第十五話 勿忘草の髪飾り
十日後――。
柔らかな陽射しがアストレア伯爵家の庭を優しく照らしていた。
朝露をまとった花々が風に揺れ、小鳥たちのさえずりが穏やかな一日の始まりを告げている。
身支度を終えたリシェルは、軽く髪へ触れながら微笑んだ。
「今日は楽しみね。」
部屋の扉が控えめに叩かれる。
「お嬢様、お迎えに参りました。」
「ええ、入って。」
扉が開き、マリアが嬉しそうな笑みを浮かべて姿を見せた。
「おはようございます。」
「おはよう、マリア。」
リシェルも自然と笑みを返す。
「今日は約束の日ね。」
「はい。」
マリアは嬉しそうに頷いた。
「ラフィーネ装飾工房へ、新作が入荷したそうでございます。」
「あら。」
リシェルは目を丸くする。
「もうそんな季節なのね。」
「店主の方から、お嬢様にもぜひご覧いただきたいと伺っております。」
その言葉に、リシェルは嬉しそうに微笑んだ。
「それは楽しみだわ。」
以前、マリアに連れられて初めて訪れたラフィーネ装飾工房。
その時選んだ髪飾りは、今でも大切に使っている。 マリアが自分のことのように真剣に選んでくれた時間も、今ではかけがえのない思い出だった。
「今日も、マリアに選んでもらおうかしら。」
冗談交じりにそう言うと、マリアは思わず笑みをこぼす。
「もちろんでございます。ですが、最後にお決めになるのは、お嬢様でございますよ。」
リシェルは少し照れたように笑った。
「ええ。」
「今日は、自分の好きなものを選びたいわ。」
その言葉は、自分自身へ言い聞かせるようでもあった。
マリアは、その言葉を聞いて静かに微笑んだ。
「きっと、お嬢様にぴったりのお品がございます。」
二人を乗せた馬車は、やがて王都の中央通りへ到着した。
窓の外には、行き交う人々の姿が広がる。
色鮮やかな花を並べる花屋。
焼き立てのパンの香ばしい香り。
店先から聞こえてくる楽しげな呼び声。
穏やかな賑わいに、リシェルも自然と表情を和らげた。
「今日は、人が多いわね。」
「新作の発表が重なっておりますので、いつもより賑わっているようでございます。」
馬車を降りると、護衛騎士が静かに一礼する。
「お嬢様、お戻りまでお近くでお待ちしております。」
「お願いね。」
リシェルも微笑んで頷いた。
マリアと並び歩きながら、懐かしい通りを見渡す。
「あの日も、この道を歩いたわね。」
「はい。」
マリアも嬉しそうに微笑む。
「紅茶をご覧になって、本をお選びになって……。」
「髪飾りまで選んでもらったわ。」
リシェルがそう言うと、マリアは少し照れたように笑った。
「お嬢様が気に入ってくださって、本当に嬉しかったです。」
「今でも大切に使っているもの。」
リシェルはそっと髪へ触れる。
「あの日、マリアが連れてきてくれなければ、この髪飾りにも出会えなかったものね。」
その言葉に、マリアの頬が少しだけ赤く染まる。
「そのように仰っていただけるだけで、十分でございます。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑い合った。
やがて見慣れた白い建物が目に入る。
大きな硝子窓には、季節の花々とともに、美しい装飾品が飾られている。
――ラフィーネ装飾工房。
「あら。」
リシェルの瞳が自然と輝いた。
「季節が変わるだけで、雰囲気も随分違うのね。」
入口には深い藍色や藤色、淡い琥珀色――季節を映した装飾品が柔らかな光を受け、美しく輝いていた。
マリアも嬉しそうに頷く。
「新作も楽しみでございます。」
リシェルは小さく頷き、扉へ手を掛けた。
澄んだ鈴の音が、静かに店内へ響く――。
扉を開けると、小さな鈴が澄んだ音を響かせた。
カラン――。
その音に気付いた店員が顔を上げ、ふっと笑みを浮かべる。
「あら。リシェル様、マリア様。ようこそお越しくださいました。」
覚えていてくれたことが嬉しくて、リシェルも自然と微笑んだ。
「こんにちは。」
「ご無沙汰しております。」
マリアも一礼する。
店員は二人の姿を見比べ、優しく目を細めた。
「以前お求めいただいた髪飾りは、その後いかがでございましたか。」
リシェルは、そっと髪へ手を添えた。
今身につけているのは、以前この店で選んだ髪飾り。
淡い藤色の花をあしらい、小さな真珠が控えめに輝く、上品な一品だった。
