第六話 秘密の誘い
茶会は、和やかな雰囲気の中で続いていた。
庭園には令嬢たちの楽しげな声が響き、給仕の者たちが紅茶や菓子を運んでいる。
リシェルは、セレーヌとの会話を楽しんでいた。
これまで社交の場で挨拶を交わす程度だったが、話してみると、セレーヌは明るく親しみやすい令嬢だった。
「アストレア嬢は、お花がお好きですの?」
「ええ。屋敷の庭でも、季節の花を育てていますわ」
「まあ、素敵ですわね」
セレーヌは嬉しそうに微笑んだ。
その時、昨夜の父親の言葉がふと頭をよぎった。
――庭園の奥にあるテラスを知っているな?
――あそこは静かで、ゆっくり話すにはちょうどいい。
セレーヌは庭園の奥へ目を向けた。
「そういえば、あちらに小さなテラスがあるのをご存じですか?」
「テラス、ですか?」
「ええ。庭園を見渡せる、とても素敵な場所なんですの。よろしければ、ご一緒しませんか?」
リシェルは一瞬、迷った。
人目の少ない場所へ行くことには、まだ抵抗がある。
けれど、ここは王宮だ。
しかも、目の前にいるのはグランディール伯爵家の令嬢である。
「そうですわね。少しだけでしたら」
「嬉しいですわ」
セレーヌは微笑んだ。
リシェルは近くに控えていたマリアを振り返った。
「マリア、少しテラスへ行ってくるわ」
「かしこまりました。お供いたします」
三人は庭園の奥へ向かった。
テラスへ続く小道には、低い生け垣が続いていた。
茶会の賑わいが少しずつ遠ざかっていく。
「こちらですわ」
セレーヌが先に立ち、リシェルとマリアがその後に続く。
やがて、白い石造りの小さなテラスが見えてきた。
庭園の花々を見渡せる、美しい場所だった。
「まあ……本当に素敵ですわね」
リシェルは思わず声を上げた。
「でしょう?」
セレーヌも嬉しそうに微笑む。
その時だった。
庭園の方から、突然、悲鳴が上がった。
「火事よ!」
続いて、騒がしい足音が響く。
三人が振り返ると、生け垣の向こうに薄い煙が立ち上っていた。
「何が起きたのでしょう……」
セレーヌが不安そうに呟いた。
マリアはすぐにリシェルの前へ出た。
「お嬢様、こちらに」
その直後、テラスへ続く通路から、給仕の服装をした男が姿を現した。
「皆様、こちらへ! 安全な場所へご案内いたします!」
男は慌てた様子で手を振った。
「庭園側は危険です。どうぞ、こちらの通路へ!」
マリアは男を見つめた。
「王宮の騎士様は、どちらに?」
「避難の誘導に当たっております。急いでください!」
男は答えると、奥の通路を指し示した。
リシェルはセレーヌと顔を見合わせた。
煙は、先ほどより濃くなっているように見える。
「行きましょう、アストレア嬢」
セレーヌがリシェルの手を取った。
その瞬間だった。
通路の陰から、もう一人の男が現れた。
「……え?」
セレーヌが声を上げるより早く、男がリシェルの腕をつかんだ。
「お嬢様!」
マリアが駆け寄ろうとしたが、給仕姿の男がその前に立ちはだかった。
「邪魔をするな!」
男に突き飛ばされ、マリアは石畳に膝をついた。
「マリア!」
リシェルが叫ぶ。
だが、腕をつかんだ男は彼女を離さなかった。
「静かにしろ。抵抗しなければ傷つけない」
聞き覚えのない低い声。
その言葉に、リシェルの背筋が凍りついた。
まただ。
あの日と同じ。
逃げようとしても、男の力は強かった。
「やめてください!」
セレーヌが男の腕にすがりついた。
「アストレア嬢を離してください! 何をするのです!」
男は苛立ったように彼女を振り払った。
「下がっていろ!」
よろめいたセレーヌは、石の手すりに手をついた。
目の前で起きていることが、信じられなかった。
なぜ。
どうして、こんなことに。
「誰か! 助けてください!」
セレーヌは声を張り上げた。
しかし、庭園では煙による騒ぎが広がっていた。
その声は、遠くの喧騒にかき消されてしまう。
男たちはリシェルを引きずるようにして、奥の通路へ連れていった。
「お嬢様!」
立ち上がったマリアが追いかけようとする。
だが、男たちはすでに通路の角を曲がっていた。
リシェルは必死に抵抗した。
そのとき、髪に留めていた飾りが石壁に触れた。
小さな金属音が響く。
銀細工の勿忘草。
その一輪が、髪飾りから外れて石畳へ落ちた。
けれど、誰もそれに気付かなかった。
「お嬢様!」
マリアが男たちの後を追おうとした。
しかし、給仕姿の男が通路を塞いでいる。
マリアが通路へ駆け出そうとすると、給仕姿の男が再び立ちはだかった。
「どきなさい!」
マリアが叫んだ。
その隙に、セレーヌは別の小道へ駆け出していた。
「アストレア嬢!」
何が起きているのか、分からなかった。
ただ、このままではいけない。
自分が誘ったばかりに、アストレア嬢が危険な目に遭っている。
助けなければ。
セレーヌはドレスの裾を持ち上げ、必死に走った。
庭園の奥を抜けると、建物の裏手へ続く通路があった。
