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黒い本  作者: 愛理 修
1/3

図書館

 彼が男に出会ったのは、図書館を出ようとした時だった。

 トートバッグの中には借りたばかりの本が三冊入っており、出版社からの落選通知を十日前にもらったせいで、気分は沈みがちだった。

 郵便受けに、それはぽつんと入っていた。

 

 このたびは当社の××新人賞にご応募いただき、まことにありがとうございました。厳正に選考しましたところ、残念ではありますが、今回は貴方様のご努力に報いることができませんでしたことを、ここにご報告申し上げます。どうぞお許しください。貴方様のこれからのご健闘をお祈りするとともに、今後とも××新人賞をなにとぞよろしくお願いいたします。


 公募に挑戦して十数年が経っている。慣れたとはいえ、落ちた知らせを読むと、やはりため息がこぼれた。


「失礼しますが、――さんでしょうか」

 男は名を呼んで、声をかけてきた。

 背の高い、黒いスーツを着た男だった。手にブリーフケースを提げ、隙のない身なりをしている。七三で撫でつけ、サイドを刈り上げた短めの髪は、ポマードでかためているのか、濡れたように光り、顎先のやや突きでた顔は、目も、眉も鼻も細い。

 図書館ではあまり見かけることのない、ビジネスマンふうの外見は目立っていた。そのくせ、スーツの色のせいか、暗がりのような、ぼんやりした雰囲気を男はまとっていた。

 怪訝そうな彼に、男は丁寧な物言いで接した。

「突然お呼び止めして申し訳ございません。幻夢舎げんむしゃという出版社の者です。幻の夢と書きます。それで――少しお時間をいただけませんでしょうか」

 出版社という言葉に彼は動揺した。出版社が自分にどういう話があるのかひどく興味をかきたてられた。しかしすぐに思った。耳にしたことはないが、幻夢舎は自費出版を専門にしている会社だろうと。これまでいろんなところに応募している。そこから情報が流れたのだ。

 がっかりした。

「すみません。自費出版をするつもりはありません。それに、そんなお金もないんです。ほかを当たってください」

 トートバッグを胸に抱えて苦笑すると、男は、唇の両端にかすかな笑みを浮かべた。

「自費出版の案内ではありませんので、どうぞご安心ください。それになにかを売りつけようとする気もありませんなら、小説家スクールの加入の勧めでもございません。――よろしかったら、話を聞いていただけませんか。ここではなんでしょうから、あちらで」

 男はそう言うと、率先するようにして彼を、図書館の入り口を出てすぐの、ロビーふうの休憩所へと誘導した。

 観葉植物の傍らの一人掛けの椅子に彼と男は、対面する形でそれぞれ腰をおろした。冬の日差しが、ガラス張りになった壁面から注ぎ、屋外は寒いが、暖房の利いたそこは、ぬるま湯につかっているような温かさだった。

「さっそくですが、お話というのはこのことです」

 男は、膝にのせたブリーフケースから、黒い装丁の本を一冊取り出して手渡した。ふっと、ポマードかオーデコロンの甘い匂いが漂う。

 本を手にした瞬間、彼はずっしりとした重みを感じた。しっかりとした装丁である。厚みは三センチほどで、革製かもしれなかった。愛蔵版、豪華版という造りだ。しかし、タイトルも著者名もなければ、装飾がほどこされているわけでもなく、色が黒というだけで、のっぺりとしていた。書店で売っている単行本よりやや大きめだ。

 両手に持ち、角度を変えて本を眺めていると、男が言った。

「まだ見本の段階ですのでタイトルは入っておりません。本革でなく合皮です。実際の装丁をどうするかは、今後のことになります」

 なんの話なのか、さっぱりわからなかった。

「あのう……どういうことでしょう。この本がなにか僕に……」

 男は、にっこりと笑んだ。

「まずはお読みください。具体的なお話はそれからになります」

 ますます戸惑うばかりだ。

「深く考えられる必要はございません。私どもは、この本をあなたにお預けするだけのことです。お読みになるかどうかはあなたのご自由です。もしお読みいただけましたら、そのあとでご提案を差し上げることになります。そのご提案をどうされるかも、あなたのご自由です。おわかりいただけますか」

「読んでみればいいということですか」

 男は細い目を、いっそう細めてうなずくと、親しげに尋ねてきた。

「見本ではありますが、手にした感触はいかがです?」

「りっぱな本という感じですね。アンティーク調で贅沢な造りです」

「お気に召していただけていますか?」

「いや、そういうわけでは……」

 本の表紙を掌で撫でると、なめらかな手触りがした。それから彼は本を開こうとした。

 チッチッと、男が舌打ちしてそんな彼を制した。

「お帰りになってからお読みになられたほうがよろしいかと存じます。ここでお読みになるのは、お勧めできません」

 慌てて表紙をそのまま閉じると、男は満足そうな表情を見せた。

「そうです。そうされるのがベストです。私どもとしましては、最良の状態であなたにお読みいただきたいのです。ご理解ください」

 一週間後に、ここでふたたび会うことを取り決めすると、用事はすんだとばかりに、男はブリーフケースを手にすっと立ち上がった。

「私はこれで失礼させていただきます」男は上体を折り、座っている彼を、首を伸ばして上から覗き込むようにした。甘い匂いが強くなる。「つぎにお会いする日が、いまから楽しみです。その本が、必ずやご満足いただけることに、私どもは絶大な自信を持っております。お読みになったあとにご提案を差し出しますが、それがあなたにとって、またとない転機になることは間違いございません」

 男は軽く頭を下げると、靴音を響かせて立ち去っていった。

 彼は椅子に座ったまま男を見送り、男の姿が見えなくなると大きく息をついた。

 なにがなんだかさっぱりだった。いまになって、男から名刺一枚もらっていないことに気づいた。幻夢舎という出版社の名前しかわかっていない。その名にしても、聞いたことがないものだった。男のペースに乗せられ、完全に自分を見失ってしまっていた。

 膝の上の黒い本を見つめた。本の重みは確かに、実感として伝わっている。この本がなかったら、男と会ったことが、ほんとうに起こったとは思えないような気がした。まるで夢を見ていたかのようだ。

 観葉植物を彼は見た。それからガラス越しに外を見る。夢でなく、現実がそこにあった。鼻をひくひくさせると、甘い残り香がする。観葉植物はそこにあり、男もそれと同じように、いままでここにいたのだった。

 この本に、どういう内容が書かれているのか、彼はすでに気になっていた。必ず満足させるとはいったいどういうことだ。読み終えてからの提案とはなんなのか。

 その反面、なにかひどい詐欺に引っかかったのではないかという不安もある。それでも、この本に対する興味を押さえつけることはできそうになかった。

 図書館で借りた本と一緒にトートバッグにその黒い本を突っ込むと、彼は立ち上がって帰路についた。


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