蛍光灯をつけると、出かけた時のままの六畳の部屋が、寒々と浮かび上がった。居酒屋でのバイトは、時給は安いものの食事がつくという利点がある。まともな食事にありつけるのは有難かった。それでもこの時間になると、小腹が空いた。着替えをすまし、彼は買い置きしてあった食パンをトーストすることもなく食べ、インスタントコーヒーを作り、毛布にくるまってから、黒い本を読みだした。

 読みだしてすぐに、彼はこれが途方もない本であることに気づいた。驚くべき本だった。身が震え、巻頭から彼は物語の中に引き込まれた。数行読んだだけで、我を失っていた。こんなことがありえるはずがなかった。信じられないものを目にしていた。夢中になって読んだ。どのページも驚愕に満ちあふれ、楽しくて、そして恐ろしかった。いったいなにがおこっているのか、彼にはわからなくなってきていた。読んでいるという感覚が鈍り、物語と現実がひとつになって、彼を呑みこんでいく。本を閉じることなど、もはやかなわないことであった。ひたすら読みふけ、読了したのは早朝だった。

 窓越しに日の光が差し込む中で、彼は、読み終えて卓袱台の上に置いた黒い本を見つめたまま、ひとり呆然としていた。

 いったいこれはなんなのだ。

 気がつくと、そこは狭いアパートの一室で、自分がそこにいたことすら失念していた。それほどまでに、黒い本は、彼をこことは別な世界へと連れ去っていっていた。

 途端にじっとしておれなくなり彼は立ち上がった。毛布がずり落ち、寒さに震えた。震えているのは、部屋の温度が低いせいというばかりではなかった。掌を握ったり開いたりして、彼は六畳の部屋をうろついた。いまだに心がざわめき続けている。落ち着け、落ち着けと、繰り言のように自分に言い聞かせた。冷静になって、もう一度確かめなくては。

 彼は、ふたたび卓袱台の前に座ると、毛布を身体にかけ、黒い本をあらためて開いた。間違いなかった。彼が読んだ物語がそこにはあった。そのまま読み出したい誘惑をかろうじて押え、彼は目をつぶると、閉じた本を卓袱台の上に戻した。気が遠くなりそうだった。

 ――黒い本の主人公は、間違いなく彼自身だった。

 目を開くと、彼は冷たくなったコーヒーをマグカップから口にした。

 まだ、心はここにあらずだった。半分の自分は本の中にいた。黒い本に記された物語は、ひとりの男の半生を描いたものだった。そしてその男は、ほかならぬ彼であった。名も同じなら、容姿も同じで、これまで生きてきた彼の人生が映し出され、考え方や思いも彼のものだった。ただ、彼の実人生と同じというわけではなく、物語は動感にあふれ、彼がそんなふうに生きてみたいと望んだ人生がそこにあった。そういう意味では、完全にフィクションであり、夢物語であった。

 彼は若くして小説の新人賞を受賞していた。魅力的で謎めいたヒロインと恋に落ち、夢と現実が交差する世界で、屈することを知らないライバルと争い、つぎつぎと襲いくる苦難と挫折を乗り越え、真実と限りない夢を求めて人生に挑んでいた。それは、幾度となく、彼がこれまで小説の中で描き続けてきた人生だった。ヒロインとライバルは、彼が小説の中に登場させた人物たちだった。物語の中で、作中作として、主人公が書いた小説は、すべて彼が創作したものだった。現実と創作と夢が、黒い本の中では混然と一体化し、彼に迫ってきていた。しかもそれが完璧なまでに表現されているのだ。彼ができなかったことが本の中ではなされていた。言葉の一語一語が、彼がこう書きたいと思っていたイメージ通りのものだった。読んでいる間中、言葉の渦が彼を陶酔させていた。見事というほかない仕上がりだった。物語の最後は、湖にひとりたたずみ、新たに小説を執筆すべく、山荘へと歩いていく主人公のうしろ姿で終わっていた。それは、まぎれもなく、もうひとりの彼であった。

 そして――現実の彼がいた。

 落選を繰り返し、ひとつとして成果を出すことができず、誰からも顧みられることなく、六畳のアパートで卓袱台を前に、灯油代を節約するために毛布を引っ被った彼がいた。

 黒い本の中の彼と現実の彼には、いく光年とも思える隔たりがあった。

 惨めだった。あまりにも惨めだった。体の中にぽっかりと穴が開いたようだった。穴が大きくなっていって、彼自身を呑み込んでいく。いまいる自分がウソで、小説の中の自分がホントのように思えてくる。いや、そうあるべきだとさえ思える。

 いったい自分はなにをしてきたんだ。これまでなにをしようとしてきたんだ。すべては無意味だったのか。意味のない生き方。意味のない人生。これから先も、それがずっと続いていく。なにもできず、なにもならず、暗澹あんたんとしたものしか横たわっていない人生。それが彼には見えるようだった。

 六畳の、殺風景なアパートの部屋。そこでひとり。音はなく、訪ねてくる者とてひとりもいない。ガラス窓はくもり、白い壁には斜めにひび割れが走っている――。

 彼が望んだものは、そんなものではなかった。いまの自分を消して、小説の中の彼のようになりたいと思った。

 彼は、自棄になったように黒い本を手に取ると、ふたたび読みだした。読んでいくと苛立ちや絶望感は消え、ほんとうの彼が、活字の向こうからやってきた。そう、これが真実だ。

 彼の顔に安らかな笑みが広がった。

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