第十話 それぞれの思惑
グランディール伯爵家。
「失礼いたします。」
黒い外套をまとった男が、伯爵の執務室へ一礼した。
「戻りました。」
伯爵は手を止めることなく問い掛ける。
「報告を。」
「はい。」
男は静かに口を開いた。
「ローゼ商会につきましては、特に変わった動きはございません。」
伯爵は黙って耳を傾ける。
「ただ――。」
男は一度言葉を区切った。
「先日ご報告したアストレア伯爵家の令嬢を、再び街で見掛けました。」
伯爵の視線がゆっくりと上がる。
「ほう。」
「前回と同じ騎士と接触しておりました。会話の内容までは確認できておりません。ですが、以前と同様に短時間ではございました。」
伯爵は椅子の背にもたれ、ゆっくりと指を組んだ。
表情は変わらない。
だが、その瞳だけがわずかに細められる。
「……そうか。」
やがて、静かに口を開く。
「アストレア伯爵令嬢の動向を注視しろ。」
「承知いたしました。」
「不用意に手を出すな。現時点では、何も分かっておらん。こちらから動くのは、その後だ。」
「はっ。」
男は一礼すると、静かに執務室を後にした。
扉が閉まると、ほどなくして控えめなノックが響く。
「お父様、入ってもよろしいでしょうか。」
伯爵は短く答えた。
「ああ。」
ゆっくりと扉が開く。
現れたのは、一人の若い令嬢だった。
艶やかな栗色の髪はゆるやかに結い上げられ、淡い藤色のドレスがその白い肌によく映えている。
どこか幼さを残す愛らしい面差し。
大きな瞳には素直さが宿り、柔らかな笑みは人当たりの良さを感じさせた。
姉たちのような華やかな美貌ではない。
けれど、誰からも親しまれるような可憐さを持つ令嬢だった。
「お仕事中でしたのね。」
少し申し訳なさそうに微笑む。
先ほどまで厳しい表情を崩さなかった伯爵も、娘を見ると、わずかに表情を和らげた。
「いや、ちょうど話は終わったところだ。」
令嬢はほっとしたように胸を撫で下ろす。
「でしたら、お茶をご一緒できたらと思いまして。
今日は、お父様がお屋敷にいらっしゃると聞いたものですから。」
伯爵は静かに頷いた。
「構わん。」
その言葉に、令嬢の表情がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます。」
ほどなくして、使用人が紅茶と焼き菓子を運んできた。
香り高い紅茶がカップへ注がれ、部屋に穏やかな香りが広がる。
伯爵は静かにカップを手に取った。
令嬢も向かいへ腰を下ろし、小さく微笑む。
「こうして、お父様とお茶をご一緒するのも、久しぶりですわね。」
「ああ。」
伯爵は静かに頷いた。
「最近は、お姉様方からのお手紙も届いておりますの。」
「ほう。」
「上のお姉様は侯爵家の秋の園遊会でお忙しいそうですし、下のお姉様も伯爵領の視察へ出掛けられたそうです。お二人とも、お変わりなくお過ごしのようでした。」
伯爵は、どこか嬉しそうに目を細めた。
「二人とも、それぞれ立派に務めを果たしているようだな。」
「はい。」
令嬢も微笑む。
けれど、その笑みはほんのわずかに揺らいだ。
紅茶へ視線を落とし、静かにカップを持ち上げる。
温かな紅茶が喉を通る。
それでも胸の奥に残る小さな引っ掛かりは消えなかった。
(お姉様方は、皆それぞれ立派なお家へ嫁がれて……。)
自然と指先へ力が入る。
(私は……。)
その先の言葉は、自分でも口にしたくなかった。
伯爵はそんな娘の様子に気付いたのか、静かにカップを置いた。
「どうした。」
令嬢ははっと顔を上げる。
「……いいえ。」
すぐに笑顔を作る。
「少し考え事をしてしまいました。」
伯爵は、静かに娘を見つめた。
「一つ、話しておきたいことがある。」
令嬢はカップをそっと置く。
「何でしょうか。」
伯爵は少し間を置いた。
「お前も、そろそろ将来を考える年頃だ。」
令嬢は小さく頷く。
その言葉の意味は、分かっていた。
いつかは必ず訪れる話。
そう思っていたからだ。
「縁談の話がある。」
静かな一言だった。
令嬢は驚いたように、父を見つめる。
伯爵は娘の反応を見つめながら、ゆっくりと口を開く。
「相手は──。」
その言葉を聞いた瞬間。
令嬢の表情から、笑みが静かに消えた。




