第ニ話 違和感の先に
「先日は、大変お世話になりました。」
リシェルは穏やかに微笑み、軽く会釈した。
ノアも表情を和らげる。
「そのようなお言葉をいただくほどのことではございません。」
もう一度、一礼する。
「お元気そうで何よりです、アストレア伯爵令嬢。」
「ありがとうございます。」
リシェルも小さく頷いた。
「本日は巡回中でいらっしゃいますか。」
「はい。」
騎士は周囲へ一度、視線を向けてから答える。
「本日は、この周辺を巡回しております。」
その穏やかな口調に、リシェルも自然と笑みを浮かべた。
「王都は今日も賑やかですね。」
リシェルが通りへ目を向ける。
「ええ。」
ノアも人々の行き交う様子を見渡した。
「何事もなく一日が終わることが、私たち騎士にとっては何よりです。」
リシェルは小さく頷く。
「そうですね。」
ふと、以前耳にした話を思い出した。
「そういえば……。」
ノアが視線を戻す。
「少し前に、横領事件で街が騒がしくなっていたと伺いました。」
ノアの表情が、わずかに引き締まる。
「ええ。」
短く頷く。
「騎士団でも調査は進められております。」
その言葉に、リシェルは静かに頷いた。
「父も、その話を耳にしておりました。」
「伯爵様もですか。」
「はい。」
リシェルは穏やかな口調のまま続ける。
「証拠が揃っていたとしても、それだけで人を疑うのは危うい、と申しておりました。」
ノアは静かに目を伏せた。
「……伯爵様らしいお考えです。」
少しだけ間が空く。
「実は、私も同じようなことを考えておりました。もちろん、私一人の考えに過ぎません。」
そう、前置きしてから続ける。
「騎士団でも、いくつか判断しかねる点がございます。」
リシェルは、その言葉を静かに胸の中で繰り返した。
(判断しかねる点……。)
父の言葉が、ふと脳裏をよぎる。
――証拠だけで、人を疑ってはならない。
穏やかだった表情が、少しだけ真剣なものへと変わる。
「……判断しかねる点、ですか。」
「はい。」
ノアは小さく頷いた。
「もちろん、私が詳しくお話しできる立場ではございません。」
巡回中の騎士として、その一線は越えない。
リシェルも、それを理解していた。
「ですが。」
ノアは人通りの多い通りへ視線を向ける。
「証拠だけを見れば、間違いなく犯人と思えるのです。」
一拍置き、静かに続けた。
「それでも……どうしても腑に落ちない点がございます。」
その言葉に、リシェルは小さく息をのむ。
「腑に落ちない……。」
ノアは静かに頷いた。
「ええ。」
「私も巡回の途中で何度か話を耳にしましたが、皆、口を揃えて『犯人に違いない』と。」
その表情は、穏やかなままだった。
「ですが、真実は時に、人の思い込みとは違うところにあるのかもしれません。」
リシェルは静かに頷いた。
「父も、よく申しております。」
ノアは視線を向ける。
「どのようなお言葉でしょうか。」
「証拠が揃っていたとしても、それだけで人を疑ってはならない、と。」
その言葉に、ノアは小さく目を見開いた。
やがて、静かに微笑む。
「そのお考えには、深く頷けます。」
少しだけ肩の力が抜けたようだった。
「私も、そのお言葉に救われた気がいたします。」
リシェルは首をかしげる。
「救われた……ですか。」
「はい。」
ノアは苦笑する。
「騎士は国と民を守るために剣を執ります。」
ノアは穏やかな表情のまま続ける。
「だからこそ、人を裁く時こそ慎重でなければならないと教えられております。今回の件は……どうしても、その教えが頭を離れないのです。」
一瞬、街を行き交う人々へ視線を向ける。
リシェルも静かに街並みを見つめた。
人々は、普段と変わらぬ表情で行き交っている。
けれど、その中に一人でも無実の人がいるのだとしたら——。
胸の奥が、わずかに痛んだ。
ノアは静かに一礼した。
「失礼いたします。 巡回へ戻らせていただきます。」
リシェルは穏やかに微笑む。
「いいえ。お話を聞かせていただき、ありがとうございました。」
「こちらこそ。」
ノアも静かに頭を下げた。
「それでは、失礼いたします。」
「はい。」
ノアは再び巡回へ戻っていく。
その背中を見送りながら、リシェルは小さく息を吐いた。
(判断しかねる点……。)
その言葉は、いつまでも胸の中へ残っていた。
リシェルは商会へ向き直り、一歩を踏み出す。
その様子を見届けるように、一つの影が静かに物陰から離れる。
黒い外套を翻したその人物は、人混みへ紛れるように姿を消した。




