第十一話 届かない真実
アストレア伯爵家の庭には、穏やかな午後の日差しが降り注いでいた。
リシェルは庭園のベンチに腰掛け、膝の上に開いた本を見つめていた。
けれど、先ほどから同じ頁を何度も読み返している。
――どうして、あの付箋が見えるようになったのかしら。
思い浮かぶのは、レオンの姿だった。
これまで彼の頭上には、どんなに目を凝らしても何も見えなかった。
それなのに、馬車から救い出されたあの日。
初めて現れた言葉。
【リシェルを守ります】
ほかの人々に見える付箋とは、どこか違う気がしていた。
そこには、自分の名前がある。
レオンが何を考えているのか、リシェルには分からない。
ただ、あの言葉を見るたびに、胸の奥が温かくなるのだった。
「お嬢様」
マリアの声に顔を上げる。
「お茶をお持ちしました。少し休まれてはいかがですか」
「ありがとう、マリア」
マリアは小さなテーブルに茶器を並べた。
王宮で足を痛めた彼女も、今はすっかり普段どおりに歩けるようになっている。
「お嬢様、最近はよくお庭にいらっしゃいますね」
「そうかしら」
「ええ。何か考え事でも?」
リシェルは曖昧に微笑んだ。
「少しだけね」
マリアはそれ以上尋ねず、紅茶を注いだ。
リシェルはカップを受け取りながら、ふと口を開いた。
「そういえば、あの日の茶会で……セレーヌ様はどうされているのかしら」
「グランディール伯爵令嬢ですか?」
「ええ。あの騒ぎの後、一度もお会いしていないでしょう?」
「そうですね。ですが、お嬢様を連れ去った者たちを追いかけてくださったと聞いております」
「……そうだったのね」
リシェルは目を見開いた。
あの日、テラスで何が起こったのか。
リシェル自身は、すべてを見ていたわけではない。
セレーヌが危険を顧みず追いかけてくれたと知り、胸が温かくなった。
「お礼を伝えたいわ」
「それでしたら、お手紙を書かれてはいかがでしょう」
「そうね。そうするわ」
リシェルは微笑んだ。
あの日の出来事を思い出すのは、まだ少し怖い。
けれど、心配してくれた人達の気持ちまで忘れたくはなかった。
王宮騎士団の執務室では、レオンが机に広げられた報告書に目を通していた。
「団長、こちらが馬車の手配に関する追加の報告です」
副団長ヴィクトルが書類を差し出した。
「ご苦労」
レオンは受け取り、目を走らせた。
誘拐に使われた馬車は、複数の仲介人を経て手配されていた。
依頼人の名前も、記録に残されていない。
「ずいぶん用心深いな」
「ええ。最初から追跡されることを想定していたのでしょう」
ヴィクトルは腕を組んだ。
「捕らえた男たちも、直接の依頼人を知らないと言っています」
「ならば、金の流れを調べるしかない」
レオンは書類を机に置いた。
「支払いを受けた者がいれば、必ずどこかに記録が残る」
「ノアにも確認させています」
「頼む」
ヴィクトルが退室すると、レオンは椅子の背にもたれた。
机の引き出しには、小さな包みがしまってある。
リシェルの髪飾りから落ちた、銀の勿忘草。
工房について調べてはみたものの、まだ修理を依頼するには至っていなかった。
なぜか、あの小さな花を手放すことにためらいがあった。
あの花を見つけたときのことを思い出す。
連れ去られたリシェルを捜していたとき、入り口付近で見つけた小さな銀色の花。
あれが彼女のものだと分かった瞬間、必ず見つけ出さなければと思った。
騎士として、守るべき人を救う。
それは当然のことだ。
けれど、リシェルが無事だったと分かったときの安堵は、これまで経験したものとは少し違っていた。
「……何を考えているんだ、私は」
レオンは小さく息を吐き、再び報告書へ目を戻した。
今は事件の解決が先だ。
一方、グランディール伯爵家では、セレーヌが一通の手紙を受け取っていた。
差出人は、リシェル・アストレア。
封を開くと、丁寧な文字が並んでいた。
無事に救出され、今は落ち着いて過ごしている事。
茶会で心配をかけてしまった事。
そして、自分を助けようとしてくれたことへの感謝。
セレーヌは最後まで読み終えると、そっと胸に手紙を当てた。
「……本当によかった」
改めて、そう思った。
もし、あの日リシェルが戻らなかったら。
考えるだけで、胸が苦しくなる。
自分が誘い出した事を、きっと一生悔やんでいただろう。
けれど、今は安堵しているだけではいられない。
父の書斎で見つけた書類。
ローゼ商会の跡取りが語った、偽りの証言。
そして、誘拐の馬車のそばにいた父の部下。
それぞれが、まだ一本の線にはつながっていない。
セレーヌは手紙を机に置いた。
――リシェル様に、すべてをお話しするべきかしら。
けれど、すぐに首を振った。
まだ確かなことは少ない。
何より、彼女を再び危険に巻き込むわけにはいかなかった。
セレーヌは便箋を取り出した。
まずは、無事を喜ぶ気持ちを伝えよう。
そして、いつか真実を明らかにできた時には。
自分の言葉で、すべてを話そう。
そう心に決め、ペンを取った。
その日の夕刻。
グランディール伯爵の書斎には、例の部下が訪れていた。
「ローゼ商会の方は、どうなっている」
「今のところ、変わった動きはございません」
「息子の方もか」
「はい。先日の顔合わせでも、お二人は親しげに話されていました」
「うむ。私も見ていた。セリーも、あの縁談に異存はなさそうだ」
「そのようでございます」
伯爵は満足そうに頷いた。
「ならばよい。あの縁談がまとまれば、商会との関係もさらに強くなる」
「おっしゃるとおりです」
男は頭を下げた。
「それより、騎士団の動きは?」
「馬車の手配について調べているようです」
伯爵の表情が険しくなる。
「……余計なところまで調べられては困るな」
「ご安心ください。すぐにこちらへたどり着くことはないでしょう」
男は落ち着いた声で答えた。
伯爵はしばらく考え込んだあと、低く告げた。
「引き続き、目を離すな」
「承知いたしました」
男は一礼し、書斎を後にした。
廊下に出ると、窓の外には夕闇が広がり始めていた。
王宮の騎士団は、まだ追っている。
けれど、どこまで近付いているのか。
それを確かめる必要があった。
男は足音を立てず、階段を下りていった。
その頃、リシェルは自室で一冊の本を閉じていた。
窓の向こうには、夕暮れの空が広がっている。
ふと、セレーヌへ送った手紙のことを思い出した。
――セレーヌ様、お元気でいらっしゃるかしら。
あの日の出来事を思い返しながら、リシェルは静かに窓の外を見つめた。
それぞれの胸に抱えた思いと、まだ明かされていない真実。
それらが少しずつ交わり始めていることを、リシェルはまだ知らなかった。




