第十二話 思いがけない応援
アストレア伯爵家に、セレーヌからの手紙が届いたのは、それから数日後のことだった。
リシェルは封を開き、丁寧に綴られた文字を目で追った。
先日の手紙への礼と、無事を喜ぶ言葉。そして、最近読んだ本や庭に咲き始めた花の話。
事件のことにはほとんど触れられていなかったが、その穏やかな文章に、リシェルはほっと胸をなで下ろした。
「セレーヌ様、お元気そうでよかったわ」
「お返事が届いたのですね」
傍らで茶器を整えていたマリアが微笑む。
「ええ。今度は私から、おすすめの本をお伝えしようかしら」
あの日、セレーヌが自分を助けようと追いかけてくれたことを、リシェルは忘れていなかった。
それからも二人は手紙を交わし、少しずつ互いのことを知るようになっていった。
まだ深い付き合いとは言えない。
けれど、手紙を読むたびに、二人の距離は確かに近づいていた。
数日後。
リシェルは、王都の書店を訪れていた。
以前注文していた本が入荷したとの知らせを受け、受け取りに来たのである。
そして、その傍らにはレオンがいた。
「本当に、ご一緒していただいてよろしかったのでしょうか」
「もちろんです。私も今日は時間が取れましたから」
レオンは穏やかに答えた。
事件以来、リシェルの外出には以前にも増して慎重な配慮がなされている。
レオンが同行を申し出たとき、リシェルの父も安心した様子で了承していた。
もっとも、リシェルには少し不思議だった。
騎士団長であるレオンが、わざわざ自分の本の受け取りに付き合ってくれるなんて。
「どのような本を注文されたのですか?」
「以前から気になっていた物語です。なかなか手に入らなくて…」
そう答えると、レオンは興味深そうに書棚へ目を向けた。
「リシェル嬢は、物語がお好きなのですね」
「ええ。知らない土地や、経験したことのない出来事を知ることができますから」
「なるほど。では、読み終えたら感想を聞かせていただけますか」
「もちろんです」
何気ない約束だった。
けれど、またレオンと話す機会ができたことが、リシェルには嬉しかった。
本を受け取って店を出ると、レオンが通りの向こうへ視線を向けた。
「少し休んでいきませんか。近くに落ち着いた店があります」
「まあ、よろしいのですか?」
「ええ。せっかくですから」
リシェルは微笑んだ。
「では、お言葉に甘えます」
案内されたカフェは、大きな窓から柔らかな光が差し込む、静かな店だった。
リシェルとレオンは窓際の席に向かい合って座り、マリアも同席した。
温かな紅茶と小さな焼き菓子が運ばれてくる。
「素敵なお店ですね」
「気に入っていただけたなら何よりです」
レオンはそう言って、わずかに表情を和らげた。
騎士団で見せる厳しい顔とは違う、穏やかな表情だった。
リシェルは、ふとあの日のことを思い出した。
それまで何も見えなかったレオンの頭上に、初めて付箋が現れた瞬間。
そして、今も彼の頭上には――。
【リシェルを守ります】
あの日と変わらない言葉が浮かんでいた。
――まだ、変わっていないのね。
なぜ、レオン様にだけ付箋が見えなかったのだろう。
そして、なぜあのとき、この言葉が現れたのだろう。
考えても、答えは出なかった。
「リシェル嬢?」
「……あ、はい」
「何か気になることでも?」
「いいえ。少し考え事をしていただけですわ」
レオンはそれ以上尋ねず、静かに紅茶へ手を伸ばした。
その時だった。
「まあ……リシェル様?」
聞き覚えのある声に振り返る。
そこには、侍女を伴ったセレーヌが立っていた。
「セレーヌ様!」
リシェルは思わず笑顔になった。
「こんなところでお会いできるなんて!」
「本当に。先日お手紙をいただいたばかりですのに」
セレーヌも嬉しそうに微笑んだ。
買い物の帰りに立ち寄ったのだという。
二人は文通で話題になった本や、互いの近況について言葉を交わした。
やがてセレーヌの視線が、リシェルの向かいへ向く。
「ヴァルフォード騎士団長も、ご一緒だったのですね」
「ええ。今日はリシェル嬢のお供をしています」
レオンが答える。
セレーヌは、向かい合って座る二人を見比べた。
以前なら、憧れの騎士団長を前にするだけで、胸が高鳴っていた。
けれど、今は不思議と穏やかな気持ちだった。
ローゼ商会の跡取りと話し、自分のこれからについて考えるようになった事。
そして、リシェルと手紙を交わし、その人柄に触れてきた事。
そうした日々の中で、少しずつ気持ちが変わっていたのかもしれない。
レオンがリシェルに向ける眼差しは優しく、リシェルもまた、彼の言葉に安心したように微笑んでいる。
――ああ、本当にお似合いのお二人だわ。
セレーヌの胸に、温かな気持ちが広がった。
かつて抱いていたのは、凛々しい騎士への憧れだったのだろう。
今はただ、二人に幸せになってほしい。
そう思えた。
その瞬間。
リシェルは、セレーヌの頭上に浮かぶ付箋が変化するのを見た。
【お二人を応援したくなります】
「……えっ?」
思わず声が漏れた。
「リシェル様?」
セレーヌが不思議そうに首を傾げる。
「い、いいえ。何でもありませんわ」
――お二人?
