雪の中の微笑
一週間後、彼は図書館前の休憩所の椅子に腰かけていた。
だいぶ前から座っている。待ち合わせの時刻より、ずっと前からだった。
ガラス張りの壁面の外では、雪が舞っていた。白い粉雪である。予報でも今日は雪となっていた。アパートを出るころから雪は降りだしていた。雪片がガラスに当たっては、解けて滴となり、下のほうへと水の線を引いていた。
寒さのせいか、図書館を行き来する人は少なかった。二階部分までが吹き抜けとなった休憩所は、がらんとしている。
この一週間というもの、彼は黒い本に翻弄されていた。喜びと苦痛、歓喜と絶望、喜悦と悲しみ。相反するそれらの間で、絶えず振り子のようにゆれていた。黒い本を読んでいる間は喜びに満ちあふれ、読了したあとは虚しさにうちひしがれ、それから逃げるように、ふたたび本を開く。そんな毎日だった。麻薬かアルコールの中毒者になったように、彼は黒い本を渇望した。効果が切れると、彼はどうしようもなく黒い本を開いていた。このままではいけないとわかっていても、止めることはできなかった。燃やそうと何度も思った。しかしできなかった。それをしてしまえば、自分がどうなってしまうのかわからなくなりそうだった。
バイト先ではミスばかりだった。どれもつまらないミスで、店長からは怒られるより心配される始末であった。昨夜はとうとう、二、三日休めと言われてしまっていた。黒い本のことは誰にも話していない。そんな本ではない。ありえる本ではないのだ。これを書いたのが誰か――彼はすでにわかっている気がしていた。
その人の願いや夢が、すべて書かれた本がこの世にはあるという都市伝説を耳にしたことがある。ただ、それを読んだ人が、その後どうなったかを伝説は伝えていない。
がらんとした空間に靴音がし、男はやってきた。そこが指定席であるかのように、彼の正面に座る。黒いスーツもブリーフケースも、なにひとつ変わっていない。甘い香りが漂う。
「いかかでしたか」男のほうから言ってきた。
彼は脇に置いたトートバッグから黒い本を取り出すと、男に差し出した。手に取った男は、本をしげしげと見つめ、それから彼のほうへと顔を向けた。
「どうやら、ご満足いただけたようですね」
男の顔に笑みが浮かび、彼はなにも言わなかった。
「お読みになられたのでしたら、この本がどういう内容で、誰の作品であるかのご説明は不要でございますね」
彼がうなずくと、男は先を続けた。
「では、ご満足いただけたということで、話を進めさせていただきます」
男は背筋を伸ばし、姿勢を正して切り出した。
「最初にお断りしておきますが、あなたに与えられるチャンスは、一度かぎりです。二度とこのような機会はございませんことを、まずはご了承ください。よろしいですか」
男のやや強い口調に、しっかりとうなずいてみせた。
「それでは、私どもの一度きりのご提案を差し上げます」男の細い目が彼をじっと見つめた。「この本に描かれているあなたの人生と、これまでのあなたの人生を、チェンジされるつもりはございませんか」
絶句した。男の提案をいろいろ想像していたものの、そんな突拍子もないことが出てくるとは思ってもみなかった。
額に手をやり、それからその手を唇にもっていき、静かに膝の上におろした。手は震えていた。ようやく口を開けるようになった。
「いままでの人生と本の人生を、交換するのですか」
「その通りです」今度は男がうなずいた。「この提案を受け入れていただければ、あなたはこれから先、本の中で生きることになります。この素晴らしい物語の主人公としてですね。物語に命が与えられ、あなたの本は完全なものとなるのです」
「そんなことしたら、こ、ここにいる僕はどうなるんです」
「本の中で生きるあなたに、いまのあなたは不要です。当然、いまのあなたはなくなります」
「なくなる……」
男は首をゆるやかに左右に動かした。
「なにも心配されることはございません。ただなくなるだけのことです。あなたの存在も痕跡も、いまいるこの場所からすべて消えてしまいます。あなたは最初からいなかったことになるわけです。そして、本の中で生きることになります」
男は黒い本を、指の腹でやさしく叩いた。
「それがどんなに素晴らしいことかおわかりになりますか。これまでのあなたの人生を捨て去り、輝かしい人生があるのです。この本の主人公となったあなたは、人から愛され、物語の中心となって生きられることになります。みながこの本を読んでは、あなたのことを語るようになり、あなたのことを心に刻むことになります。それになにより、本にはあなたの望まれていたことのすべてがあります。あなたが思い、願っていたもののすべてがです。その世界であなたは生きるのです。この本は、ほんとうの、本来あるべきあなた自身です。そのことは、あなたが一番おわかりのはずです」
そんなことができるわけがないと彼は思っていた。いまの人生と、本での人生を交換するなんて。しかし、それができることを彼は確信していた。男の言葉に嘘はない。彼が受け入れさえすれば。
彼は尋ねた。
「これまでにも、交換した人はいるのですか」
「プライバシーが関わりますので詳しいことはお話しできませんが、どなたでもご存じの、名立たる本の、いくつかはわたしどもの手によるものです。もちろん、一般的にはこのことは知られておりません」
