第三話 静かな疑念
王宮の一角にある文官執務室。
机の上には、王都の商会に関する資料がいくつも広げられていた。
エルネストはその一枚に目を通し、小さく眉を寄せた。
「……妙ですね」
向かいに座るレオンが顔を上げる。
「何か分かったのか?」
「いえ。分かったというより、気になることがありまして」
エルネストは書類を一枚取り上げた。
「以前、アストレア伯爵家の商会に関する書類を確認した際、いくつかの取引先の名前が出てきたことを覚えていますか?」
「ああ」
「その中に、ローゼ商会の名前がありました」
レオンはわずかに目を細めた。
「ローゼ商会……」
「国外との取引を広く手がけている商会です。王都でも、それなりに名が知られています」
「それが今回の事件と関係しているのか?」
「今のところ、何とも言えません」
エルネストは首を横に振った。
「ただ、最近になって、グランディール伯爵家との結びつきを強めようとしているようなのです」
「グランディール伯爵家?」
「ええ。商会の跡取りと、伯爵家の三女との縁談が持ち上がっているそうです」
レオンはしばらく考え込んだ。
貴族と商家の婚姻。
それ自体は、珍しい話ではない。
商会にとっては貴族とのつながりが得られ、貴族側にとっても商会の財力や取引網は魅力となる。
「縁談があるというだけでは、事件とは結びつかないな」
「そのとおりです」
エルネストは頷いた。
「ですが、少し気になることがあります」
「聞こう」
「グランディール伯爵家は、ここ最近、国外との取引に強い関心を示しているようなのです」
「国外との取引か」
「ええ。これまでの事業を広げようとしているのでしょう。ローゼ商会との縁談も、その一環と考えれば不自然ではありません」
「ならば、何が気になる?」
エルネストは書類を机に置いた。
「アストレア伯爵家の商会も、国外との取引を少しずつ広げています」
レオンは黙って続きを待った。
「扱う品がすべて重なるわけではありませんが、取引先の一部が共通しているのです」
「競合する可能性がある、ということか」
「そう考えることもできます。ただし、商会同士で取引先が重なることは珍しくありません」
エルネストは慎重に言葉を選んだ。
「これだけで、誰かを疑うわけにはいきません」
「ああ。分かっている」
レオンは腕を組んだ。
リシェルが二度も襲われたこと。
男たちが金品ではなく、彼女自身を狙っていたこと。
そして、捕らえた男が、命を奪うなと指示されていたこと。
どれも偶然とは思えない。
だが、商会同士の利害が関係していると決めつけるには、まだ情報が足りなかった。
「エルネスト。グランディール伯爵家について、ほかに分かっていることは?」
「表向きには、特に問題はありません。社交界でも一定の地位を保っていますし、娘二人もそれぞれ侯爵家と伯爵家へ嫁いでいます」
「そうか」
「ただ、伯爵は事業に熱心な人物として知られています。新たな取引先を得るためなら、かなり積極的に動く方のようですね」
「……なるほど」
レオンは窓の外へ目を向けた。
今のところ、すべては別々の話だった。
縁談。
商会同士の取引。
そして、伯爵令嬢への襲撃。
そこに一本の線が引けるのかどうか、まだ分からない。
「もう少し、商会の動きを調べてみます」
エルネストの言葉に、レオンは頷いた。
「頼む。ただし、通常の業務で確認できる範囲にとどめてくれ。根拠もなく伯爵家を調べ回れば、余計な騒ぎになる」
「承知しています」
エルネストは小さく微笑んだ。
「あなたの方は、捕らえた男の取り調べが進んでいるのでしょう?」
「ああ。だが、依頼主につながる情報はまだ出ていない」
「用心深い相手ですね」
「少なくとも、簡単に身元を知られるつもりはないようだ」
レオンは立ち上がった。
「引き続き、こちらでも調べる」
「ええ。何か分かれば、すぐにお伝えします」
王都の商業区。
エルド商会の応接室では、アルベルト・エルドが一人の来客を迎えていた。
「お久しぶりです、レオン様」
「突然訪ねてすまない」
「とんでもございません。どうぞ、お掛けください」
レオンが椅子に腰を下ろすと、アルベルトも向かいに座った。
「本日は、どのようなご用件でしょうか」
「少し、商会について聞きたいことがある」
「商会、ですか?」
「ああ。ローゼ商会について、何か知っていることはないか」
アルベルトは少し考えた。
「ローゼ商会でしたら、国外との取引に強い商会ですね。近年は取扱品目も増やしていると聞いております」
「評判はどうだ?」
「特に悪い噂は耳にしておりません。商売に熱心な方々という印象です」
「そうか」
「ただ……」
アルベルトは言葉を区切った。
「最近、グランディール伯爵家とのつながりを深めようとしているという話は聞きました」
「縁談のことか?」
「ご存じでしたか」
