第五話 レオン・ヴァルフォード
翌朝。
窓から差し込む朝日が、部屋をやわらかな光で満たしていた。
鏡の前でマリアに身支度を整えてもらい、最後に白い花の髪飾りがそっと髪へ添えられる。
鏡に映る自分を見つめながら、静かに視線を少しだけ上へ向けた。
【本日 客人と会います】
今日も付箋は変わらず、そこに浮かんでいる。
昨日までなら、不思議だと感じていた光景。
けれど今では、朝の身支度の一つになりつつあった。
「お嬢様。」
支度を整えてくれたマリアが、片付けを終えると声をかける。
「お支度が整い次第、旦那様がお呼びでございます。そろそろ、お客様がお見えになります。」
「ありがとう。」
リシェルは自然と、マリアの頭上へ目を向ける。
【本日 焼き菓子を褒められます】
思わず頬が緩んだ。
「今日は何だか、良いことがありそうね。」
「そうでございましたら、嬉しいです。」
理由は分からないまま、マリアも柔らかく微笑む。
その笑顔につられるように、リシェルも笑みを返した。
応接室の扉が、静かに開かれる。
父と向かい合って座っていた男性が、リシェルの姿に気付き、ゆっくりと立ち上がった。
三十代半ばほど。
落ち着いた紺色の文官服を端正に着こなし、柔らかな茶色の髪が、朝日を受けて穏やかに輝いている。
切れ長の瞳には、聡明さが宿っていたが、その眼差しは驚くほど温かかった。
「紹介しよう。」
父が穏やかに口を開く。
「王宮文官のエルネスト・ルヴァン殿だ。」
リシェルはスカートの両脇をそっと摘み、優雅にカーテシーを披露する。
「初めまして。リシェル・アストレアと申します。」
エルネストは胸へ右手を添え、騎士とは異なる文官らしい礼を返した。
「初めまして、リシェル様。エルネスト・ルヴァンと申します。
本日は、お目にかかることができ、光栄です。」
その穏やかな声に、自然と肩の力が抜ける。
威圧感は、まるでない。
それでいて、相手を安心させる不思議な空気をまとっていた。
リシェルは無意識に、視線を少しだけ上へ向ける。
【本日 新しい相談を受けます】
白い付箋が、静かに揺れていた。
やはりある。
昨日から、何人もの付箋を見てきた。
父も、母も。
マリアも。
そして、目の前のエルネストにも。
誰にでも未来はある。
――あの人を除いて。
昨日、王都で出会った騎士団長の姿が脳裏によみがえる。
何度見ても、付箋はなかった。
あれほど確かな違和感は、今も胸の奥から消えていない。
「リシェル?」
父の優しい声に呼ばれ、はっと我に返る。
「申し訳ございません、お父様。」
「いや、構わない。」
父は小さく笑みを浮かべ、エルネストへ視線を向けた。
「実は娘は、昨日初めて王都で騎士団長をお見かけしたそうでね。」
父の言葉に、リシェルの心臓が小さく跳ねた。
エルネストは穏やかに微笑み、静かに頷く。
「それは、レオン・ヴァルフォード殿でしょう。」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かが小さく動いた。
――レオン。
昨日まで「騎士団長」としか知らなかった人に、初めて名前が与えられる。
「侯爵家のご嫡男で、現在は王都騎士団の団長を務めておられます。」
落ち着いた口調だった。
誇張することもなく、淡々と紹介する。
それでも、その言葉には自然な敬意がにじんでいた。
「まだお若いのに、大役を任されていらっしゃるのですね。」
リシェルがそう言うと、エルネストは小さく笑みを浮かべる。
「真面目なお方ですから。」
その一言だけだった。
武勇伝も、華々しい功績も
語らない。
けれど、その短い言葉だけで十分だった。
信頼とは、きっとこういうふうに積み重なるものなのだろう。
父も穏やかに頷く。
「剣の腕はもちろんだが、人望も厚い。」
「部下をよく見ておられる方です。」
エルネストが続ける。
「先日も、訓練中に怪我をした若い騎士を、ご自身で医務室まで連れて行かれたそうですよ。」
「団長自ら、ですか?」
思わず問い返す。
「ええ。」
エルネストは、少しだけ目を細めた。
「ご本人は、特別なこととは思っておられないでしょうが。」
リシェルは、静かに紅茶へ視線を落とした。
--レオン・ヴァルフォード。
真面目で、部下思い。
誰からも、信頼される騎士団長。
その人物像は、少しずつ形になっていく。
それなのに、胸に残る疑問だけは、何一つ変わらなかった。
――どうして、あの人だけ付箋がなかったのだろう。
カップを持つ指先に、わずかに力が入る。
その様子に気付いたのか、エルネストが、穏やかな声で問い掛けた。
「何か、気になることでもございましたか?」
リシェルは、一瞬だけ言葉を失う。
もちろん、本当のことは言えない。
『付箋が見えないのです。』
そんな話をしても、信じてもらえるはずがない。
「……いえ。」
小さく微笑み、首を横へ振る。
「立派な方なのだと、思いまして。」
それは、嘘ではなかった。
けれど、本当の理由でもなかった。
エルネストは、それ以上尋ねることはせず、穏やかに微笑み返した。
その笑顔を見た瞬間、リシェルは不思議な安心感を覚える。
この人には、まだ何も話していない。
それなのに、どこかで――
『いつかなら』
そんな思いが、胸の奥をかすめた。




