第六話 約束の日
夜明けを告げる小鳥のさえずりが、静かな部屋へ優しく響いていた。
淡い朝日がレースのカーテン越しに差し込み、寝台の上へ柔らかな光を落としている。
ゆっくりと瞼を開いたリシェルは、しばらく天井を見つめたまま、小さく息をついた。
今日は、その日だった。
七日前。
婚約者セドリックの頭上で見た、あの一枚の付箋。
【七日後 婚約破棄します】
あの日から何度も数えた未来が、ついに今日へたどり着いた。
リシェルは静かに身を起こし、視線を少しだけ上へ向ける。
自分の視界の斜め上。
そこには、今日も白い付箋が静かに浮かんでいた。
【本日 婚約者と会います】
未来は、もう目の前まで来ている。
不思議と涙は出なかった。
怖くないわけではない。
胸の奥は、静かに波立っている。
それでも、七日という時間が、少しずつ心へ覚悟を育ててくれたのだ。
コンコン――。
控えめなノックが部屋に響く。
「お嬢様、お目覚めでいらっしゃいますか。」
「ええ、起きているわ。」
返事をすると、扉が静かに開いた。
マリアが銀の盆を手に入室し、優雅に一礼する。
「おはようございます、お嬢様。」
「おはよう、マリア。」
朝の光を受けながら、マリアは窓辺へ歩み寄る。
慣れた手つきでカーテンを開くと、爽やかな春風が部屋へ流れ込んだ。
庭では、季節の花々が朝露にきらめき、遠くで庭師たちが仕事を始めている。
「とても、気持ちの良い朝でございますね。」
「ええ、本当に。」
リシェルは微笑みながら頷いた。
その視線は、自然とマリアの頭上へ向かう。
【本日 お嬢様を笑顔で送り出します】
また、小さく笑みがこぼれる。
付箋を見ることは、もう驚くような出来事ではなかった。
人と目が合う、その少し前に頭上を見る。
それが、今のリシェルにとって、ごく自然な習慣になっていた。
「本日のお召し物を、ご用意しております。」
マリアは衣装を整えながら、小さな箱を手に取る。
蓋を開けば、中には白い花の髪飾りが静かに横たわっていた。
「こちらに、なさいますか。」
「ええ。」
リシェルは、迷うことなく頷く。
「今日は、この花を。」
「かしこまりました。」
嬉しそうに微笑んだマリアは、蜂蜜色の髪を丁寧に結い上げ始めた。
櫛が通るたび、朝日を受けた髪が柔らかく輝く。
最後に、白い花をそっと髪へ添える。
「お仕度が整いました。」
鏡の中には、白い花を飾った伯爵令嬢の姿が映っていた。
その姿を見つめながら、リシェルはもう一度だけ、自分の視界の斜め上へ目を向ける。
【本日 婚約者と会います】
鏡には映らない。
誰にも見えない。
未来だけが、静かにそこにあった。
マリアは鏡台の上を静かに整えると、満足そうに微笑んだ。
「本日も、とてもお似合いでございます。」
「ありがとう。」
リシェルは小さく頷き、もう一度だけ、鏡の中の自分を見つめる。
白い花の髪飾り。
蜂蜜色の髪。
落ち着いた翡翠色の瞳。
どれも、昨日までと変わらない。
変わったのは、自分の心だけだった。
「旦那様と奥様がお待ちでございます。」
「ええ。」
マリアに続き、リシェルは部屋を後にする。
広い廊下には、朝の陽射しが差し込み、磨き上げられた床が淡く輝いていた。
すれ違う使用人たちは立ち止まり、恭しく一礼する。
「おはようございます、お嬢様。」
「おはよう。」
そのたびに、リシェルの視線は自然と頭上へ向かった。
【昼過ぎ 厨房を手伝います】
【午後 庭木の手入れをします】
【夕方 妹へ手紙を書きます】
どれも穏やかな未来。
屋敷の中は、今日もいつも通り動いている。
