第十四話 消えた不安
朝。
柔らかな陽射しが部屋を包み込み、小鳥のさえずりが静かな朝を告げていた。
リシェルはゆっくりと目を開ける。
昨夜は、何度も目が覚めた。
路地裏で男たちに囲まれたこと。 剣がぶつかり合う音。
マリアの悲鳴。
思い返すたび、胸の奥が小さく痛む。
「……。」
そっと身体を起こすと、自然と視線は宙へ向かった。
そこには、新しい付箋が静かに浮かんでいる。
【十日後 マリアと髪飾りを買いに行きます】
リシェルは、その文字をじっと見つめた。
「……。」
もう、あの付箋はない。
【七日後 無実の人を救います】
あの未来は終わった。
「あの方は……助かったのね。」
誰を救ったのか。
自分には分からない。
けれど、付箋が変わったということは、示されていた未来は無事に訪れたということなのだろう。
胸につかえていたものが、少しだけ軽くなる。
その時、部屋の扉が静かに叩かれた。
「お嬢様、お目覚めでしょうか。」
「ええ。」
聞き慣れた声に、リシェルは自然と微笑んだ。
「入って。」
扉が開き、マリアが朝の支度を整えるため部屋へ入ってくる。
昨日と変わらない穏やかな笑顔を見た瞬間、リシェルはほっと胸を撫で下ろした。
「おはようございます、お嬢様。」
「おはよう、マリア。」
少しだけ沈黙が流れる。
やがてリシェルは、優しく微笑んだ。
「昨日は、本当にありがとう。」
マリアは驚いたように目を丸くした。
「お嬢様……。」
「あなたが傍にいてくれたから、私は落ち着いていられたわ。」
マリアは静かに首を横へ振る。
「私は当然の務めを果たしただけでございます。」
「それでもよ。」
リシェルは柔らかな笑みを浮かべる。
「とても心強かった。」
マリアは少し照れたように微笑み、小さく頭を下げた。
「そのお言葉だけで十分でございます。」
リシェルは小さく微笑み返した。
けれど、その笑みはすぐに静かな思案へと変わる。
(そういえば……。)
あの横領事件は、その後どうなったのだろう。
真犯人は見つかったのだろうか。
騎士団は、あの方の無実を証明できたのだろうか。
付箋は消えた。
それなら、きっと未来は変わったのだ。
けれど、その先に何があったのかまでは、分からない。
リシェルは小さく息を吐く。
(いつか、分かる日が来るのかしら……。)
その時――。
コンコン。
再び部屋の扉が静かに叩かれる。
「リシェル、起きているか。」
聞こえてきたのは、父の落ち着いた声だった。
「はい、お父様。」
「入ってもいいかしら。」
続いて、母の優しい声も聞こえる。
リシェルはマリアと顔を見合わせ、小さく頷いた。
「どうぞ。」
扉が開き、伯爵夫妻が静かに部屋へ入ってきた。
二人の表情には、安堵と心配が入り混じっている。
「体調はどうだ。」
父が静かに問い掛ける。
「もう大丈夫です。」
リシェルは安心させるように微笑んだ。
「ご心配をお掛けしてしまい、申し訳ありません。」
母はベッドの傍らへ歩み寄ると、そっと娘の手を包み込んだ。
「謝る必要なんてないわ。あなたが無事で、本当に良かった。」
父は娘の顔をじっと見つめ、小さく息を吐いた。
「昨夜はよく眠れたか。」
リシェルは少しだけ困ったように微笑む。
「何度か目は覚めました。でも、もう大丈夫です。」
母はその言葉に安堵しながらも、心配そうに眉を寄せた。
「怖かったでしょう。」
「……はい。」
リシェルは静かに頷く。
「あんなことは初めてでした。」
父は腕を組み、静かに口を開く。
「犯人はまだ捕まっていない。」
その一言に、部屋の空気が少しだけ重くなる。
「しばらくは不用意な外出は控えなさい。街へ出る時は、これまで以上に護衛を増やす。」
「はい、お父様。」
素直に頷くリシェルを見て、父も少しだけ表情を和らげた。
「お前を守ることが、私たちの務めだ。」
母も優しく微笑む。
「落ち着いたら、またいつもの笑顔を見せてちょうだい。」
リシェルは二人を見つめ、小さく笑った。
「ありがとうございます。」
伯爵夫妻が部屋を後にすると、静かな空気が戻ってきた。
マリアは窓辺へ歩み寄り、柔らかな朝日を部屋へ取り込む。
「今日は、お部屋でゆっくりお過ごしになりますか。」
「そうね。」
リシェルは小さく頷いた。
ふと机の上を見る。
昨日買ったばかりの本と、丁寧に包まれた紅茶。
昨日は慌ただしく帰宅したため、まだ手を付けられていなかった。
「あの紅茶……。」
自然と頬が緩む。
「まだ飲んでいなかったわね。」
マリアも微笑んだ。
「せっかくでございますから、本日お淹れいたしましょうか。」
「ええ。」
リシェルは嬉しそうに頷く。
「本を読みながらいただけたら、きっと素敵な時間になるわ。」
「かしこまりました。」
マリアは包みを大切そうに手に取り、部屋を後にする。
その後ろ姿を見送りながら、リシェルは昨日まで胸を締め付けていた不安が、少しずつ遠ざかっていくのを感じていた。
しばらくして、マリアが湯気の立つティーポットを手に戻ってきた。
「お待たせいたしました。」
部屋の中へ、昨日店で嗅いだ花の香りがふわりと広がる。
「いい香り……。」
リシェルは自然と笑みを浮かべた。
マリアは紅茶をカップへ注ぎ、机の上へそっと置く。
「昨日は慌ただしくなってしまいましたので、本日ようやくお楽しみいただけます。」
「そうね。」
リシェルは昨日買った本を手に取る。
表紙を撫で、静かに目次を開く。
「やっぱり最初は目次なのですね。」
マリアがくすりと笑う。
「ええ。」
リシェルも少し照れたように笑った。
「気になるところから知りたくなるの。」
「お嬢様らしいですね。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑い合う。
リシェルは紅茶を一口含んだ。
花の香りが優しく広がり、緊張していた身体から少しずつ力が抜けていく。
「美味しい……。」
「お気に召していただけて何よりです。」
部屋へ穏やかな時間が流れる。
本をめくる音。
紅茶の香り。
窓の外から聞こえる小鳥のさえずり。
昨日まで感じていた不安は、少しずつ日常の中へ溶けていくようだった。




