第三話 失って知るもの
静かなサロンに、紅茶の香りが漂っていた。
侯爵夫人は、ティーカップを手に取る。
向かいには、侯爵が静かに腰を下ろしている。
しばらくは、二人とも何も話さなかった。
庭園から聞こえる小鳥のさえずりだけが、穏やかな午後を彩っている。
侯爵夫人は、小さく微笑んだ。
「可愛らしいお嬢さんだったわ。」
侯爵は静かに頷く。
「そうか。」
「ええ。」
侯爵夫人は紅茶を口に運び、さらに続けた。
「まだ、セドリックとはそこまでの付き合いではないようよ。」
侯爵の手が、わずかに止まる。
「そうか。」
短く、返しただけだった。
侯爵夫人は、夫の表情を見つめる。
「あなた?」
侯爵は、静かにティーカップをソーサーへ戻した。
「……少し、話をしよう。」
穏やかな声だった。
だが、その穏やかさが、かえって侯爵夫人の胸をざわつかせた。
侯爵夫人は、夫の様子を静かに見つめた。
長年連れ添ってきたからこそ、分かる。
その表情は、何か大きな決断を下した時のものだった。
「……何があったのですか。」
侯爵は、すぐには答えなかった。
しばらく、紅茶の湯気を見つめる。
やがて、小さく息を吐いた。
「今日、セドリックを書斎へ呼んだ。」
侯爵夫人は驚いたように、目を見開く。
侯爵は静かに頷く。
「家の今後について、話をした。」
穏やかな口調だった。
しかし、その一言だけで、侯爵夫人は話の重さを悟る。
「……あの子に、お伝えになったのですね。」
侯爵は妻を見つめ、静かに頷いた。
「もう、避けては通れぬ話だからな。」
侯爵は静かに目を閉じる。
「婚約解消によって失ったものは、共同事業だけではなかった。」
侯爵夫人は、黙って耳を傾ける。
「アストレア伯爵家との縁がなくなったことで、商会との契約も、出資の話も、次々と見直しが入っている。」
侯爵夫人の表情から、笑みが消えた。
「……そこまで。」
侯爵は、静かに頷く。
「私も、ここまでとは思わなかった。」
サロンに、沈黙が落ちる。
窓の外では、小鳥が穏やかにさえずっていた。
だが、その穏やかな音色とは裏腹に、侯爵の言葉は重く響く。
「家を守るためには、失ったものを埋めなければならない。」
侯爵夫人は、夫の顔を見つめた。
その表情を見た瞬間、胸の奥が小さく締め付けられる。
「……あなた。」
侯爵は、ゆっくりと口を開いた。
「セドリックには、新たな役目を果たしてもらうことになる。」
侯爵夫人は、そっと目を伏せた。
「あの子は……。」
小さく息をつく。
「大切なものを失って、ようやくその重さに気付いたのですね。」
その声は、責めるものではなかった。
母として、息子を案じる悲しみが滲んでいる。
侯爵は静かに頷いた。
「恋をしたことを責めるつもりはない。だが、貴族には貴族の務めがある。婚姻とは、家と家を結ぶもの。その責任を果たせなかった以上、失ったものは、一人では背負いきれぬ。」
侯爵は一度言葉を切る。
「幸い、セドリックは次男だ。」
「嫡男であれば、侯爵家そのものが立ち行かなくなっていたかもしれん。」
侯爵夫人は静かに目を閉じる。
「……ええ。」
「一族を危険へ晒してしまったことに、変わりはありませんものね。」
静かな沈黙が流れる。
庭園から聞こえる小鳥のさえずりだけが、穏やかな午後を彩っていた。




