第十話 自分で選ぶ未来
リシェル・アストレアが無事に救出された。
その知らせを聞いたとき、セレーヌ・グランディールは心から安堵した。
王宮の茶会で、父に頼まれるままリシェルをテラスへ誘った事。
突然の騒ぎの中、彼女が連れ去られてしまった事。
そして、必死に後を追った先で目にした、父の部下の姿。
あの日の光景は、今も鮮明に思い出せる。
リシェルが助かったことは、何より嬉しかった。
けれど、安堵したからといって、すべてを忘れられるわけではなかった。
――なぜ、あの人が誘拐犯と一緒にいたの?
幼い頃から父のそばで働いていた男だ。
見間違えるはずがない。
父に問いただしても、納得のいく答えは得られなかった。
それどころか、父は話を打ち切り、ローゼ商会との縁談を持ち出したのだ。
何かを隠している。
その疑念は、日を追うごとに強くなっていた。
そんなある日のことだった。
グランディール伯爵家の廊下を歩いていたセレーヌは、父の書斎から漏れる話し声に足を止めた。
「……あの件は、どうなっている」
父の声だった。
「ご心配には及びません。ローゼ商会の会頭も、今さらこちらに逆らうつもりはないでしょう」
続いて聞こえた男の声に、セレーヌの背筋が冷たくなった。
あの部下だ。
「会頭はともかく、息子の方はどうだ」
「今のところ、以前の証言について口を開く様子はありません」
「ならばいい。余計なことを話されては困る」
セレーヌは思わず息を止めた。
証言?
ローゼ商会の跡取りが、何かを知っているということだろうか。
「ですが、旦那様。王宮の騎士団も、まだ調べを続けております」
「分かっている。だからこそ、慎重に動け」
室内で椅子を引く音がした。
セレーヌは慌てて廊下の角へ身を隠した。
ほどなくして扉が開き、男の足音が遠ざかっていく。
セレーヌはようやく息を吐きだした。
――ローゼ商会。証言。騎士団。
それぞれの言葉が頭の中を巡る。
何の証言なのかは分からない。
ただ、父が何かを隠していることだけは、ますます確かになった。
それから数日、セレーヌは慎重に調べを進めた。
父の仕事について、これまで深く尋ねたことはなかった。
商会との取引も、領地の経営も、すべて父が取り仕切っていたからだ。
けれど、屋敷には過去の取引記録や、商会から届いた書類が保管されている。
以前、父に頼まれて整理を手伝ったことのある書類棚。
そこに、何か手がかりが残されているかもしれない。
古い記録を調べるうち、セレーヌはローゼ商会の名前を見つけた。
何枚かの書類には、ある取引に関する経緯が記されていた。
その中に、不正の疑いをかけられた男性の名前があった。
セレーヌは眉を寄せた。
この人物が、どのような経緯で疑いをかけられたのか、詳しいことは知らない。
けれど、さらに書類をめくると、同じ取引について記された内容に食い違いがあることに気付いた。
「……どういうことかしら」
そして、その一方にはローゼ商会の跡取りによる証言が記されていた。
――お父様がおっしゃっていた証言というのは、これのこと?
セレーヌは、もう一度書類を見比べた。
これだけで、すべてを断定することはできない。
けれど、父が商会の跡取りの証言を気にしていた理由は、ここにあるのかもしれない。
書類を元の場所に戻し、静かに棚を閉じる。
本人に、確かめなければならない。
その時、父から告げられた縁談のことが頭をよぎった。
近いうちに、ローゼ商会の会頭と息子が屋敷を訪れるという。
父は、両家の結びつきを強めるつもりなのだろう。
――ならば、その機会を使わせていただきます。
セレーヌは、そっと拳を握った。
アストレア伯爵家では、リシェルが応接室の窓辺に立っていた。
王宮での事件から数日が過ぎ、ようやく落ち着いた日々が戻りつつある。
それでも、あの日の出来事を思い出さない日はなかった。
「お嬢様、ヴァルフォード騎士団長がお見えになりました」
マリアの声に、リシェルは振り返った。
「ええ。こちらへご案内して」
答えてから、なぜか胸が少し弾んだ。
事件の経過を伝えるため、レオンが訪ねてくることは事前に知らされていた。
それなのに、実際に来たと聞くと、落ち着かない。
間もなく、レオンが姿を現した。
「リシェル嬢。その後、お加減はいかがですか」
「おかげさまで、もう大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「それなら安心しました」
レオンの表情が和らぐ。