だからこそ、自分だけが別の時間を歩いているような、不思議な感覚があった。
食堂へ入ると、父と母が穏やかな笑顔で迎えてくれる。
「おはよう、リシェル。」
「おはようございます、お父様、お母様。」
リシェルは優雅に膝を折り、朝の挨拶を交わした。
「さあ、席へ。」
父に促され、静かに椅子へ腰を下ろす。
銀食器が朝日を受けてきらりと輝き、焼きたてのパンの香りが食堂いっぱいに広がっていた。
母はリシェルの姿を見るなり、ふっと目を細める。
「その髪飾り、本当によく似合っているわ。」
「ありがとうございます。マリアが選んでくれました。」
「白い花は、お前によく似合う。」
父も穏やかに頷いた。
その何気ない一言に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
この時間が、ずっと続けばいいのに――。
そんな願いが、一瞬だけ頭をよぎった。
けれど、リシェルはそっと自分の視界の斜め上を見る。
【本日 婚約者と会います】
未来は、静かに変わることなくそこにあった。
朝食が始まる。
パンを口に運び、温かなスープを飲みながら、父は今日の予定を穏やかに話している。
母も相槌を打ち、ときおりリシェルへ微笑みかける。
いつもと変わらない朝。
その穏やかさが、かえって胸を締めつけた。
朝食を終え、食後のお茶を飲み終えると、父がゆっくりと席を立った。
「では、私は書斎へ戻るとしよう。」
「お仕事、お気をつけて。」
母が穏やかに微笑む。
父はリシェルへ視線を向け、小さく頷いた。
「気を付けて、行っておいで。」
「はい、お父様。」
リシェルは椅子から立ち上がり、優雅にカーテシーを披露する。
父も穏やかな笑みを返し、食堂を後にした。
「私も少し庭を見てまいります。」
母も立ち上がる。
リシェルの前まで歩み寄ると、白い花の髪飾りへそっと目を細めた。
「やっぱり、とてもよく似合っているわ。」
その言葉に、リシェルも自然と笑みがこぼれる。
「ありがとうございます、お母様。」
母は娘の頬へ、優しく手を添えた。
「あなたなら、大丈夫。」
たったそれだけ。
けれど、その一言は不思議なくらい胸へ染み渡った。
「……はい。」
小さく頷く。
その返事を聞いて、安心したように、母は静かに部屋を後にした。
食堂には、束の間の静けさが訪れる。
リシェルは、窓の外へ視線を向けた。
青く澄み渡る空。
穏やかな春の日差し。
世界は今日も変わらない。
――変わるのは、私だけ。
「お嬢様。」
静かな足音とともに、マリアが食堂へ姿を見せる。
白い手袋を両手で、大切そうに捧げ持っていた。
「お出掛けのお支度が、整っております。」
「ありがとう。」
リシェルは、ゆっくりと立ち上がる。
マリアが手袋をはめるのを手伝い、袖口の乱れをそっと整えた。
「本日も、お気を付けて。」
その頭上には、白い付箋が静かに揺れている。
【本日 お嬢様の帰りを待っています】
リシェルはそっと微笑んだ。
「ええ、行ってきます。」
マリアへ微笑み返し、玄関ホールへ向かう。
大理石の床には朝の光が差し込み、開かれた扉の向こうでは伯爵家の馬車が静かに待機していた。
御者が恭しく頭を下げる。
護衛の騎士も胸へ手を添え、敬礼を送る。
「お待ちしておりました、お嬢様。」
リシェルは静かに頷き、馬車へ乗り込む。
扉が閉まり、車輪がゆっくりと動き始めた。
窓の外では、屋敷の門が少しずつ遠ざかっていく。
リシェルは無意識に、自分の視界の斜め上へ目を向けた。
【本日 婚約者と会います】
その文字は、変わらない。
まるで未来が、静かにその時を待っているかのようだった。