リシェルは、そっと向かいに座るレオンへ視線を向けた。
ちょうど目が合い、慌てて視線を逸らす。
――まさか、私とレオン様のこと?
急に頬が熱くなった。
「リシェル嬢、暑いですか?」
「だ、大丈夫です!」
思いのほか大きな声が出てしまい、リシェルは慌てて紅茶へ手を伸ばした。
セレーヌはそんな二人を見て、ますます嬉しそうに微笑んだ。
「それでは、リシェル様。またお手紙を書きますね」
「ええ。楽しみにしております」
セレーヌは別れの挨拶をすると、マリアにも顔を向けた。
「マリアさんも、お怪我が治ってよかったですわ。どうぞお身体を大切になさってね」
「ありがとうございます、セレーヌ様」
マリアは丁寧に頭を下げた。
セレーヌが侍女とともに席を離れると、マリアはそっとリシェルに声をかけた。
「お嬢様、私は馬車でお待ちしております」
「えっ? でも、マリア……」
「どうぞ、ごゆっくり」
にっこり微笑むと、マリアはレオンにも一礼し、店を出ていった。
残されたリシェルは、少し落ち着かない気持ちで紅茶のカップを見つめた。
店を出たところで、セレーヌはマリアに声をかけた。
「マリアさん、少しよろしいかしら?」
「はい、もちろんでございます」
セレーヌはカフェの窓を振り返った。
「リシェル様と騎士団長、とてもお似合いですわね」
マリアは一瞬目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
「……セレーヌ様も、そう思われますか?」
「ええ。お二人とも、まだお気付きではないようですけれど」
「そうなのです。私も、つい見守ってしまいます」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
「リシェル様には、ぜひ幸せになっていただきたいですわ」
「私も、心からそう願っております」
やがて、セレーヌはマリアに別れを告げ、侍女とともに馬車へ向かった。
馬車がゆっくりと走り始めた頃、向かいに座る侍女が口を開いた。
「お嬢様も、きっとお幸せになられます」
セレーヌは窓の外へ向けていた視線を戻した。
その表情が、ほんの一瞬だけ曇る。
父の事。
ローゼ商会の事。
そして、まだ明らかになっていない真実。
自分の未来がどうなるのか、今は分からない。
その時、ふと懐かしい声が蘇った。
――セレーヌは、きっと素敵な淑女になるね。
幼い日の庭園。
優しく微笑む年上の少年に、小さなセレーヌは胸を張って答えた。
『私、お兄様のお嫁さんになりたいの!』
少年は驚いたように目を見開き、それから少し困った顔をした。
『そうだね……いつか、そんな日が来たらいいね』
その笑顔が、少し寂しそうだった事を覚えている。
あの頃の自分には、理由が分からなかった。
遠縁の子爵家の次男だった彼と、伯爵令嬢である自分。
今なら、あの表情の意味が少しだけ分かる気がした。
「……ええ、そうね」
セレーヌは顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「私は私の幸せを、きっと見つけるわ」
そして、ふと思う。
――お兄様……。
最後に会ったのは、いつだったかしら。
確か、今は王宮で文官をされていると聞いたような気がする。
父の事が片付いたら、久しぶりにお会いしてみようかしら。
そんな考えが浮かび、セレーヌは自分でも少し驚いた。
ずっと忘れていたはずの、幼い日の約束。
けれど、その記憶は彼女の心を温かくしてくれた。
一方、カフェに残されたリシェルは、先ほどの付箋がどうしても頭から離れなかった。
【お二人を応援したくなります】
――どうして、セレーヌ様が……。
思わず向かいのレオンを見る。
すると、彼と目が合った。
「リシェル嬢」
「は、はい」
「今日は楽しかったですか?」
思いがけない問いに、リシェルは瞬きをした。
レオンは穏やかに続ける。
「本を受け取るだけのつもりが、少し長くお付き合いいただいてしまいましたから」
「そんなことありませんわ」
リシェルは首を横に振った。
「とても……楽しかったです」
それは、飾らない本心だった。
レオンの表情が、ふっと和らぐ。
「それなら、よかった」
その微笑みに、リシェルの胸が小さく跳ねた。
――どうしてかしら。
さっきまで、こんなふうではなかったのに。
セレーヌの付箋を見てから、レオンの何気ない言葉や表情が、妙に気になってしまう。
リシェルはそっと紅茶を口に運んだ。
窓の外では、午後の陽光が街並みを柔らかく照らしていた。
誰かが願う幸せ。
自分で選ぼうとする未来。
そして、まだ名前のつかない胸の高鳴り。
それぞれの想いが、少しずつ新しい未来へ向かって動き始めていた。