リシェルも自然と微笑んだ。
席に着くと、マリアが紅茶を運んできた。
「捕らえた男たちについて、現在も取り調べを続けています」
レオンは静かに切り出した。
「彼らは、指示されたとおりに動いたと話しています。ただ、肝心の指示役については、まだ十分な証言が得られていません」
「では、あの事件を企てた人物は……」
「まだ捕まっていません」
リシェルの表情が曇った。
救出されたことで、すべてが終わったわけではない。
そのことは、彼女自身も分かっていた。
「ただ、手がかりは少しずつ集まっています。逃走に使われた馬車の手配についても調べています」
「そうなのですね」
「リシェル嬢にも、何か思い出したことがあれば教えていただきたいのです。些細なことでも構いません」
リシェルは頷いた。
連れ去られたときの声。
馬車の揺れ。
男たちが交わしていた言葉。
思い出せることを、一つずつレオンに伝えていく。
レオンは途中で遮ることなく、真剣に耳を傾けていた。
「ありがとうございます。とても参考になります」
「お役に立てたなら、よかったです」
リシェルはほっと息をついた。
その時、ふとレオンの頭上へ目が向いた。
【リシェルを守ります】
あの日、初めて見えた付箋。
今日も変わらず、そこにある。
これまで、レオンの未来だけは見ることができなかった。
それなのに、今は自分の名前が記されている。
――どうして、私なのかしら。
考えても、答えは出ない。
「リシェル嬢?」
「あっ、申し訳ありません。少し考え事をしていました」
「お疲れでしたら、今日はここまでにしましょう」
「いいえ、大丈夫です」
リシェルは慌てて首を振った。
その様子に、レオンが小さく笑う。
「無理はなさらないでください」
「はい」
心配してくれる声が、温かい。
リシェルは紅茶のカップに視線を落とした。
すると、レオンが思い出したように口を開いた。
「そういえば、髪飾りのことでお伝えしたいことがありました」
「髪飾り、ですか?」
「救出に向かう途中、銀の花を一輪、見つけたのです。あなたの勿忘草の髪飾りから外れたものだと思います」
「まあ……」
リシェルは驚いて顔を上げた。
「マリアと一緒に選んだ、大切な髪飾りなのです」
「そうでしたか」
「でも、あのような場所で見つけていただけるなんて……」
リシェルは嬉しそうに微笑んだ。
レオンはその笑顔を見て、胸の奥に不思議な温かさを覚えた。
「一輪だけですが、大切に保管しています。もしよろしければ、修理できる工房を探してみましょうか」
「そこまでしていただいても、よろしいのですか?」
「ええ」
レオンは頷いた。
「せっかく見つかった花ですから」
「ありがとうございます、レオン様」
リシェルの頬に、柔らかな笑みが浮かぶ。
レオンは、その表情をもう少し見ていたいと思った。
けれど、すぐに自分でも不思議に感じ、静かに紅茶へ手を伸ばした。
グランディール伯爵家の応接室では、二人の父親が上機嫌で話していた。
「では、若い二人にも少し話をさせましょう」
ローゼ商会の会頭が言うと、グランディール伯爵も頷いた。
「それがよろしいでしょう。セリー、庭園をご案内して差し上げなさい」
「はい、お父様」
セレーヌは微笑んで立ち上がった。
ローゼ商会の跡取りも、丁寧に一礼する。
二人は応接室を後にし、庭園へと向かった。
秋の花々が風に揺れている。
屋敷の窓からは、二人の姿がよく見えた。
父親たちは、若い二人が親睦を深めることを期待しているのだろう。
けれど、セレーヌには別の目的があった。
「お久しぶりですね」
セレーヌが声をかけると、青年は穏やかに微笑んだ。
「ええ。お変わりなくお過ごしでしたか」
「はい。そちらはいかがですか」
「商会の仕事にも、ようやく慣れてきたところです」
しばらくは、当たり障りのない話が続いた。
仕事の事。
季節の事。
互いの家族の近況。
セレーヌは焦らなかった。
相手がどのような人物なのか、まずは自分の目で確かめたかった。
やがて、青年が少し困ったように笑った。
「父たちは、ずいぶん乗り気のようですね」
「そうですね」
「あなたは、この縁談をどうお考えですか」
セレーヌは足を止めた。
「正直に申し上げてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「私は、まだ結婚を決めるつもりはありません」
青年は驚いたように瞬きをした。
だが、すぐに肩の力を抜いた。
「……実は、私もです」
