第七話 終わりの始まり
馬車が、ゆっくりと速度を落とした。
窓の外には、淡い陽射しを受けた庭園が広がっている。
季節の花々が色鮮やかに咲き誇り、噴水からは絶え間なく水音が響いていた。
春の穏やかな空気に包まれたその場所は、婚約者同士が語らうには、これ以上ないほど相応しい景色だった。
「お嬢様、到着いたしました。」
御者の落ち着いた声が聞こえる。
ほどなくして、馬車の扉が開かれ、護衛が胸へ手を添えて一礼した。
「足元に、お気を付けください。」
「ありがとう。」
リシェルは差し出された手を借り、ゆっくりと馬車を降りる。
春風が、白い花の髪飾りを優しく揺らした。
約束の場所には、まだ誰の姿もない。
庭園の中央には東屋が建ち、その周囲には白い薔薇が美しく咲き誇っている。
「少々、早く着いてしまいましたね。」
護衛が、穏やかに言う。
「ええ…。」
リシェルは小さく頷いた。
待つ時間は、嫌いではない。
けれど、今日だけは違った。
静かな庭園に立っているだけで、胸の鼓動が少しずつ速くなっていく。
無意識に、視線を少しだけ上へ向ける。
【本日 婚約者と会います】
付箋は変わらない。
今日という未来は、まだ終わっていない。
リシェルはゆっくりと息を吐き、庭園へ視線を巡らせた。
花壇の手入れをしている庭師。
遠くで、談笑する使用人たち。
誰の頭上にも、白い付箋が静かに揺れている。
それが、この世界の当たり前。
けれど、その当たり前が崩れる瞬間を、リシェルは知ってしまっている。
七日前。
初めて見た、婚約者の未来。
【7日後 婚約破棄します】
あの文字は、一日ずつ現実へ近づいてきた。
そして今、その七日目を迎えている。
「……未来は、変えられる。」
小さく呟く。
それは、祈りではない。
願いでもない。
七日間、自分に言い聞かせ続けてきた言葉だった。
本当に変えられるのなら、今日という未来も、まだ――。
その時だった。
庭園の入口に、人影が現れる。
陽光を背に、一人の青年がゆっくりとこちらへ歩いてくる。
見慣れた金色の髪。
端正な面立ち。
侯爵家次男――セドリック・ランベール。
リシェルは息を整え、静かにスカートの裾を摘まむ。
婚約者を迎えるため、優雅なカーテシーを披露した。
「ごきげんよう、セドリック様。」
穏やかな挨拶。
いつもと変わらない、その一言。
けれど、リシェルの胸には、誰にも見えない緊張が静かに広がっていた。
セドリックは歩みを止めると、リシェルへ穏やかな笑みを向けた。
「ごきげんよう、リシェル。」
いつもと変わらない声音。
いつもと変わらない微笑み。
それなのに、リシェルの胸は静かに締め付けられていた。
「ごきげんよう。」
カーテシーを終え、ゆっくりと顔を上げる。
その瞬間、視線は自然とセドリックの頭上へ向かった。
【本日 婚約破棄します】
白い付箋は、何一つ変わっていない。
七日前に見た未来が、今も静かにそこへ浮かんでいた。
「待たせてしまったかな。」
「いいえ。私も、今しがた到着したところです。」
穏やかな受け答え。
互いの表情だけを見れば、いつもの婚約者同士だった。
護衛たちは少し距離を取り、東屋の外で静かに控えている。
二人だけの時間。
庭園には春風が吹き抜け、白薔薇がやさしく揺れた。
「その髪飾り……。」
セドリックが、ふと目を細める。
「初めて見るね。」
リシェルは、髪へそっと手を添えた。
「侍女のマリアが選んでくれたのです。」
「そうか。」
短く頷く。
「よく似合っている。」
その言葉に、リシェルは小さく微笑んだ。
「ありがとうございます。」
胸の奥が、少しだけ痛む。
もし付箋を見ていなければ、その一言だけで十分に嬉しかっただろう。
けれど、今は素直に喜ぶことができない。
目の前の彼は笑っている。
優しい言葉も掛けてくれる。
それなのに、その頭上には。
【本日 婚約破棄します】
残酷なほど、淡々とした未来だけが浮かんでいた。
「今日は天気がいい。」
セドリックが、庭園へ目を向ける。
「ええ。」
「春になると、この庭園は一段と美しいね。」
「私も好きです。」
会話は続いている。
けれど、どこか噛み合わない。
互いに言葉を交わしているのに、心だけが少しずつ離れていくような感覚。
リシェルは、静かに息を吸った。
――未来は変えられる。
その言葉を、胸の中でそっと繰り返す。
七日間、何度も自分へ言い聞かせてきた。
だから今日も、最後まで信じたい。
たとえ、付箋が正しかったとしても、未来はまだ、終わっていないのだから。
その時だった。
セドリックが、それまで穏やかだった表情を静かに引き締める。
「……リシェル。」
呼ばれた声は、いつもより少しだけ低かった。
その声音だけで、空気が変わる。
