第一話 新しい未来
朝の柔らかな陽射しが、寝室を静かに照らしていた。
小鳥のさえずりが窓の外から聞こえてくる。
昨日と変わらない朝。
それなのに、リシェルが目を覚ました瞬間、胸に浮かんだのは婚約破棄の場面ではなかった。
ゆっくりと身体を起こし、視線を少しだけ斜め上へ向ける。
【本日 母とお茶を飲みます】
自分の付箋は、いつものように静かに浮かんでいた。
昨日の未来は終わった。
新しい今日が、始まっている。
それでも、心に残って離れないものがある。
――【14日後 破産します】
セドリックの新しい付箋。
そして、もう一枚。
――【裏切られます】
ミレーユの付箋。
婚約破棄の瞬間よりも、その二枚の文字の方が、鮮明に思い出される。
「あの未来は……何を意味しているの。」
小さく呟いた声は、静かな部屋へ溶けていった。
セドリックは、望んだ未来を選んだはずだった。
ミレーユもまた、真実の愛を信じて疑わなかった。
それなのに――。
二人の未来は、幸せとは思えないものへ書き換えられていた。
付箋は、嘘をつかない。
けれど、その意味を理解できるとは限らない。
そのことを、リシェルは昨日改めて思い知らされた。
コンコン――。
控えめなノックが部屋に響く。
「お嬢様、お目覚めでいらっしゃいますか。」
「ええ、起きているわ。」
「失礼いたします。」
扉が静かに開き、マリアが銀の盆を手に入室した。
「おはようございます、お嬢様。」
「おはよう、マリア。」
柔らかな朝日を受けながら、マリアは窓辺へ歩み寄り、カーテンを静かに開く。
爽やかな春風が部屋へ流れ込み、花の香りをそっと運んできた。
リシェルはいつものように、自然とマリアの頭上へ視線を向ける。
【本日 お嬢様を笑顔にします】
「……。」
思わず、目を瞬く。
昨日までの重たい付箋とは違う。
その一枚は、春の日差しのように優しく、温かな未来だった。
「どうかなさいましたか?」
不思議そうに首をかしげるマリアに、リシェルははっと我に返る。
「ううん、何でもないわ。」
そう言って微笑むと、マリアも安心したように微笑み返した。
その笑顔を見つめながら、リシェルは胸の奥でそっと思う。
付箋には、その人が歩もうとしている未来が映る。
セドリックには、破産という未来が。
ミレーユには、裏切られるという未来が。
そしてマリアには――誰かを笑顔にする未来が。
同じ付箋でも、そこに書かれる未来は、人それぞれなのだ。
「本日のお召し物をご用意しております。」
マリアは、穏やかな口調でそう告げる。
「ありがとう。」
リシェルは静かに頷き、寝台から立ち上がった。
昨日とは違う朝。
けれど、自分の周りには変わらず支えてくれる人がいる。
そのことが、少しだけ心を軽くしてくれた。
身支度を整えたリシェルは、マリアとともに食堂へ向かった。
大きな窓から差し込む朝の光が、食卓をやさしく照らしている。
「おはよう、リシェル。」
父が新聞から顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「おはようございます、お父様、お母様。」
リシェルは優雅にカーテシーを披露し、席へ着く。
母は娘の表情をそっと見つめ、小さく目を細めた。
「昨夜はよく眠れた?」
「ええ、おかげさまで。」
その返事に、母はほっとしたように微笑む。
父も安心したように、頷いた。
「今日は、無理をしなくていい。ゆっくり過ごしなさい。」
「ありがとうございます。」
温かなスープから立ち上る湯気を眺めながら、リシェルは静かにパンを口へ運ぶ。
食卓には、いつもと変わらない穏やかな時間が流れていた。
その穏やかさが、昨日までの自分なら救いだっただろう。
けれど今、心を占めているのは別のことだった。
――【14日後 破産します】
――【裏切られます】
あの二枚の付箋が、何度も脳裏によみがえる。
付箋の未来は、まだ一度もはずれたことがない。
だとしたら、あの未来も現実になるのだろうか。
朝食を終え、父が席を立とうとした時だった。
「お父様。」
リシェルは、静かに声を掛ける。
「少しお願いがございます。」
父は足を止め、娘へ穏やかな視線を向けた。
「どうした?」
「今日、王都へ出てもよろしいでしょうか。」
一瞬だけ、母が驚いたように目を瞬く。
だが次の瞬間には、優しい笑みを浮かべていた。
父も静かに頷く。
「もちろん、構わない。」
その言葉に、リシェルは小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。」
父はそれ以上、理由を尋ねなかった。
娘を信じているから。
その信頼が、リシェルには何よりも心強かった。
私は知りたい。
付箋は、なぜ書き換わるのか。
未来は、本当に変えられるのか。
その答えを、見つけるために――。
リシェルは静かに顔を上げた。
昨日までとは違う一歩を、自分の意思で踏み出そうとしていた。