「そうなのですね」
セレーヌは小さく微笑んだ。
「実は、このお話をいただいてから、あなたのことを少し調べさせていただきました」
「私の事を、ですか?」
「ええ。自分の将来に関わることですもの。何も知らないまま、お会いするわけにはいかないと思いまして」
青年は感心したように頷いた。
「それで、何か分かりましたか?」
「……町のパン屋へ、よく足を運ばれているそうですね」
青年の表情が、わずかに変わった。
「それは……」
「そのお店に、大切に想っていらっしゃる方がいるのではありませんか?」
しばらくの沈黙のあと、青年は苦笑した。
「そこまでお調べになったのですね」
「申し訳ありません。ですが、私も望まない結婚をするつもりはありませんから」
青年は少し考え、やがて静かに頷いた。
「父には反対されています。ですが、私は彼女と一緒になりたいと思っています」
「それなら、なおさらです」
セレーヌは柔らかく微笑んだ。
「私たちが望む未来は、父たちが考えているものとは違うようですね」
ふと、幼い頃の記憶がよみがえった。
遠縁の子爵家の次男。
いつも優しく接してくれた、少し年上の少年。
あの頃の自分は、彼に会えるだけで嬉しかった。
けれど、彼にとっては、きっと妹のような存在だったのだろう。
――今は、どうしていらっしゃるのかしら。
セレーヌは懐かしい気持ちを胸にしまい、青年へ向き直った。
「実は、もう一つ、お尋ねしたいことがあるのです」
「何でしょうか」
「以前、ある取引をめぐって、不正の疑いをかけられた男性がいらっしゃいましたね」
青年の顔から笑みが消えた。
セレーヌは、その変化を見逃さなかった。
「その件について、あなたが証言された記録を拝見しました」
「……なぜ、そのようなことを?」
「父の仕事について、少し調べていたのです」
青年は黙り込んだ。
セレーヌは続けた。
「同じ取引について、二つの記録が食い違っていました。なぜでしょうか」
青年は視線を落とした。
「……」
「私には、どちらが本当なのか分かりません。ですが、あなたならご存じなのではありませんか」
風が吹き、庭木の葉が揺れた。
青年は長い沈黙の後、ようやく口を開いた。
「……実は、グランディール伯爵から、事実とは異なる証言をするよう求められたのです」
セレーヌは息を呑んだ。
「断れば、商会との取引にも影響が出ると……」
「では、あの男性は」
「少なくとも、私が証言した内容は事実ではありません」
青年は苦しそうに目を伏せた。
「父も、商会を守るためだと言っていました。ですが、あの証言で一人の人間が罪を着せられたのなら……」
言葉が途切れる。
セレーヌは静かに告げた。
「本当のことを、話していただけませんか」
青年は顔を上げた。
「簡単なことではないと分かっています。けれど、これ以上、誰かが傷つくのを見過ごしたくないのです」
「……あなたのお父上のことも、明らかになるかもしれませんよ」
「覚悟しています」
セレーヌは答えた。
声は少し震えていた。
それでも、目を逸らさなかった。
「父のしたことを、なかったことにはできません」
姉達の顔が浮かんだ。
それぞれの家に嫁ぎ、子供にも恵まれ、少しずつ夫との間に温かな家庭を築き始めている二人。
その幸せまで、父の罪に巻き込みたくなかった。
だからこそ、これ以上、悪事を重ねさせるわけにはいかない。
「私は、私にできる事をしたいのです」
青年はセレーヌを見つめた。
やがて、静かに頷いた。
「分かりました。私が知っていることは、すべてお話しします」
「ありがとうございます」
「ただ、父にも伯爵にも、今は知られるわけにはいきません」
「ええ。私もそう思います」
セレーヌは静かに頷いた。
「真実を明らかにするためにも、慎重に進めましょう」
「はい。証言に関わる記録について、私の方でも確かめてみます」
二人は顔を見合わせ、小さく微笑んだ。
その頃、応接室では。
「どうやら、ずいぶんと話が弾んでいるようですな」
庭園を眺めていたローゼ商会の会頭が、満足そうに笑っていた。
「ええ。これなら、よい返事が聞けそうです」
グランディール伯爵も機嫌よく頷く。
二人が何を話しているのか、知る由もなかった。
その頃、屋敷の廊下を歩いていた伯爵の部下が、ふと窓の外へ目を向けた。
庭園には、セレーヌとローゼ商会の跡取りの姿があった。
「……なるほど。縁談は順調のようですな」
男はそれ以上気に留めることなく、廊下の奥へと姿を消した。