派手さはない。
けれど、蜂蜜色の髪へ優しく寄り添い、身につけるたび、不思議と背筋が伸びるような気持ちにさせてくれる。
マリアが一つひとつ真剣に選び、自分以上に喜んでくれた日のことも、昨日のことのように思い出された。
「本当に、大切にしてくださっているのですね。」
店員が優しく微笑む。
「ええ。」
リシェルも微笑み返した。
「とても気に入っています。」
マリアも微笑みながら口を開く。
「本日は新作が入荷したと伺い、お邪魔いたしました。」
「はい。」
店員は明るい表情で応える。
「ちょうど昨日、新作が届いたばかりでございます。よろしければ、ご案内いたします。」
店内の奥へ進むと、季節ごとに並べられた装飾品が柔らかな光を受け、美しく輝いていた。
春を思わせる淡い色合い。
深い藍色を基調とした落ち着いた意匠。
小さな花々を繊細な銀細工で表現したもの。
どれも職人の手仕事ならではの温もりが感じられる。
「どれも素敵ね……。」
リシェルは思わず見入った。
「見ているだけでも楽しいわ。」
「ありがとうございます。」
店員は嬉しそうに微笑む。
「実は今回、職人が特に力を入れた作品がございまして……。」
そう言うと、奥のガラスケースから一つの小箱を丁寧に取り出した。
蓋を開ける。
そこには――
可憐な青い小花を束ねたような、一つの髪飾りが静かに佇んでいた。
小さな花々が寄り添う姿は控えめでありながら、どこか目を引く美しさを放っている。
リシェルは思わず息をのんだ。
「……綺麗。」
店員は優しく微笑む。
「こちらは、勿忘草を意匠にした髪飾りでございます。職人が、お一人お一人との出会いを大切にしたいと申しておりますので。同じ意匠のものは二つとございません。」
店員は髪飾りをそっと両手で持ち上げた。
「こちらは、職人が今季もっとも力を注いだ作品でございます。」
繊細な銀細工に彩られた青い小花が、光を受けて優しく輝く。
近くで見ると、一輪一輪の花びらまで細やかに表現されており、まるで本物の花をそのまま閉じ込めたかのようだった。
「まぁ……。」
リシェルは思わず身を乗り出す。
店員は穏やかに微笑んだ。
「勿忘草を意匠にした髪飾りでございます。」
「勿忘草……。」
その名を口の中でそっと繰り返す。
どこか優しく、澄んだ響きだった。
「可憐なお花ですね。」
マリアも目を細める。
店員は静かに頷いた。
「はい。小さな花ではございますが、とても大切な意味を持つ花でございます。」
「花言葉は――」
ほんの少し間を置き、優しく続ける。
「『私を忘れないで』でございます。」
店内が静かな空気に包まれる。
リシェルは再び髪飾りへ視線を落とした。
青い花々は寄り添うように咲き、その姿は控えめでありながら、どこか凛としている。
「……素敵。」
その一言は、自然と零れ落ちたものだった。
店員は嬉しそうに微笑む。
「職人も、その花言葉に惹かれ、一つひとつ心を込めて仕上げました。もちろん一点物でございます。同じ意匠のものは、この世に二つとございません。」
マリアはそっとリシェルの横顔を見つめる。
「お嬢様……。こちらも、とてもお似合いになりそうでございます。」
リシェルは小さく笑みを浮かべた。
「そうかしら。」
「ええ。」
マリアは迷いなく頷く。
「お嬢様の蜂蜜色のお髪に、この青はきっと美しく映えます。」
店員も優しく続けた。
「もしよろしければ、お試しになられますか。」
リシェルは髪飾りを見つめたまま、小さく頷く。
「ぜひ、お願いするわ。」
店員は丁寧に髪飾りを小箱へ納め、淡い青色の細いリボンを結んだ。
「ラフィーネより、心を込めて。」
リシェルは両手で受け取り、優しく微笑む。
「大切にいたします。」
店を出ると、秋風が二人を優しく包み込んだ。
リシェルは胸元で、小箱をそっと抱える。
淡い青色のリボンが風に揺れ、その先で小さく踊った。
「お嬢様、本当にお似合いでございました。」
マリアは嬉しそうに微笑む。
リシェルは照れたように笑った。
「ありがとう。」
そう言って、小箱へ優しく視線を落とす。
「今日は、とても良い一日ね。」
「はい。」
マリアも穏やかに頷いた。
二人は笑顔を交わしながら、賑わう中央通りへ歩き出す。
まだ、この先に待ち受ける運命を知ることなく――。




