第四話 変わり始めた距離
アストレア伯爵邸。
午後の柔らかな日差しが、リシェルの自室に差し込んでいた。
窓辺の小さなテーブルには、温かな紅茶が用意されている。
けれど、リシェルはカップに手を伸ばすことなく、膝の上で指を重ねていた。
あの日から、数日が経っていた。
ラフィーネ装飾工房を訪れた帰り道。
突然現れた男たち。
腕を掴まれそうになった瞬間の恐怖。
そして、助けに駆けつけてくれた騎士たちの姿。
思い出すたび、胸の奥が小さく震える。
「……お嬢様」
傍らに控えていたマリアが、心配そうに声をかけた。
「お茶が冷めてしまいます」
「あ……そうね」
リシェルは小さく微笑み、カップを手に取った。
紅茶の香りが、ふわりと広がる。
一口飲むと、ようやく少しだけ気持ちが落ち着いた。
「マリア。あの髪飾りは、どうなったかしら」
「はい。きちんとお預かりしております」
マリアは小さな箱を取り出した。
淡い色のリボンが掛けられた箱。
あの日、工房で選んだ勿忘草の髪飾りが収められている。
箱を開くと、青い小さな花々が光を受けて輝いた。
「……よかった」
リシェルは安堵の息をついた。
襲撃の際、地面へ落としてしまったものだった。
レオンが拾い上げ、マリアへ託してくれたことを覚えている。
「壊れていなくて、本当によかったですね」
「ええ」
リシェルはそっと花飾りを見つめた。
あの時のことを思い出すのは、まだ怖い。
けれど、この髪飾りまで怖い思い出にしたくはなかった。
「いつか、これを着けて出かけられるといいわね」
「はい。その時は、私が綺麗にお付けいたします」
マリアの笑顔に、リシェルもようやく自然に笑った。
その日の午後。
アストレア伯爵邸を、一人の来客が訪れた。
王宮騎士団長、レオン・ヴァルフォード。
事件の捜査状況を伝えるため、伯爵との面会を求めていた。
応接室では、アストレア伯爵が彼を迎えた。
「わざわざ足を運んでいただき、恐縮です」
「いえ。ご令嬢が二度も危険な目に遭われた以上、直接ご報告すべきだと考えました」
レオンは落ち着いた口調で答えた。
「捕らえた男の取り調べは続いておりますが、依頼主につながる情報は、まだ得られていません」
「そうですか……」
伯爵は表情を曇らせた。
「娘は、ようやく少し落ち着いてきたところです。ですが、外へ出ることには、まだ不安があるようで」
「無理もありません」
レオンは静かに頷いた。
「当面は、外出の際の護衛を増やしていただくようお願いいたします。騎士団でも引き続き調査を進めています」
「ありがとうございます」
伯爵は深く頭を下げた。
「娘を救っていただいたこと、改めてお礼申し上げます」
「当然の務めを果たしたまでです」
そう答えたレオンの脳裏に、あの日のリシェルの姿が浮かんだ。
震える指先。
青ざめた顔。
そして、懸命に平静を保とうとしていた翡翠色の瞳。
「……ご令嬢は、今はいかがですか」
「部屋で静かに過ごしております。よろしければ、少しお会いになりますか」
レオンは一瞬、考えた。
事件について、本人に確認したいことが残っているわけではない。
だが、無事を確かめられるのであれば。
「ご負担にならないようでしたら」
伯爵は頷き、使用人にリシェルを呼ぶよう命じた。
しばらくして、応接室の扉が開いた。
「お父様、お呼びでしょうか」
リシェルはマリアを伴い、部屋へ入った。
そして、そこに立つ人物を見て、足を止めた。
「……レオン様」
「リシェル嬢」
レオンは軽く頭を下げた。
「突然の訪問、失礼いたしました」
「いいえ。こちらこそ、先日は本当にありがとうございました」
リシェルは丁寧に一礼した。
「おかげさまで、こうして無事に過ごすことができています」
「それならば、何よりです」
二人は向かい合った。