その先に、一台の馬車が停まっている。
そして、男たちに連れられたリシェルの姿が見えた。
「待って!」
セレーヌは声を張り上げた。
「その方を離してください!」
馬車のそばに立っていた男が、振り返った。
その顔を見た瞬間、セレーヌは足を止めた。
「……あなたは」
見覚えのある顔だった。
父親の屋敷で、何度も見かけた男。
グランディール伯爵に仕える者だった。
「どうして……ここに?」
男の表情が変わった。
「セレーヌお嬢様……」
その呼び方に、セレーヌの胸がざわついた。
「なぜ、あなたがここにいるのです?」
男は答えなかった。
馬車の扉が閉められる。
「待ちなさい! アストレア嬢をどこへ連れていくの!」
セレーヌが駆け寄ろうとすると、男がその前に立った。
「お嬢様。どうか、お戻りください」
「何を言っているのです!」
「ここは、我々にお任せを」
「任せるって……どういうことですの?」
男は視線を伏せた。
その間にも、馬車はゆっくりと動き始めていた。
「待って! お願い、止めて!」
セレーヌの叫びも届かず、馬車は走り去っていった。
その場に残されたセレーヌは、呆然と立ち尽くした。
父親の部下が、なぜあの場所にいたのか。
なぜ、アストレア嬢を連れ去る男たちと一緒にいたのか。
考えれば考えるほど、胸の奥に不安が広がっていく。
そして、昨夜の父親の言葉が蘇る。
――庭園の奥にあるテラスを知っているな?
――よければ、お誘いしてみなさい。
「……まさか」
セレーヌの唇が震えた。
そんなはずはない。
お父様が、そんなことをするはずがない。
けれど、目の前で起きたことを、どう説明すればいいのだろう。
セレーヌは、走り去った馬車の方角を見つめていた。
けれど、今はそれよりも先にしなければならないことがあった。
「……マリアさん」
セレーヌは踵を返し、来た道を急いで戻った。
テラスへ続く通路では、マリアが必死に助けを求めていた。
「誰か! お嬢様が連れ去られたのです!」
「マリアさん!」
セレーヌが駆け寄ると、マリアは顔を上げた。
「グランディール様! お嬢様は……!」
「申し訳ありません。追いかけたのですが、馬車で連れ去られてしまいました」
「そんな……」
マリアの顔から血の気が引いた。
「どちらへ向かったのですか?」
セレーヌは、馬車が走り去った方角を伝えた。
「すぐに王宮の方へ知らせなければなりませんわ」
二人は庭園へ戻り、駆けつけた侍従に事情を伝えた。
「アストレア伯爵家のご令嬢が連れ去られたのです。至急、騎士団へお知らせください」
「承知いたしました!」
侍従は近くの者に指示を出した。
セレーヌはマリアへ向き直った。
「マリアさん、こちらの方に事情をお話ししてください。私は……少し、確かめなければならないことがあります」
「グランディール様……?」
マリアは思わず聞き返した。こんな時に、何を確かめるというのだろう。
「申し訳ありません。ですが、どうしても確かめたいことがあるのです」
セレーヌの真剣な表情に、マリアはそれ以上問いかけることができなかった。
「……分かりました。どうか、お気をつけて」
「……はい。ありがとうございます」
セレーヌは小さく頷いた。
そして、侍従に付き添われるマリアを見届けると、王宮を後にした。
王宮の回廊では、レオンが庭園から上がる騒ぎに顔を向けていた。
「煙だと?」
「はい。庭園の一角で発生したようです!」
駆け寄ってきた騎士が報告する。
「火元を確認しろ。王妃殿下と招待客の安全を最優先に。ヴィクトルにも伝えろ」
「はっ!」
騎士が走り去る。
レオンは庭園を見渡した。
人々が騒然としている。
その中に、先ほどまで見えていた蜂蜜色の髪がない。
嫌な予感が胸をよぎった。
「……リシェル嬢は?」
レオンは近くの騎士を呼び止めた。
「アストレア嬢の所在を確認してくれ」
「承知しました!」
その時、別の騎士が慌ただしく駆け寄ってきた。
「団長! アストレア伯爵家の侍女から、緊急の報告が入っております!」
「何があった?」
「アストレア嬢が、何者かに連れ去られたとのことです!」
レオンの表情が険しくなった。
「侍女はどこにいる?」
「侍従が付き添っております」
「すぐに案内してくれ」
レオンは騎士とともに歩き出した。
茶会の穏やかな時間は、すでに失われていた。
帰りの馬車の中で、セレーヌは膝の上に置いた手を強く握りしめていた。
何度考えても、あの男の顔が浮かんでくる。
父に仕える、見覚えのある男。
そして、昨夜の父親の言葉。
――あそこは静かで、ゆっくり話すにはちょうどいい。
――よければ、お誘いしてみなさい。
偶然なのだろうか。
それとも――。
「……お父様」
小さく呟いた声は、馬車の揺れる音に消えた。
確かめなければならない。
セレーヌは窓の外へ視線を向けた。
馬車は、グランディール伯爵家の屋敷へと向かっていた。




