第四話 それぞれの違和感
リシェルは静かに視線を落とした。
「では……。」
問い掛けようとして、言葉を止める。
エルネストは、その続きを察したように穏やかに微笑んだ。
「証拠がございません。」
静かな一言だった。
「違和感だけでは、人を救うことも、人を裁くこともできません。」
リシェルは胸の奥で、その言葉を繰り返した。
(違和感だけでは……。)
エルネストは、ティーカップを手に取り、小さく息をつく。
「ですが。」
穏やかな瞳がリシェルを見つめる。
「違和感を見過ごした時、人は真実から遠ざかります。だから私は、小さな違和感ほど、大切にしたいのです。」
リシェルは静かに頷いた。
「私も……そう思います。」
ふと、脳裏に付箋の文字が浮かぶ。
【七日後 無実の人を救います】
(この未来には、きっと意味がある。)
その頃――。
騎士団本部。
「失礼いたします。」
ノアは執務室の扉を叩き、一礼した。
「巡回より戻りました。」
執務机で書類に目を通していたレオンが、静かに顔を上げる。
その傍らでは、副団長も資料へ視線を落としていた。
「異常は。」
短い問いに、ノアは姿勢を正したまま答える。
「ございません。」
一拍置き、続けた。
「ですが、ご報告がございます。」
レオンは、ノアを真っ直ぐ見据える。
「報告しろ。」
「はっ。」
ノアは再び一礼した。
「巡回中、アストレア伯爵令嬢とお会いいたしました。」
副団長が、静かに顔を上げる。
レオンの表情は変わらない。
「何かあったのか。」
「横領事件について、お話を伺いました。」
ノアは落ち着いた口調で、続ける。
「伯爵様は、『証拠が揃っていたとしても、それだけで人を疑ってはならない』と仰っていたそうです。」
副団長は小さく頷いた。
「なるほど。伯爵らしいお考えだ。」
レオンは黙って、ノアを見つめている。
その沈黙に促されるように、ノアは続けた。
「そのお話を伺い、私も改めて事件を振り返りました。証拠に、不自然な点はございません。」
一度言葉を切る。
「ですが……。」
レオンが静かに問う。
「何だ。」
「どうしても、判断しかねる点がございます。」
執務室に静けさが落ちた。
副団長が腕を組む。
「具体的には。」
ノアは二人へ、視線を向ける。
「証拠も証言も、あまりにも一人へ集まり過ぎております。……まるで。」
わずかに、言葉を選ぶ。
「最初から、その人物を犯人とするために整えられていたような印象を受けました。」
レオンは、何も答えなかった。
静かに机上の書類へ、視線を落とす。
執務室には、しばし沈黙が流れた。
ノアも副団長も、その沈黙を破ろうとはしない。
やがて、レオンが口を開く。
「証拠は。」
「現時点では、不自然な点は確認されておりません。」
ノアは姿勢を正したまま、答えた。
「証言は。」
「互いに大きな食い違いはございません。」
レオンは小さく頷く。
副団長が、資料へ目を落とした。
「状況だけを見れば、事件は解決している。」
「はい。」
ノアも静かに頷く。
レオンは指先で、机を軽く叩いた。
一定の間隔で、小さな音だけが執務室へ響く。
「……だからこそ。」
その一言に、ノアと副団長が同時に顔を上げた。
「違和感が残る。」
副団長は、静かに息を吐く。
「団長も、同じことをお考えでしたか。」
レオンは、書類へ視線を落としたまま答えた。
「証拠が、揃い過ぎている。偶然にしては、出来過ぎだ。」
ノアも静かに頷く。
「私も、同じ印象を受けました。」
副団長は腕を組み、ゆっくりと頷いた。
「私も、もう一度資料を見直す必要があると思います。」
しばらくの沈黙のあと、レオンは静かに書類を閉じた。
「事件資料を。」
副団長は、すぐに立ち上がる。
「承知しました。」
書棚から事件資料を取り出し、丁寧に机へ置いた。
ノアも一歩前へ出る。
「巡回記録も改めて確認いたします。」
レオンは短く頷く。
「思い込みは視野を狭める。」
静かな声だった。
「事実を一つずつ積み重ねる。」
副団長は、小さく笑みを浮かべた。
「団長らしいお言葉です。」
レオンは答えない。
事件資料へ、静かに手を伸ばす。
「最初から確認する。」
「はっ。」
ノアと副団長の返事が重なった。
エルネストと別れたリシェルは、商会を後にした。
護衛騎士に導かれ、馬車へ乗り込む。
ゆっくりと、馬車が動き出した。
窓の外には、いつもと変わらぬ王都の景色が流れていく。
行き交う人々。
威勢よく声を張る商人。
笑いながら駆けていく子どもたち。
平穏な日常は、何一つ変わっていないように見えた。
けれど、リシェルの胸には、静かな違和感だけが残っていた。
エルネストの言葉が、静かによみがえる。
――違和感だけでは、人を救うことも、人を裁くこともできません。
リシェルは静かに、胸へ手を添えた。
目の前には、変わらず付箋が浮かんでいた。
【七日後 無実の人を救います】
リシェルは、その文字を静かに見つめる。
(それでも――。)




