第ニ話 胸に残る光景
グランディール伯爵邸。
午後の日差しが差し込む自室で、セレーヌ・グランディールは窓辺に腰掛けていた。
膝の上には、読みかけの本が開かれている。
けれど、先ほどから同じ頁を眺めているばかりで、内容は少しも頭に入ってこなかった。
思い浮かぶのは、昨日、馬車の窓から見かけた光景だった。
濃紺の騎士服をまとった、一人の男性。
胸元には騎士団の紋章が輝き、腰には剣を帯びていた。
凛とした横顔。
落ち着いた立ち居振る舞い。
そして、傍らにいた令嬢を気遣うように、そっと腕を支えていた姿。
「あの方は……」
セレーヌは小さく呟いた。
レオン・ヴァルフォード。
王都騎士団を率いる若き団長であり、公爵家の次男。
その名は、以前から王宮でも噂になっていた。
初めて姿を見かけたのは、少し前のこと。
馬車の窓から偶然目にした、濃紺の騎士服をまとった男性。
なんて素敵な方なのだろう。
そう思ったことを、今でも覚えている。
けれど、昨日の姿は、それ以上に印象深かった。
騎士団長としての凛々しさだけではない。
傍らの令嬢へ向ける、穏やかな気遣い。
あのような方が、自分の隣にいてくださったなら。
そこまで考えて、セレーヌは頬を赤らめた。
「……何を考えているのかしら、私ったら」
本を閉じ、窓の外へ視線を向ける。
そして、もう一人の人物を思い出した。
レオンに支えられていた、蜂蜜色の髪の令嬢。
リシェル・アストレア。
社交の場で、何度か顔を合わせたことがある。
控えめで、物静かな印象の令嬢だった。
最近、婚約を解消したことでも、社交界の話題になっていた。
元婚約者が別の女性に心を移したことが原因らしい。
その後、アストレア伯爵の意向で、元婚約者は夫を亡くした女性の婿となり、相手の女性は修道院へ送られたと聞いている。
昨日は少し顔色が悪く見えたけれど、何かあったのだろうか。
それにしても、どうしてレオンが彼女に付き添っていたのか。
知り合いなのかしら。
それとも、もっと親しい間柄なのだろうか。
「……まさかね」
セレーヌは、小さく首を振った。
確かめたわけでもないのに、勝手に想像するのは良くない。
それでも、あの光景は不思議と胸に残っていた。
その時、扉が控えめに叩かれた。
「お嬢様。旦那様がお呼びでございます」
侍女の声に、セレーヌは顔を上げた。
「お父様が?」
「はい。書斎へお越しになるようにと」
「分かったわ。すぐに参ります」
セレーヌは本を机に置き、立ち上がった。
父親からの呼び出し。
心当たりは、一つしかなかった。
書斎へ入ると、グランディール伯爵は机に向かって書類を眺めていた。
「お呼びでしょうか、お父様」
「ああ、セリー。そこへ掛けなさい」
父親は顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
セレーヌは勧められた椅子に腰掛ける。
「ローゼ商会との縁談については、考えてみたか?」
やはり、その話だった。
セレーヌは膝の上でそっと手を重ねた。
「……まだ、お返事はできておりません」
「そうか」
伯爵は書類を置いた。
「ローゼ商会からは、前向きな返事をもらっている。先方も、この縁談を大切に考えているようだ」
「ですが、私は……」
言いかけたところで、セレーヌは口をつぐんだ。
ローゼ商会は、王都でも名の知られた大きな商会だ。
国外にも取引先を持ち、その事業は年々広がっているという。
決して悪い縁談ではない。
それは分かっていた。
けれど、セレーヌが思い描いていた結婚とは、少し違っていた。
「アメリアは侯爵家へ嫁ぎ、クラリスも伯爵家との良縁に恵まれた」
父親は静かに続けた。
「二人とも、立派に務めを果たしている。お前にも、良い縁を結んでもらいたいのだよ」
姉たちの名前を聞き、セレーヌは顔を上げた。
長女のアメリアは侯爵家へ。
次女のクラリスは伯爵家へ。
二人とも立派な家へ嫁ぎ、社交の場でも羨ましがられている。
幼い頃から、セレーヌにとって姉たちは憧れの存在だった。
美しい衣装をまとい、堂々と夫の隣に立つ姿。
いつか自分も、あのような結婚ができるのだと思っていた。
いいえ。
できることなら、姉たち以上に素敵な方と。
「お父様。ローゼ商会が立派な商会であることは、存じております」
「ならば、何を迷っている?」
「……もう少し、お時間をいただけませんか」
伯爵はしばらく娘を見つめていた。
やがて、穏やかな笑みを浮かべる。
「お前は昔から、少し夢見がちなところがあるな」
「……申し訳ございません」
「責めているわけではない。だが、結婚とは家同士の結びつきでもある。お前にも、それは理解してほしい」
「はい」
「ローゼ商会との縁は、グランディール家にとっても大切なものだ。先方をいつまでも待たせるわけにはいかない」
セレーヌは視線を落とした。
父親の言うことは、間違っていないのかもしれない。
貴族の娘として生まれた以上、家のことを考える必要がある。
それでも――。
昨日見かけた濃紺の騎士服が、ふと脳裏によぎった。
あの方のような男性と出会えたなら。
そんな願いを抱くことさえ、許されないのだろうか。
「……少しだけ、考えさせてください」
伯爵は小さく息を吐いた。
「分かった。ただし、あまり長くは待てないぞ」
「ありがとうございます、お父様」
セレーヌは立ち上がり、丁寧に一礼した。
書斎を出ると、廊下には夕方の柔らかな光が差し込んでいた。
セレーヌは足を止め、窓の外を眺める。
姉たちは、どのような気持ちで結婚を決めたのだろう。
姉たちも、きっと幸せなのだろう。
父親が選んだ相手でも、あのように立派な家へ嫁げたのだから。
そう思っていた。
父親が決めた縁談に、姉たちがどのような思いで頷いたのか。
その本当の理由を、セレーヌはまだ知らなかった。
「……レオン・ヴァルフォード様」
思わず、名前が唇からこぼれる。
昨日見かけた横顔。
そして、その隣にいたリシェル・アストレア。
二人は、いったいどのような関係なのだろう。
知りたい。
けれど、知るのが少し怖い。
そんな自分の気持ちに戸惑いながら、セレーヌは再び歩き始めた。
レオン・ヴァルフォード。
その名前と、昨日目にした光景だけが、いつまでも胸から離れなかった。




