第十一話 選べない未来
「相手はローゼ商会の跡取りだ。」
伯爵は、静かに告げた。
その一言に、令嬢の動きが止まる。
「……商会、ですの。」
驚きを隠しきれない声だった。
伯爵は、娘をまっすぐ見つめる。
「ああ。王都でも指折りの商会だ。代々誠実な商いで信頼を築き、今では貴族との取引も少なくない。将来は、その跡取りとして商会を継ぐ。お前が不自由することはあるまい。」
令嬢は静かに、紅茶へ視線を落とした。
父の言葉は理解できる。
ローゼ商会の名を知らぬ者はいない。
裕福で、将来も約束されている。
誰もが羨む縁談なのだろう。
それでも――。
(違う……。)
胸の奥が、小さく痛んだ。
(上のお姉様は侯爵家へ。
下のお姉様は、伯爵家へ嫁がれた。)
(なのに私は……。)
自然と唇を噛み締める。
伯爵は娘の様子を静かに見つめていた。
「何か、不満でもあるか。」
令嬢ははっと我に返る。
「……いいえ。」
小さく微笑む。
「そのようなことは、ございません。」
けれど、その笑顔はどこかぎこちなかった。
伯爵は娘をしばらく見つめていたが、それ以上は何も言わなかった。
無理に答えを急がせても、意味はない。
そう理解していたからだ。
「すぐに、返事を求めるつもりはない。」
静かな声が部屋に響く。
「少し考えてみるといい。」
令嬢は小さく目を伏せる。
「……ありがとうございます。」
伯爵はゆっくりと頷いた。
「今日はもう下がってよい。」
「失礼いたします。」
令嬢は一礼すると、静かに執務室を後にした。
扉が閉まる。
その音を背に受けながら、令嬢は小さく息を吐いた。
(まさか、こんなに早く縁談のお話が出るなんて……。)
父を責めるつもりはない。
伯爵家の娘として生まれた以上、いつかは迎える話だと分かっていた。
それでも、胸の奥に広がる重苦しさは消えなかった。
窓から差し込む柔らかな陽射しが、廊下を照らしている。
令嬢はゆっくりと顔を上げた。
(少しだけ……外の空気を吸おう。)
気持ちを落ち着かせたかった。
考えを整理したかった。
廊下で控えていた侍女へ、声を掛ける。
「少し街へ出たいの。」
侍女は主人の表情を見つめ、小さく頭を下げた。
「かしこまりました。馬車をご用意いたします。」
令嬢は安心したように、微笑む。
「ありがとう。」
やがて、伯爵家の馬車が屋敷を後にした。
王都は今日も多くの人で、賑わっている。
露店には色とりどりの果物や花が並び、焼きたての菓子の甘い香りが風に乗って流れてきた。
馬車の窓から街並みを眺めながら、令嬢は静かに目を細める。
(……少し気が紛れるといいのだけれど。)
やがて、伯爵家の馬車は王都の大通りへと入った。
石畳の道には多くの人々が行き交い、露店からは威勢の良い呼び声が響いている。
焼きたてのパンの香ばしい香り。
色鮮やかな花々。
店先へ並ぶ小物や布地。
窓の外へ広がる賑わいを眺めながら、令嬢は小さく息を吐いた。
「少しだけ歩こうかしら。」
向かいに座る侍女が、静かに頷く。
「かしこまりました。」
馬車がゆっくりと停まり、御者が扉を開く。
令嬢は侍女の手を借りながら、静かに馬車を降りた。
「今日はお天気も良くて、気持ちがいいですわね。」
「ええ、お嬢様。」
侍女も柔らかく微笑む。
二人は人混みを避けるように、大通りをゆっくりと歩き始めた。
「あら……。」
令嬢は小さな雑貨店の前で、足を止める。
店先には色とりどりのリボンや髪飾り、小さな刺繍入りのハンカチが並べられていた。
「可愛らしいわ。」
思わず零れたその一言に、店主の女性が笑顔を向ける。
「ありがとうございます、お嬢様。」
令嬢はひとつひとつ、手に取りながら眺める。
どれも手仕事ならではの温かみがあり、思わず表情が和らいだ。
「こちらの刺繍、とても素敵ですわ。」
「職人がひとつひとつ、仕上げております。」
「そうなのね。」
令嬢はもう一度、丁寧な刺繍へ目を落とした。
一針一針、心を込めて縫われたことが伝わってくる。
「とても、温かみがありますわ。」
令嬢は店主へ礼を告げると、侍女とともに店を後にした。
「今日は良い気分転換になったわ。」
侍女も穏やかに、微笑む。
「それは何よりでございます、お嬢様。」
令嬢も小さく笑みを返した。
「付き合ってくれて、ありがとう。」
「お嬢様がお元気になられて、何よりでございます。」
二人が馬車へ戻ろうとした、その時だった。
前方から、どこか賑やかな声が聞こえてくる。
「騎士団だ!」
「団長様もいらっしゃるぞ!」
通りはにわかに賑わい始め、人々が自然と道の端へ寄っていく。
令嬢は、思わず足を止めた。
「何かあったのかしら。」
侍女も人垣の向こうへ、視線を向ける。
「どうやら、騎士団の巡回のようでございます。」
「巡回……。」
令嬢は小さく呟き、人々の間からそっと前方を見つめた。
王都の治安を守る騎士団。
巡回中の姿を見ることはあっても、こうして間近で目にする機会は決して多くない。
自然と興味を惹かれた。
やがて、人垣が少し開く。
その先に、一人の青年騎士の姿が見えた。
濃紺の騎士服を端正に着こなし、背筋を伸ばして街を歩いている。
立ち止まるたびに街の人々へ穏やかに言葉を掛け、その表情には驕りも気負いもない。
その姿は、ただ職務を全うする一人の騎士だった。
しかし、不思議と人々は安心したような笑みを浮かべ、自然と道を譲っていく。
令嬢は思わず目を奪われた。
「あのお方は……。」
護衛もその先へ、目を向け、小さく頷く。
「あちらのお方は、ヴァルフォード公爵家ご次男、レオン・ヴァルフォード様でございます。現在は騎士団長を務めておられます。」
令嬢は驚いたように、目を瞬かせた。
「騎士団長……。」
「はい。」
護衛は、静かに続ける。
「若くして団長へ就任されましたが、そのお人柄から騎士だけでなく、王都の民からの信頼も厚いお方でございます。」
令嬢は再びレオンへ視線を向ける。
そこには、年配の女性へ穏やかに声を掛ける姿があった。
どこか誇示するような振る舞いはない。
ただ当たり前のように、人々へ寄り添っている。
(あの方が……。)
令嬢は小さく息をのんだ。
「お嬢様、お時間でございます。」
侍女の声に、令嬢ははっと我に返る。
「……ええ。」
馬車へ乗り込む直前、もう一度だけ振り返る。
しかし、その視線にレオンが気付くことはなかった。




