第十話 父の教え
夕暮れの柔らかな陽射しが、アストレア伯爵邸を淡く照らしていた。
馬車から降りたリシェルは、小さく息をつく。
「お嬢様、お怪我がなくて本当に安心いたしました。」
隣を歩くマリアが、胸をなで下ろすように微笑む。
「マリアにも、心配を掛けてしまったわ。」
リシェルは、穏やかに微笑み返した。
その右手には、丁寧に畳まれた白いハンカチが、大切に握られている。
屋敷へ入ると、使用人たちが一斉に頭を下げた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。」
「戻りました。」
短く挨拶を交わしたリシェルは、ハンカチへそっと視線を落とす。
――きちんと、お返ししなくては。
その思いが、胸の中で静かに形になり始めていた。
「マリア。」
「はい、お嬢様。」
「少し、お父様の執務室へ寄って行きます。」
マリアは、すぐに察したように微笑む。
「かしこまりました。」
リシェルはハンカチを大切に持ち直すと、静かに廊下を歩き始めた。
執務室の前へ着くと、中から父と執事の話し声が、聞こえてきた。
リシェルは、ノックしようとした手を止める。
「例の件は、どうなっている。」
父の落ち着いた声だった。
「はい。」
執事が静かに答える。
「帳簿には、不自然な点が見受けられます。」
「ですが、決定的な証拠は、まだ見つかっておりません。」
父は少しの間、考え込むように沈黙した。
やがて、静かに口を開く。
「証拠が揃わぬうちに、人を罪人扱いすることは、許されん。」
「たとえ疑いが濃厚であっても、それだけでは、足りない。」
執事は深く頷く。
「承知しております。」
「無実の者を守ることもまた、我々の責務だ。」
その言葉に、リシェルは胸の奥が小さく震えるのを感じた。
(お父様……。)
付箋は、【横領しています】と告げている。
けれど、お父様のおっしゃる通り――
今は、まだ証拠がない。
だからこそ、誰も断罪してはならないのだ。
その時だった。
「リシェル。」
父の声が、静かに扉越しに響く。
「そこにいるのだろう。」
リシェルは、はっと息を呑む。
「……はい。」
「入りなさい。」
「失礼いたします。」
リシェルは静かに扉を開け、執務室へ足を踏み入れた。
執事は一礼すると、静かに一歩後ろへ下がる。
伯爵は娘を見つめ、穏やかに微笑んだ。
「何か、私に用があったのだろう?」
伯爵は、リシェルの表情を静かに見つめた。
「それから。」
穏やかな声が、静かな執務室に響く。
父は穏やかに、微笑んだ。
「街での出来事は、マリアから報告を受けている。
怪我がなかったと聞いて、安心した。」
その一言に、リシェルは自然と表情を和らげた。
「ご心配を、お掛けいたしました。」
父は、静かに首を横へ振る。
「無事で、何よりだ。」
伯爵の視線が、リシェルの手元へ向く。
白いハンカチ。
「そのハンカチについて、相談があるのだろう?」
リシェルは一瞬、手元へ視線を落とす。
白いハンカチをそっと、両手で持ち直した。
「実は……。」
今日、王都で起きた出来事を、一つひとつ丁寧に話し始める。
ラフィーネへ立ち寄ったこと。
書店へ向かう途中、男たちに襲われたこと。
騎士団が駆け付けてくれたこと。
そして――。
「騎士団長、レオン・ヴァルフォード様が、このハンカチを貸してくださいました。」
伯爵は、最後まで口を挟まなかった。
ただ静かに頷きながら、娘の話へ耳を傾ける。
話し終えると、執務室には小さな静寂が流れた。
「……なるほど。」
伯爵は穏やかに口を開く。
「それで、お前はどうしたい。」
リシェルは、迷うことなく答えた。
「きちんと、お礼を申し上げたいと思っております。」
「このハンカチも、お返ししたくて……。」
父は小さく目を細めた。
その答えを聞き、どこか安心したような表情を浮かべる。
「そう、思ったのだな。」
「はい。」
父はゆっくりと頷いた。
「それでいい。」
短い言葉だった。
だが、その一言だけで、リシェルの胸のつかえが、少し軽くなる。
「礼を尽くしたいと、思えること。それは、お前自身が誠実であるということだ。アストレア家の娘だからではない。リシェル、お前自身の美徳だ。」
伯爵は、リシェルの手にある白いハンカチへ、静かに視線を向けた。
「レオン・ヴァルフォード殿か。」
その名を口にすると、どこか懐かしむように、目を細める。
「私も、何度か顔を合わせたことがある。実直で、誠実な人物だったと、記憶している。」
リシェルは、そっと胸を撫で下ろした。
父の口からそのような言葉を聞き、不思議と心が軽くなる。
伯爵は、穏やかに微笑む。
「安心して、お礼を伝えてきなさい。」
「礼を尽くそうとする者の心は、きっと相手にも伝わる。」
「はい。」
リシェルは静かに頷いた。
その返事には、先ほどまでの迷いはもうなかった。
父は満足そうに娘を見つめる。
「アルフレッド。」
「はい、旦那様。」
「騎士団へ、娘がお礼に伺いたい旨を伝えてくれ。」
「都合のよい日時を確認してくれ。」
「承知いたしました。」
執事は静かに一礼し、部屋をあとにした。
その背中を見送りながら、リシェルは胸元の白いハンカチを、そっと握りしめる。
――もう一度、お会いできる。
そう思うと、不思議と胸が少しだけ高鳴った。