春風が吹き抜ける庭園は、変わらず穏やかなのに、二人の間だけが静かに張り詰めていく。
リシェルは、まっすぐにセドリックを見つめ返した。
「はい。」
その一言を境に、七日前から見え続けていた未来が、ゆっくりと現実になろうとしていた。
「……リシェル。」
セドリックは静かに名を呼ぶと、一度言葉を切り、小さく息をついた。
その横顔には、迷いの色が浮かんでいる。
「今日は、あなたにお話ししなければならないことがあります。」
やはり――。
リシェルは静かに頷いた。
「承っております。」
春風が東屋を吹き抜け、白薔薇がやさしく揺れる。
二人の間には、静かな沈黙だけが流れていた。
セドリックは視線を落とし、拳をそっと握りしめる。
覚悟を決めるように、ゆっくりと息を整えた。
そして、再びリシェルをまっすぐ見つめる。
「私は……。」
その声は、かすかに震えていた。
「君との婚約を、解消したいと思っています。」
穏やかな口調だった。
怒りもなければ、責める響きもない。
だからこそ、その言葉は静かに、そして深く胸へ落ちてくる。
リシェルは驚かなかった。
泣きもしない。
責めもしない。
ただ、静かにセドリックを見つめ返す。
「……理由を、お聞かせいただけますか。」
落ち着いた声だった。
その穏やかな反応に、セドリックはわずかに目を見開く。
動揺すると、思っていたのだろう。
引き止められると、考えていたのかもしれない。
しばらくの沈黙のあと、セドリックは苦しげに唇を結ぶ。
「君は、何も悪くない。」
その前置きが、かえって痛かった。
「だが、私は別の人を愛してしまった。」
その言葉とともに、春風が再び二人の間を吹き抜ける。
白い薔薇の花びらが、一枚、ふわりと舞い落ちた。
リシェルはそっと瞳を閉じる。
七日前。
初めて付箋を見た、あの朝。
【7日後 婚約破棄します】
その未来は、一日ずつ現実へ近づき、今、目の前で静かに形になった。
ゆっくりと瞳を開き、リシェルは穏やかに微笑む。
「……そうですか。」
その笑顔には、怒りも涙もなかった。
七日間かけて、覚悟を重ねてきた人だけが浮かべられる、静かな微笑みだった。
その表情を見たセドリックは、小さく息を呑む。
彼が思い描いていた別れとは、あまりにも違っていた。
セドリックは静かに息を吐いた。
その表情からは、張り詰めていた緊張が少しだけほどけたようにも見える。
「……ありがとう。」
その言葉に、リシェルは静かに首を横へ振った。
「感謝されることでは、ございません。」
穏やかな微笑みは崩さない。
けれど、その胸には確かな痛みが残っていた。
七日間かけて覚悟を決めても、別れはやはり悲しいものだった。
その時だった。
「セドリック様。」
東屋の外から、一人の女性が遠慮がちに声を掛ける。
淡い桃色のドレス。
陽の光を受けて輝く栗色の髪。
どこか不安そうに立ち尽くすその姿は、リシェルが思い描いていた「略奪者」とは少し違って見えた。
セドリックが振り返る。
「ミレーユ。」
その名を聞き、リシェルも静かに女性へ視線を向ける。
そして、いつものように頭上を見る。
白い付箋が、春風に揺れていた。
【真実の愛を信じて疑いません】
「……。」
思わず息を呑む。
悪意は、どこにも書かれていない。
ミレーユはリシェルを見ると、小さく肩を震わせ挑発するような視線もない。
ただ、自分が誰かを傷付けてしまったことだけは理解している。
それでも、セドリックへの想いだけは、曲げられなかったのだろう。
リシェルは、静かに二人を見つめる。
目の前にいるのは、自分から幸せを奪った人ではない。
それぞれが、それぞれの「正しい」と信じる未来を選んだ人たちだった。
だからこそ、その選択の先にある未来もまた、自分自身で受け止めなければならない。
「どうか、お幸せに。」
静かな祝福だった。
セドリックは何かを言おうとして唇を開く。
しかし言葉は続かず、小さく俯いた。
やがてミレーユの手を取り、ゆっくりと庭園の出口へ向かって歩き始める。
二人の背中が、少しずつ遠ざかっていく。
その時――。
ふわり、と。
セドリックの頭上の付箋が淡い光に包まれ、静かに消えた。
リシェルは、思わず目を見開く。
次の瞬間、新しい白い付箋が現れる。
【14日後 破産します】
「……!」
驚きが胸をよぎる間もなく、今度はミレーユの付箋も光に包まれた。
【真実の愛を信じて疑いません】
その文字が、ゆっくりと消えていく。
代わって現れた新しい付箋。
【裏切られます】
リシェルは息を呑んだまま、立ち尽くしていた。
婚約破棄は終わった。
それなのに、二人の未来は、幸せとはほど遠いものへ書き換えられていた。
春風が、白い花びらを舞い上げる。
その中を歩いていく二人の背中は、もう振り返ることはなかった。