「ああ」
アルベルトは頷いた。
「伯爵家の三女とのお話だそうです。まだ正式に決まったわけではないようですが」
レオンは静かに耳を傾けた。
「商会としては、貴族との結びつきが強くなるのは悪いことではありません。ですが、グランディール伯爵の方が、随分と熱心だという話もあります」
「伯爵が?」
「ええ。もっとも、私が直接お会いして確かめたわけではありませんので、噂の域を出ませんが」
「十分だ。ありがとう」
アルベルトは少し表情を改めた。
「レオン様。何か、お調べになっているのですか?」
「まだ詳しくは話せない。ただ、確認しておきたいことがあってな」
「そうでしたか」
アルベルトはそれ以上踏み込まず、頷いた。
「私にお手伝いできることがあれば、いつでもお申し付けください」
「助かる」
レオンは礼を述べ、席を立った。
商会を出たレオンは、通りを行き交う人々へ視線を向けた。
荷馬車が石畳を進み、商人たちが忙しそうに品物を運んでいる。
王都の商業区は、今日も活気に満ちていた。
グランディール伯爵家。
ローゼ商会。
そして、アストレア伯爵家。
三つの名前が、頭の中に並ぶ。
だが、それだけだった。
商会同士に共通の取引先があることも、貴族と商家の間に縁談が持ち上がることも、決して珍しくはない。
現時点で、襲撃事件との関係を示す証拠は何一つない。
レオンは足を止めた。
むしろ、気になるのは別のことだった。
なぜ、リシェルなのか。
アストレア伯爵本人でも、商会の関係者でもなく、令嬢である彼女が狙われた理由。
そして、なぜ命を奪わず、生きたまま捕らえようとしたのか。
「……まだ、足りないな」
小さく呟き、レオンは再び歩き始めた。
答えを急ぐわけにはいかない。
けれど、見過ごすこともできない。
確かな証拠が見つかるまで、一つずつ調べていくしかなかった。
静かな疑念だけが、レオンの胸に残っていた。
ローゼ商会。
執務室では、商会長が机に向かって書類を確認していた。
そこへ、一人の青年が訪れる。
「父さん。少し、お話があるのですが」
商会長は書類から顔を上げた。
「どうした?」
青年は父親の向かいに立った。
「あの時の依頼について、もう一度お聞きしたいことがあります」
商会長の手が、わずかに止まった。
「……まだ気にしているのか」
「はい。どうしても、あれが商会のためになるとは思えないのです」
「前にも話したはずだ。グランディール伯爵家との信頼関係は、我が商会にとって大切なものだ」
「それは分かっています。ですが……」
青年は言葉を選んだ。
「信頼を守るためなら、どんな頼みでも受け入れるべきなのでしょうか」
商会長は息を吐いた。
「私は、非道な頼みまで引き受けろと言っているわけではない」
「……はい」
「だが、商会には多くの者の暮らしが懸かっている。お前も、いずれその責任を負うことになるのだ」
青年は何も答えられなかった。
父親の言うことが、すべて間違っているとは思わない。
それでも、胸に残る疑問は消えなかった。
「お前は商会の跡取りだ。もっと考えるべきことがあるだろう」
「……グランディール伯爵家との縁談のことですか」
「そうだ」
青年は視線を落とした。
「その件についても、まだお返事はできません」
「何を迷っている。伯爵家との縁談は、商会にとって大きな機会だ」
「ですが、結婚は商会のためだけにするものではないと思います」
商会長の表情が険しくなる。
「お前には、まだ分からないのだ」
青年はそれ以上言い返さなかった。
ただ、父親の言葉に頷くこともできなかった。
商会を出た青年は、いつもの通りへ足を向けた。
焼きたてのパンの香りが、風に乗って漂ってくる。
小さなパン屋。
店先では、栗色の髪を後ろで結んだ女性が、客に笑顔を向けていた。
青年の姿に気付くと、彼女の表情が明るくなる。
「来てくれたのね」
「ああ」
青年は、ようやく自然に微笑むことができた。
「今日は、新しいパンを焼いたの」
「そうなんだ。楽しみだな」
「ふふっ。今回も感想を聞かせてね」
「もちろん。君のパンなら、何度でも食べたいよ」
女性は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見つめていると、先ほどまでの重苦しい気持ちが、少しだけ和らいでいく。
ふと、懐にしまった小さな布袋を思い出した。
中には、彼女が縫ってくれた花の刺繍のハンカチがある。
少し不格好な縫い目。
けれど、青年にとっては、何より大切なものだった。
「……どうかした?」
女性が不思議そうに尋ねる。
「いや。何でもないよ」
青年は微笑んだ。
父親が望む未来。
そして、自分が望む未来。
その二つは、いつから違う方向を向いてしまったのだろう。
まだ、答えは出せない。
それでも、目の前の笑顔だけは失いたくなかった。