チェンジ、交換という言葉が彼の頭の中で渦巻いていた。いまの自分をなくし、本の中で生きる。それは甘美なまでに彼の心に浸透した。想像しただけでも、誘惑に満ちていた。本で語られた物語は、確かに彼の望んでいたものだ。彼が夢見、創造したものであった。彼がそうありたい、いつかそうなりたいと一途に求めたものだった。そこで生きることができるのだ。いまの人生を捨てて。
いままでの自分の人生が、目の前に鮮明に浮かび上がった。惨めだけで、なにもない人生。幸せの薄い、悔やんでばかりの人生。未来が閉ざされた、寒々とした六畳のアパートでの人生。
情けなかった。そんな生活や自分が、いやでいやでたまらなかった。望んでも、追い求めても、これまでなにも得ることはできなかった。成功したやつはいいさ。でも、いくらやってもダメな奴はどうすればいいんだ。失意だけの人生を送るしかないのか。
チェンジ。それがいまできるのだ。僕の望んだものがそこにはあった。そして、本の中で生きたら、いまの僕はなくなる……。なくなる……。
思いが込み上げ、彼は両手を握りしめ下唇を噛んだ。鼻の奥がツーンとしてきた。
「いかがです」男が言った。「あなたが望み、承諾してくださりさえすれば、チェンジできるのです。それが私どものあなたへのご提案です。いますぐにお決めになる必要はございません。猶予がまだございます。三日後にここでまた、ということでいかがでしょう。その時に、ご返事をお聞かせください」
黒い本をブリーフケースにしまうと、男はゆっくりと立ち上がった。甘い香りが立ちのぼる。
「待ってください!」彼は大声を上げた。
怪訝そうに眉をひそめた男に、彼は早口で言いつのった。
「いまここで返事をします。お断りします。この話はなかったことにします」
彼は男のほうを見てはおらず、両手はまだ握りしめられ、両肩が微動していた。そうなっていることを、彼は知っていた。
「よろしいのですか。いまここで決められる必要はないんですよ」
男の声がやや遠のいた。
「いいんです。いまのが僕の返事です。お断りします。いまこの場でそう返事しないと、自分がどうなってしまうかわからないんです。三日間も、僕は耐えられません。怖いんです」
これまでの自分をなくすことなど、彼にはできなかった。大切だった。それがたとえ、人に蔑まれるような生き方、負け犬のような生き方だったとしてもだ。
長い間があり、男が言った。
「チェンジは望まない――。最初に申し上げましたように、これは一度だけのものです。二度とこの機会があなたに与えられることはございません。それでも――よろしいのですね」
彼は顔を上げて、男のほうへ目を向けた。
「ええ」
男の口から、残念そうなため息がこぼれた。
「わかりました。ただ、いま一度、私のほうから個人的なご忠告をさせてもらいますが。この先、あなたが一度として認められることはございません。報われることもなく、失意の日々が綿々と続くだけです。あなたに残された人生は、こう申し上げてはなんですが、惨めさと悲しみだけです」
男は言葉を切って彼を見つめた。
「あなたには、才能と運がないんですよ」
彼は微笑んだ。目からは涙がにじんだ。言われなくても覚悟していた。
「ええ」
彼の返事を聞いて、男はゆっくりと首を横に振った。
「そうですか。そこまで仰られるのでしたら、私のほうからはなにもございません。それでは私はこれで。二度と私が、あなたの前に現われることはございません。では」
「ありがとうございました」唐突に彼は言った。「ひとときでも夢を見させていただいて」
軽く頭を下げかけていた男は、驚いたような表情をし、口を開きかけたものの、一旦そのまま言葉を呑み込んだ。そして、ガラス越しの戸外へと目をやった。
「雪がひどくなってまいりました。お帰りの際は、お気をつけください」
粉雪はいつのまにか牡丹雪と変わり、積もりだしていた。
男は踵を返すと、きた時と同じように靴音を響かせて去って行った。靴音がやんだ。
彼はじっとしていた。椅子に座ったままじっとしていた。あったのは喪失感のみだった。すべてを失った気がする。彼が望んだものは、手の届かないところへいってしまっていた。二度と機会が訪れることはない。またとないチャンスを逃してしまったのかもしれない。いまになって、そう思えたりもする。誰かに聞いてみたかった。あなたならどうしたかと。
彼はトートバッグを手に椅子から立ち上ると、帰路へ着いた。
外は、牡丹雪がとめどなくふっていた。視界は白く染まっていた。雪が、彼の頭に、肩にふりかかる。傘をもってくればよかった。そう思った。いつもこうだ。内と違い、外は冷え切っていた。
なにもかも、白い雪が覆い尽くしていく。希望のない人生が彼の前には広がっていた。これまでと同じように生きていくしかない。それを選んだのだ。背を丸め、雪に足をすべらせないように彼は歩いた。積もりそうだった。
ふりしきる雪を見るうちに、彼はふっと微笑んだ。書き続けるしかないのだ。それは、白い奈落の底に落ちた者の微笑みだった。すべてを失くし、絶望しかないにしても、書き続けることはできる。そうするかぎり、微笑むこともできる。失意の人生を経て、最後にそうやって微笑むことができるだろうか。彼はそれを思い浮かべながら、雪ふる道を歩いた。
すべてが白くなっていく。
白一色になるまで、雪はやみそうになかった。