リシェルは、ふとレオンの頭上へ視線を向ける。
そこには、やはり何もなかった。
誰の未来も、少し先の出来事が付箋となって見える。
けれど、レオンだけは違う。
初めて出会った時から、何も見えないままだった。
どうしてなのだろう。
その疑問は、今も胸の中に残っている。
「……リシェル嬢?」
「あっ、申し訳ありません」
レオンの声に、リシェルは我に返った。
「少し、考え事をしてしまって」
「体調が優れないのであれば、無理をなさらないでください」
「いえ、大丈夫です」
そう答えたものの、リシェルは少しだけ視線を落とした。
レオンは、その様子を見て静かに口を開いた。
「……先日のことを、思い出されますか」
リシェルは驚いたように顔を上げた。
そして、小さく頷いた。
「はい。時々……」
言葉を探すように、指先を重ねる。
「もう大丈夫だと思っていても、急に思い出してしまうことがあるんです」
「そうでしたか」
レオンは、すぐには何も言わなかった。
やがて、穏やかな声で続ける。
「無理に忘れようとなさらなくても良いと思います」
「……え?」
「怖い思いをされたのですから、すぐに普段どおりに戻れなくても不思議ではありません」
リシェルは黙って耳を傾けた。
「今は、ご自身の心を休めることを優先してください」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。
周囲の人々は、皆、自分を心配してくれている。
父も母も、マリアも。
けれど、自分でもどうすればいいのか分からない気持ちを、こうして静かに受け止めてもらえたことが嬉しかった。
「……ありがとうございます」
リシェルは微笑んだ。
「レオン様のお言葉を聞いて、少し気持ちが楽になりました」
「それならば、よかった」
レオンも、わずかに表情を和らげた。
その様子を見守っていた伯爵が、静かに口を開く。
「リシェル。しばらくは屋敷でゆっくり過ごしなさい。外出のことは、もう少し落ち着いてから考えればいい」
「はい、お父様」
リシェルは素直に頷いた。
けれど、心の中では別のことも考えていた。
いつまでも、怖がってばかりではいられない。
自分には、まだ確かめたいことがある。
あの男たちは、なぜ自分を狙ったのか。
そして、なぜレオンの未来だけが見えないのか。
答えは、まだ分からない。
それでも、少しずつ前を向いていきたいと思った。
レオンが帰る頃には、窓の外に夕暮れの光が差し込んでいた。
リシェルは父とともに、玄関広間まで見送りに出た。
「本日は、ありがとうございました」
「こちらこそ、お時間をいただきました」
レオンは丁寧に一礼した。
「リシェル嬢。どうか、ご無理をなさらずに」
「はい」
リシェルは微笑んだ。
「レオン様も、どうかお気をつけて」
「ええ。ありがとうございます」
レオンは一瞬、言葉を探すように間を置いた。
「……また、何か分かりましたら、ご報告に伺います」
「お待ちしております」
そう答えてから、リシェルは少しだけ頬を赤らめた。
事件の報告を待っているだけなのに。
なぜだろう。
また会えることを、少し嬉しく思ってしまった。
レオンが屋敷を去ったあとも、リシェルはしばらく玄関広間に立っていた。
ふと、先ほどの言葉を思い出す。
無理に忘れようとしなくてもいい。
その言葉は、思っていた以上に心に残っていた。
リシェルはそっと胸元に手を当てた。
怖い気持ちが、すべて消えたわけではない。
けれど、あの日からずっと胸を覆っていた不安が、ほんの少しだけ和らいだような気がした。
そして、もう一つ。
レオン・ヴァルフォード。
未来の付箋が見えない、不思議な人。
その存在が、少しずつ自分の中で大きくなり始めていることに、リシェルはまだ気付いていなかった。




